高橋貞子 (1868年生)

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高橋 貞子(たかはし さだこ、1868年 - ?)は、日本明治時代から大正時代にかけての人物。岡山県和気郡和気町出身[1]超心理学者である福来友吉に、透視念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。ホラー小説および映画作品『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来[2]、または山村貞子のモデルとの説もある[3][4]。明治末期に超能力者とされた御船千鶴子長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い[5]

夫・高橋宮二のもとでの実験[編集]

貞子の夫・高橋宮二は超心理学の専門家ではなかったが、独自に精神修養のための呼吸法を研究しており、貞子も彼に倣ってこれを実践しているうちに、精神統一の方法を学んだ。宮二はこれを通じ、貞子に霊的能力があると感じたという[1]

宮二が貞子の能力に気づいたのは、奇しくも長尾郁子の初の念写実験が行われた1910年(明治43年)11月12日とされ、夫妻は当時、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生活していた。福来の著書『透視と念写』によれば同日、貞子は宮二に、自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。宮二はウィジャボードを試したところ、貞子は清原千鶴子(御船千鶴子のこと、清原は千鶴子の義兄の姓)のように千里先を見通すと出た。これにより宮二は貞子に透視実験の提案をした[6]。同月より、字を書いた紙や物を箱に入れて透視するという方法で、20回以上にわたって実験が行われた。この経緯は福来の『透視と念写』にまとめられており、貞子はことごとく透視を成功させたとある[7]

福来友吉のもとでの実験[編集]

当時、貞子たちは鵜澤總明の邸宅内の一戸に住んでおり、鵜澤が福来と面識があったことから、鵜澤の紹介を通じて福来が貞子に関心を示し、福来のもとで実験の行われる運びとなった。この実験では、貞子は精神統一の後、あたかも別の人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行った。これが御船千鶴子や長尾郁子と異なる大きな特徴であり[3][8]、福来はこの別人格を「霊格」と呼んだ[9]

1913年(大正2年)3月2日の最初の実験では、高橋宅の近くの医師の家で、久保良英後藤牧太桑田芳蔵今村力三郎らの同席のもと、福来が持参して隠し持っていた写真乾板に念写を行うことが試みられたが、結果としてその福来の乾板への念写は成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた。貞子の能力は福来のほうではなく、その医師宅の乾板のほうへ向かったものとも解釈できたが、この実験に学術的価値はないと認めざるを得ず[9][10]、第1回実験は失敗と見なされた[11][12]

翌月の4月27日には第2回、5月10日には第3回実験が行われた。第2回には久保と高橋穣(心理学者)、第3回には久保、後藤、桑田、井上哲次郎筧克彦が立ち会い、いずれも場所は福来の自宅で、福来が用意して封をしていた乾板への念写が試みられた[10]。前述の『透視と念写』などの福来の著書によれば、第2回では貞子は「妙法」の字を念写してみせ、さらに第3回には、「天」の1字と自分の指3本の念写に成功した[9][11]。福来はこれらの実験結果をもって、貞子の透視や念写能力を事実と確信するに至った[13]。宮二は福来を深く信頼し、貞子を学会研究のために献上することを宣言した[9][10]

かつて福来による長尾郁子の念写実験においては、同席していた物理学者・山川健次郎が、乾板に外部から放射線を当てることで感光させたと懐疑していたが[14]、この福来による貞子の実験では、3枚重ねの乾板の中央にのみ念写させるといった具合に、外部からの刺激などによるトリックでは不可能な点が後に評価されている[12][13]。しかし一方では、事前に乾板を別の場所に置くなどの方法はとられておらず、乾板のすり替えのようなトリックがまったく不可能というわけではなく、大方の念写はこうしたトリックによるものだとする批判もある[12][13]

実験の終焉[編集]

これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果とともに前述の彼の著書『透視と念写』として出版されたが、逆にこれは迷信を増長させるとして、多くの学者たちの反発と批判を招いた。福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった[9][15]。かつて福良の超能力実験に懐疑的だった山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった[16][17]

孤立無援となった福来に代り、宮二は山川に実験の協力を仰いだが、山川は多忙などを理由として取り合わなかった[15]。宮二はこれを不誠意な対応と受け止めて憤慨し、今後一切の学者の協力に応じないことを決断した[15]。やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、郷里の岡山へ転居した[8][15]。こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。

その後の貞子の消息は不明である[8]。岡山で心霊治療を行っていたという説もあるが、真偽のほどは定かではない[18]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 寺沢 2004, pp. 226-257
  2. ^ 松尾貴史 『なぜ宇宙人は地球に来ない? 笑う超常現象入門』 PHP研究所〈PHP新書〉、2009年、62頁。ISBN 978-4-569-70645-0
  3. ^ a b 歴史雑学探究倶楽部 2010, p. 120
  4. ^ ソフィア・サヴィナ (2014年11月10日). “怖かった「山村貞子」展”. ロシアNOW. ロシア新聞. 2014年11月22日閲覧。
  5. ^ 大野 2000, p. 143.
  6. ^ 大野 2000, pp. 128-129.
  7. ^ 福来 1913, pp. 296-308.
  8. ^ a b c 那由他 2005, pp. 98-102
  9. ^ a b c d e 福来 1913, pp. 308-338
  10. ^ a b c 寺沢 2004, pp. 234-243
  11. ^ a b 福来 1932, pp. 111-115
  12. ^ a b c 宮城 1985, p. 103
  13. ^ a b c 中山他 1997, pp. 34-35
  14. ^ 歴史雑学探究倶楽部 2010, p. 113.
  15. ^ a b c d 寺沢 2004, pp. 246-257
  16. ^ 大野 2000, pp. 161-164.
  17. ^ 並木伸一郎 『日本の怪奇100』 マガジンランド2007年、172-173頁。ISBN 978-4-944101-26-9
  18. ^ 大野 2000, p. 165.

参考文献[編集]