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高橋輝彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋 輝彦
1936年当時の東京セネタースメンバー。
後列左から8人目が高橋。
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県
生年月日 1914年4月29日
没年月日 没年不明1993年4月1日2003年3月1日の間)
身長
体重
168[1] cm
62[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手二塁手三塁手遊撃手外野手[2]
プロ入り 1936年
初出場 1936年4月29日[3]
最終出場 1941年7月3日[4]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

高橋 輝彦(たかはし てるひこ、1914年4月29日 - 没年不明1993年4月1日2003年3月1日の間)[5])は、神奈川県出身のプロ野球選手

来歴・人物

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神奈川県立商工実習学校(現:神奈川県立商工高等学校)時代には春1回(1931年)、夏2回(1928年1931年甲子園に出場した。

その後、専修大学に進学し、遊撃手として活躍。1935年秋季の東都大学リーグ戦では打率.346をマークしている[1]。また身長五尺五寸三分、体重十六貫五百匁で趣味は映画鑑賞だったと伝わる[1]

1936年東京セネタースの結成に参加(そのため、専大を中退)。苅田久徳,中村信一,綿貫惣司と共に「百万ドル内野陣」と呼ばれる鉄壁の守備を形成した。本職は三塁手だったが、内外野どこでも守れるユーティリティプレイヤーぶりを発揮した。打撃面も良く、1936年春夏リーグでは全選手中最多となる18打点(但し、このシーズンに限り最多打点としてのタイトル表彰はなし)を記録。1936年秋季リーグでは打率.275で打率ベストテン入り(8位)をした。また選球眼も優れており、四球の数が三振を上回っていた。しかし1936年シーズン終了後、1度目の応召1940年復帰したが、1942年に2度目の応召

戦後はプロ野球に戻らず、1946年からノンプロの豊岡物産(主将に選出)でプレーし、日本球界初の天覧試合にも出場。その後、現役引退。

引退後は、アマチュア野球の指導に携わった。まず母校・神奈川県立商工高等学校の監督を務め、1950年夏の甲子園に導いた。当時の教え子に大沢啓二がいる。その後、馬渕建設(ノンプロ)、母校である専修大学の監督を経て、1965年横浜高等学校の監督に就任。コーチであった渡辺元智を指導し、横浜高校を高校野球の強豪校となる下地を作った。1967年限りで、監督の座を渡辺に譲って退任。渡辺によれば、「高橋輝彦前監督は専修大学野球部の黄金時代を築いた監督で、実に紳士的で野球理論も卓越していた」と高橋の博識・性格を評価している[6]

また、妹の園子も「自慢の兄だった」と生前に話している。大甥の角田祐介は甲子園に連れて行ってもらった事がある。

没年日時ははっきりと分かっていないが、専修大学の体育会70周年記念式典で感謝状(体育会長、各部・同好会の部長、監督、OB会長を務め、対象期間中に逝去された方)を送られた記述があり[5]、それによると、1993年4月1日2003年3月1日の間に死去した。享年は78~88の間である。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1936 東京セネタース
16 69 56 15 13 2 0 2 21 18 4 -- 1 -- 12 -- 0 4 -- .232 .368 .375 .743
1936秋 28 121 102 16 28 10 1 0 40 17 7 -- 0 -- 19 -- 0 10 -- .275 .388 .392 .780
1940 27 91 77 14 19 1 0 0 20 7 8 -- 0 0 14 -- 0 10 -- .247 .363 .260 .623
1941 大洋軍 27 107 85 9 10 1 1 0 13 3 2 -- 6 -- 16 -- 0 15 -- .118 .257 .153 .410
通算:3年 98 388 320 54 70 14 2 2 94 45 21 -- 7 0 61 -- 0 39 -- .219 .344 .294 .638
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 1 (1936、1940年)[7]
  • 5 (1941年)[8]

脚注

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関連項目

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外部リンク

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