高橋白山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

高橋 白山(たかはし はくさん、天保7年12月(1837年) - 明治37年(1904年3月10日)は幕末の漢学者。明治時代初期の教育者。は利貞。字は子和。通称は敬十郎。

生涯[編集]

信濃国伊那郡高遠城下に高遠藩儒の高橋利常(確斎)の長男として生まれる。藩校進徳館中村元起に学び、16歳で助教、師範代となり藩主の侍講も兼帯した。文政年間に江戸に出て藤森天山に入門し、大沼枕山らと交流した。

明治維新後は、小野村(現辰野町)の実相庵「時習館」初代館長、洗馬村(現塩尻市)の塾主を務めた後、明治4年(1871年)千国街道成相新田宿(現安曇野市)に藤森桂谷が開いた「実践社」の塾頭に招かれ、同6年(1873年)矢原村(現安曇野市)の「研成学校」の初代校長となり、筑摩県師範講習所の講師を兼任した。また筑摩県権令永山盛輝や権参事渡辺千秋による県内巡察に同行し、各郡に学校を設立し、教育振興に努めた。 

同10年(1877年)には永山の異動に伴い新潟県に移り、新潟師範学校教授や村上小学校長を務めたが、同13年(1880年)父の病気により伊那谷に帰郷し、上伊那郡松島小学校長、北佐久郡小諸小学校長を歴任した後、同18年(1885年)長野師範学校教授となり、論語と漢文を教えた。同32年(1899年)に退官後も、私塾を開いて指定を育成した。

同37年(1904年)没。世辞の句として「清風繞高枕、穏臥夢猶閑、名刻信山石、神遊天地間」を残す。大正7年(1918年)従五位を追贈された[1]長野市城山に頌徳碑が建立された。長男の高橋作衛はのちに貴族院議員となった。  

著作[編集]

  • 「説諭要略」
  • 「上下小学授業法細記」
  • 「小学授業必携」
  • 「白山楼詩鈔」

脚注[編集]

  1. ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.46

出典[編集]

  • 佐藤寅太郎「信濃人物志」 文正社 1922年
  • 村沢武夫「信濃人物誌」信濃人物誌刊行会 1965年
  • 「日本人名大辞典」 講談社 2001年

外部リンク[編集]