高田せい子

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たかた せいこ
高田 せい子
高田 せい子
本名 中村 せい (旧姓 不詳)
別名義 原 せい子
生年月日 (1895-09-13) 1895年9月13日
没年月日 (1977-03-19) 1977年3月19日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本 石川県金沢市
職業 舞踊家
ジャンル バレエオペラ舞踊
活動期間 1915年 - 1977年
配偶者 高田雅夫本名 中村輝義)
主な作品
湖底の夢
沈黙の苑
 
受賞
紫綬褒章
勲四等宝冠章
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高田 せい子(たかた せいこ、1895年明治28年)9月13日 - 1977年昭和52年)3月19日[1])は、日本の舞踊家である。旧芸名は原 せい子(はら-)、本名は中村 せい(なかむら-、旧姓不詳)[1]。夫の舞踊家・高田雅夫と行動をともにし、「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍し、夫の早世後も、創作舞踊を発表しつづけた[1]

人物・来歴[編集]

1895年(明治28年)9月13日石川県金沢市に「せい」として生まれる[1]。旧姓は不詳。

東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学した。同学を中退後、内幸町帝国劇場歌劇部のオペラ指導者のローシーに学んだ[1]。同部は1916年(大正5年)に解散になり、ローシーが10月に赤坂・ローヤル館を開業し、オペラ興行を行った。原せい子は、高田雅夫らとともにこれに参加した。芸名の姓は、原信子にちなむ。

1918年(大正7年)、23歳を迎える年に、同い年の高田雅夫と結婚[1]、以降、高田せい子を芸名とした。ローヤル館は、1919年(大正8年)2月には解散となる。ローシーは渡米、同年5月、松竹浅草公園六区の浅草オペラに参入し、「新星歌舞劇団」を結成した。高田夫妻はこれに参加する。1920年(大正9年)8月、根岸興行部三代目の根岸吉之助が、「新星歌舞劇団」から、高田夫妻、清水金太郎清水静子夫妻、田谷力三堀田金星らローヤル館出身者を引き抜き、「根岸大歌劇団」を結成した。同年10月11日に根岸が経営する「金龍館」で旗揚げ公演を行った。金龍館と同歌劇団を中心に、浅草オペラは花ひらいた。

その絶頂期である1922年(大正11年)、夫とともにヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国へと発ち、その各地で舞踊を研究した[2]。1923年(大正12年)9月1日、日本は関東大震災に見舞われ、首都は壊滅、浅草六区も崩壊し、浅草オペラは終焉に向かったが、高田夫妻は翌1924年(大正13年)に帰国、同年、高田舞踊研究所を開いた[1][2]

1929年(昭和4年)5月24日、満33歳で夫の高田雅夫が死去した[2]。夫の没後も創作舞踊を発表しつづけた[1]1932年(昭和7年)から1941年(昭和16年)まで、二階堂トクヨ日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)で西洋舞踊を指導した[3]

1939年(昭和14年)10月、朝鮮藝術賞の舞踊部門の審査員に石井漠とともに名を連ねる。またこのころ、石井の弟子の舞踊家・崔承喜と人気を競った。

1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終結、戦後は高田門下の山田五郎とともに高田・山田舞踊団を主宰した[1]。1950年(昭和25年)、現代美術自選代表作十五人展が開かれた際、児島善三郎が描いた旧作洋画『スペイン装の高田せい子女史』(制作年不詳)が出品された。

1959年(昭和34年)、全日本芸術舞踊協会(現在の現代舞踊協会)を結成、会長に就任した。同年、紫綬褒章を受章、1970年(昭和45年)には勲四等宝冠章を受章した。江口隆哉平岡斗南夫小沢恂子安藤哲子三輝容子ら多くの舞踊家を育てた。

1976年(昭和51年)、現代舞踊協会の会長を退き名誉会長となった1年後、1977年(昭和52年)3月19日、死去した[1]。満81歳没。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j コトバンクサイト内の記事「高田せい子」の記述を参照。
  2. ^ a b c コトバンクサイト内の記事「高田雅夫」の記述を参照。
  3. ^ 村山 2004, p. 54.

参考文献[編集]

  • 村山茂代「二階堂トクヨとダンス―ダンスの研究と指導について―」第34号、日本女子体育大学紀要、2004年3月、NAID 120005906249 

関連項目[編集]