高津戸城

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高津戸城
群馬県
城郭構造 山城
築城主 山田筑後守則之
築城年 承徳・康和年間
主な城主 山田氏など
廃城年 不明
遺構 堀切、竪堀井戸土塁[1]
指定文化財 史跡等未指定[2]
※山麓の「山田氏及び里見兄弟の墓」は市指定史跡に指定されている[3]
位置 北緯36度26分18秒 東経139度16分53秒 / 北緯36.43833度 東経139.28139度 / 36.43833; 139.28139 (高津戸城)座標: 北緯36度26分18秒 東経139度16分53秒 / 北緯36.43833度 東経139.28139度 / 36.43833; 139.28139 (高津戸城)
地図
高津戸城の位置(群馬県内)
高津戸城
高津戸城
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高津戸城(たかつどじょう)は、群馬県みどり市高津戸地区にあった日本の城山城)。高津戸渓谷東岸の崖上に築かれた城。本丸は要害山の山頂にあり今では本丸跡に要害神社がある。

伝承[編集]

承徳康和年間(1097年-1104年)に山田氏によって築かれたと伝わる。しかし観応2年(1351年)十代目山田筑後守則之(範行とも記す)の代、桐生国綱の家臣である谷(やつ)四郎直綱に攻め滅ぼされた。この後に入ったのは里見氏である。

里見氏の七代目の義連の三男仁田山氏連が国綱の娘を正室に迎え、その縁で建徳2年(1371年)に仁田山八郷を国綱からまかされたのである。なお仁田山城は山田氏の旧居城である。仁田山里見氏が支配していた高津戸城であったが、氏連より四代後の宗連が越後上杉謙信に攻められ自刃して果てた。天正2年(1574年)9月のことである。

房州の里見実堯(勝広)は仁田山に住む一族の宗連の許に身を寄せていたが、この宗連の死によって桐生に移って桐生氏の客分となった。そして実堯は二子、勝政と勝安を上杉謙信に託した。ところがこれが桐生親綱に内通と誤解され、元亀元年(1570年)3月20日に詰め腹を切らされた。

越後の上杉謙信の元にいた兄弟は親の仇を打ちたいと天正4年(1576年)10月に高津戸城に隠れ、その翌年5月2日用明の砦を襲ったが、城主石原石見守を取り逃がしてしまう。石原石見守は由良国繁に属していたため、兄弟は由良国繁の怒りを受けて攻められ天正6年(1578年)9月18日弟勝安は深手を受けて討死、兄勝政は城兵の助命を条件に切腹して果てた。兄の随見勝政28歳、弟の勝安25歳であった。

要害山の城跡自体は史跡等の文化財未指定だが、山麓の阿弥陀堂にある里見兄弟の墓と伝えられる中世墓群は、1976年(昭和51年)5月12日にみどり市指定史跡に指定されている[3]

しかし『大間々町誌』によると、里見兄弟の伝説はそれを裏付ける同時代史料がなく、里見氏の系譜に勝広らの名もなく[3]、また由来に登場する桐生氏も後世の軍記物にしかみえない状態のため、一連の伝説は後世に創作された物語である可能性が高い。

構造[編集]

多数の平場から成り、堀切、竪堀井戸などが残る。一方で明瞭な虎口は見当たらず、土塁もわずかしか見られない[1]

アクセス[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 池田光雄「高津戸城」『中世城郭研究』第11号、中世城郭研究会、1997年、表紙に高津戸城の縄張図掲載、見返しに「表紙図版解説」あり、ISSN 0914-3203 

関連項目[編集]