高橋喜惣治

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4代 高橋 喜惣治(たかはし きそうじ、1850年7月21日(嘉永3年6月13日[1])- 1918年大正7年)4月15日[2][3])は、明治期の地主、政治家衆議院議員貴族院多額納税者議員。のち左京(さきょう)と改名した[2][3]。名・猷[4][5][6]、諱・種健[7]、字・伯応[4][5][6]、号・鶴洲[4][5][6][7]、通称・喜惣治。

経歴[編集]

上総国埴生郡立木村[4]千葉県上埴生郡鶴枝村立木、長生郡鶴枝村を経て現茂原市)で、豪農、大庄屋・高橋千満太の長男として生まれる[1][4][5]。高橋家は曽祖父・信重以来、通称を喜惣治と称した[4][5][6]。富津の織本東岳(履道)から漢学を学び[4][7]、さらに江戸の島田重礼に入門し[4][7]小野湖山に詩文を学んだ[7]。帰郷して大庄屋となった[5][6][7]

1872年(明治5年)第三十九区戸長に就任[4][5][6]。第七大区地租改正惣代人、第七大区区会議員、第七大区四小区戸長などを歴任[4][5][6][7]。1879年(明治12年)初の千葉県会議員に選出され[2]、1886年(明治19年)4月に再選された[1][4][5][7][8]。1892年(明治25年)同志と政治団体・長生交際会を組織[7]。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙に千葉県第六区から出馬して当選し[5][6][7]、衆議院議員を1期務めた[2][3][8]。1897年(明治30年)6月、郡制実施に伴い長生郡会議員に当選[5][7][8]。さらに同年6月、貴族院多額納税者議員に互選され[1][5][6]、同年9月29日[9]から1904年(明治37年)9月28日まで在任した[2][8]

その他、千葉県勧業諮問会員、同農会名誉会員、同教育会議長、禅徒生命保険副社長なども務めた[1][2][3][5][8]。また、1875年(明治8年)10月、山田敬蔵、白井喜一郎と共同で埴生郡地引村(上埴生郡東村、長生郡東村を経て現長南町)に私立中学・乃有学舎を設立し、教師に嶺田楓江を招聘して地域の教育進展に尽力した[3][4][5][6]

晩年は政界を引退し文学に親しんだ[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『人事興信録』初版、477頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』207頁。
  3. ^ a b c d e 「高橋左京」『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』379頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『衆議院議員候補者列伝』385-388頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「高橋喜惣治君」『貴族院多額納税議員列伝』。
  6. ^ a b c d e f g h i j 『内外名誉録 第1編』41-42頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 『長生郡人物誌』9-10頁。
  8. ^ a b c d e 『千葉大百科事典』519頁。
  9. ^ 『官報』第4275号、明治30年9月30日。

参考文献[編集]

  • 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第1編』六法館、1890年。
  • 金井確資編『貴族院多額納税議員列伝』金井確資、1899年。※頁付無し。
  • 栃内吉古編『内外名誉録 第1編』内外名誉録出版事務所、1902年。
  • 人事興信所編『人事興信録』初版、1903年。
  • 『長生郡人物誌』千葉県長生郡教育会、1926年。
  • 『千葉大百科事典』千葉日報社、1982年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。