コンテンツにスキップ

高橋亀吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋亀吉

高橋 亀吉(たかはし かめきち、古い文書では「髙橋龜吉」とも、1891年(明治24年)1月27日[1]戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日[1])は、経済評論家経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者

生涯

[編集]

山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。1906年5月、家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出る[1]。1907年、朝鮮へ渡航し二田商会に入り[1]、日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。

やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。講義録を履修した校外生として優秀な成績を修めた後に、1912年早稲田大学商科予科に進学し[1]1916年(大正5年)早稲田大学を卒業[1]。恩師の伊藤重次郎から大学に残ることを薦められたが、商科長の田中穂積の同意を得られず断念。久原鉱業(現在のENEOS)へ入社し[1]、調査業務に従事するもののサラリーマンの生活には馴染めず、伊藤に再び相談してみたところ、先輩の石橋湛山主幹を務めていた東洋経済新報社を紹介され、1918年(大正7年)2月19日に入社した[1][2]。当初、旧平価解禁説だった湛山を購買力平価説で説得したのもニコライ・ブハーリンの『過渡的経済論』と並んでグスタフ・カッセルの『世界の貨幣問題』に影響を受けた亀吉である。

入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆。ニューヨークでは、田口運蔵らと共産党ランドスクールでスコット・ニアリングの経済講義などを学んだ[3]。のちに『東洋経済新報』の「財界要報」欄を担当。処女作の『経済学の実際知識』が好評を得、『東洋経済新報』編集長1924年(大正13年)5月[1] - 1926年(大正15年)6月[1][4])を経て、1926年に同社を退社[1]。フリーとして活動を始めて、1932年(昭和7年)10月に高橋経済研究所を創立する[1]。同研究所では『高橋財界月報』を刊行して経済評論における先鞭をつけた[5]

評論活動の傍ら、

等の公職を歴任する。

経済政策の議論でも活躍して、金解禁では勝田貞次堀江帰一らと、日本帝国主義の分析では野呂栄太郎猪俣津南雄らとそれぞれ論争をする。石橋湛山、小汀利得山崎靖純ら「新平価解禁四人組」の一人として、リフレーション政策を積極的に唱導した[6]

1928年の第16回衆議院議員総選挙では日本農民党の公認で山梨県から立候補するも落選する[1]昭和研究会に参加して、企画院参与としてアジア・太平洋戦争下の政府の経済政策にも参画する。

1946年、資本・人員不足を理由に高橋経済研究所を解体して、新たに日本経済研究所を創設して理事長に就く[1]。1948年5月、公職追放[1]1956年(昭和31年) 拓殖大学教授[1]1973年(昭和48年)まで)。1958年(昭和33年)に、拓殖大から経済学博士号を授与される。博士論文は「大正・昭和財界変動史」。1974年(昭和49年)文化功労者に選ばれる。墓所は多磨霊園(5-1-13)

主著には、『日本近代経済形成史』『私の実践経済学』等がある。

主な著作

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 高橋亀吉関係文書(その1)|憲政資料(憲政資料室)”. 憲政資料(憲政資料室)|リサーチ・ナビ. 国立国会図書館 (2023年4月19日). 2023年9月8日閲覧。
  2. ^ 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第1章 屈折と反発 p46
  3. ^ ニューヨークで仕込まれた左翼の人々『赤い広場を横ぎる』田口運蔵 (大衆公論社, 1930)
  4. ^ 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第2章 東洋経済編集長 p72
  5. ^ 鳥羽欽一郎『生涯現役 エコノミスト高橋亀吉』 第5章 混迷の中の日本経済 p147~p157
  6. ^ 田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、14頁。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]