高橋松蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年明治38年)12月14日 - 1981年昭和56年)1月31日)は、日本外科医内科医小児科医。紫野診療所初代所長、京都民医連第2代会長、元ミノファーゲン製薬本舗顧問。

略歴[編集]

新潟県出身[1][2]1922年大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業、京都帝国大学医学部外科学教室に入局[1]

1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館[注 1]に診療所を開設[1][2]。昼は京都帝国大学医学部附属医院に勤務し、夜は養正隣保館の診療所と洛北診療所[注 2][注 3]被差別部落の患者を診療した[1][2][7][8]

京都帝国大学理学部動物学教室で研究に従事[1][2][7]1938年(昭和13年)に肝臓疾患とアレルギー性疾患の治療薬「ミノファーゲン」を創製[1][2][7][9]宇都宮徳馬が設立したミノファーゲン製薬本舗の顧問に就任[2][10][11]

1948年(昭和23年)に京都府京都市上京区紫野東野町(現 京都市北区紫野東野町)に紫野生活協同組合診療所[注 4]を開設して初代所長に就任[1][2][7][14][注 5]1955年(昭和30年)に京都民医連第2代会長に就任[1][7][注 5]

1980年(昭和55年)末頃から自宅にて病気で療養中、1981年(昭和56年)1月31日午前9時に京都府京都市左京区下鴨西高木町の自宅で脳溢血のため死去[2]

太平洋戦争の戦前から戦後、25年以上にわたって京都市で無産者診療活動に従事し、被差別部落の住民の生活と健康を守るために献身した[2][15]

親族[編集]

著書[編集]

  • 『免疫現象・化學療法』日本科学社、1947年。
  • 「形態と機能」『新しい生物學 1』171-206頁、日本科学社、1949年。

論文[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 2002年平成14年)4月に養正コミュニティセンター[3]2011年(平成23年)4月に左京西部いきいき市民活動センターに変更[4]
  2. ^ 1931年昭和6年)4月に京都府京都市左京区田中玄京町に太田典礼が開設した無産者診療所で、太田典礼のほか、杉山茂、高橋松蔵、山本秀雄、松田道雄診療を行った。1932年(昭和7年)1月に太田典礼が第一次上海事変に見習医官として召集されて閉鎖[5]
  3. ^ 朝田善之助(無職)が毎日やってきて誰にでも議論をふっかけ、聞きかじりの知識をひけらかし、教条主義的な理論を押し付け、診療や雑務などで忙しい医師たちを困らせていた。高橋松蔵は、「朝善はダラ幹(堕落した幹部)になるぞ」と言って笑っていた[6]
  4. ^ 1951年(昭和26年)に紫野診療所、1966年(昭和41年)に北病院、2000年(平成12年)に北病院の外来部門が紫野診療所、2010年(平成22年)に北病院が葵会おおみや葵の郷と北診療所[12]2014年(平成26年)に紫野診療所が紫野協立診療所に変更[13]
  5. ^ a b 1957年(昭和32年)に退任[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 「診療所の窓から」『部落問題硏究』第1巻第5号、28-31頁、高橋松蔵[著]、部落問題研究所[編]、北大路書房、1949年。
  • 『是朽 高橋松蔵・光の思い出』高橋大介・私家版、1983年。