高柳賢三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
高柳賢三

高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年明治20年)5月11日 - 1967年昭和42年)6月11日)は、日本英米法学者。東京大学名誉教授成蹊大学名誉教授貴族院勅選議員

大正昭和期の代表的英米法学者として知られる。

略歴・人物[編集]

埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校府立四中一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。ロスコー・パウンド(Roscoe Pound)翻訳でも知られる。司法権優位を唱えた。

戦後は1945年12月24日から帝国学士院会員[1](1947年より日本学士院会員)。1946年6月8日[2]~1947年5月貴族院議員に勅選された。

東京裁判で日本側弁護団の一人として加わり、重光葵鈴木貞一の担当弁護人となる。内閣に設置された憲法調査会会長も務め、新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。1948年9月にCIEで教職不適格とされ、1948年11月に東京大学依願退官。1948年12月~1949年6月仙台法経専門学校副校長。 また、1949年7月~1957年3月には成蹊大学学長を務めた。

1956年鳩山一郎内閣下に設置された憲法調査会の会長となり、第1次岸内閣下の1957年には「憲法制定の経過に関する小委員会」において憲法の成立経緯を調査。翌1958年には渡米調査団の団長としても調査を行った。その後も、歴代の内閣で憲法調査会会長に就任し、1965年に退任。

ハーバート・パッシンの勧めによって設立された「文化自由会議」に呼応する日本の組織「日本文化フォーラム」の初代会長を務める[3]

1964年11月3日、勲一等瑞宝章受章。1967年6月11日にヨーロッパ出張の帰路に香港で客死し、叙・正三位、賜・銀杯一組[4]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『新法学の基調』岩波書店、1923年11月。NDLJP:979551
    • 『新法学の基調』岩波書店、1924年5月、3版。NDLJP:993932
  • 『現代法律思想の研究』改造社、1927年6月。
  • 『法律哲学』日本評論社〈社会科学叢書 第5編〉、1928年9月。NDLJP:1877087
  • 『法律哲学原理』岩波書店、1929年11月。NDLJP:1225596 NDLJP:1880005
  • 『独裁政と法律思想 現代欧米の法律思潮』河出書房、1938年4月。NDLJP:1222044 NDLJP:1875045
  • 英米法源理論有斐閣〈英米法講義 第1巻〉、1938年7月。ISBN 9784641615168
  • 『随筆集 三つの会話』文藝春秋社、1941年3月。NDLJP:1123493 NDLJP:1908983
  • 『英国法に於けるキングの地位』日本法理研究会〈日本法理叢書 第9輯〉、1941年7月。NDLJP:1875452
  • 『米英の法律思潮』海口書店、1948年3月。
  • 英国公法の理論』有斐閣〈英米法講義 第2巻〉、1948年9月。ISBN 9784641903081
  • 司法権の優位 理論と実際』有斐閣〈英米法講義 第3巻〉、1948年9月。ISBN 9784641620407
  • 極東裁判と国際法 極東国際軍事裁判所における弁論』有斐閣、1948年11月。ISBN 9784641902121
  • 英米法の基礎』有斐閣〈英米法講義 第4巻〉、1954年8月。ISBN 9784641903104
  • 『天皇・憲法第九条』有紀書房、1963年5月。

編著[編集]

  • 『学生日米会談』日本英語学生協会、1939年12月。

訳書[編集]

共編著[編集]

共訳[編集]

  • パウンド『法と道徳』高柳賢三・岩田新訳、岩波書店、1929年2月。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 『官報』第5694号、昭和21年1月9日。
  2. ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
  3. ^ 竹内洋 『革新幻想の戦後史』 中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000 p66
  4. ^ 以上につき、『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2013.4第2版、339頁も参照

外部リンク[編集]