高松邦男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
高松邦男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県市川市
生年月日 (1948-02-26) 1948年2月26日(72歳)
所属団体 日本中央競馬会
初免許年 1978年1979年開業)
引退日 2009年12月31日
通算勝利 6422戦484勝
重賞勝利 21勝
G1級勝利 3勝
経歴
所属 白井髙松三太1972年 - 1979年
美浦トレーニングセンター(1979年 - 2009年)
テンプレートを表示

髙松 邦男(たかまつ くにお、1948年2月26日 - )は、千葉県市川市出身の元調教助手調教師

経歴[編集]

父・三太国営競馬所属の元騎手。幼少期に父の有馬記念連覇などに接して騎手を志したが、市川高校入学後に身長が伸び過ぎたため断念。高校卒業後は獣医師資格取得のために日本獣医畜産大学へ進学し、それと同時期に三太が調教師として中山白井分場に厩舎を開業。在学中には同年の柴田政人が騎手養成課程を修了し、所属騎手として髙松厩舎に入っている。そのため邦男と柴田は長く兄弟同然の付き合いを続けた。大学卒業後は北海道日本軽種馬協会に獣医師として2年間勤務し、1972年より父・三太の厩舎に調教助手として入り、1978年に調教師免許を取得。当初は三太から独立して自身の厩舎を開く予定であったが、これに前後して三太に肝臓癌が見つかり、1979年1月に死去。これを受け、同年3月に父の厩舎を引き継ぐ形で開業した。同時に柴田も邦男の厩舎に移り、以後主戦騎手として引退まで厩舎所属のまま騎乗を続けた。引き継いだ際には古くから付き合いのある馬主を優先させ、社台グループ創業者・吉田善哉の預託を断った。開業初年度は3月3日の中山第1競走4歳未勝利・キリープリンス(18頭中14着)で初出走、5月6日新潟第4競走4歳未勝利・キョウエイジョージ(延べ25頭目)で初勝利を挙げた。1年目から16勝という好成績を挙げるなど順調な滑り出しを見せ、3年目の1981年には父と親交の深かった伊達秀和の生産所有馬・ブロケード阪神4歳牝馬特別を制して重賞初制覇。3戦無敗で桜花賞に臨むこととなったが、直前に熱発のため軽めの調整にとどめる。そのことを記者に聞かれた際には「休ませるのも調教のうち」と回答し、レースでは4連勝で見事優勝して八大競走初制覇を果たす。1983年にはキョウエイプロミスが7歳にして天皇賞(秋)を制覇。同馬は三太が牧場で惚れ込みながら、死去によって管理が叶わなかった馬であり、競走後に邦男は「これで親父に恩返しができた」とのコメントを残した。天皇賞を勝ったことで、邦男は次走に第3回ジャパンカップを選択。この年は19年ぶりに三冠を達成したミスターシービーの出走が望まれていたが、シービーは生産者・千明牧場の意向で出走しないことが発表された。これにより日本の競馬関係者や来日した外国人記者を落胆させるが、邦男は「なぜ三冠を達成した日本の最強馬が出走しないのか」と詰め寄る外国人記者らに「ですからキョウエイプロミスがあなた方の馬のお相手をするわけです。負けるつもりはない」と断言。邦男は「プロミスの脚が壊れる」とこのレースが最後になることも予感していたが、レースでは優勝馬のスタネーラからアタマ差(タイム差なし)の2着に入り、苦戦が続いていた日本馬として初めての連対を記録。その激走の反動は大きく、予想通りプロミスはレース中に右前脚繋靭帯不全断裂を発症。コースからは馬運車で退場することとなり、競走能力喪失と診断されてそのまま引退となった。1984年函館記念ウインザーノットで通算100勝を達成し、1986年にはパーシャンボーイ宝塚記念を制覇。同年には自己最多の28勝を挙げ、リーディング争いでも全国8位と自身唯一の十傑入りを果たした。調教では午後運動を止めて午前運動に一本化したり、厩務員報酬のプール制をいち早く導入するなど先進的な試みも取り入れた。1988年には「世界に通用する馬の育成」を目的として、北海道沙流郡門別町に育成調教施設「ファンタストクラブ」を設立。主宰者として他の若手調教師との交流・支援に務め、1990年から1991年にかけては育成馬・ホワイトストーンGI戦線を賑わせている。1990年の菊花賞ではレース前に栗東に長期滞在させる異例の調整を試み、メジロマックイーンメジロライアンメジロ勢の一角を崩す2着を確保。高松の管理馬ではないものの、1998年には同じく育成馬・タイキシャトルフランスジャック・ル・マロワ賞制覇を果たしている。1989年2月12日東京第10競走テレビ山梨杯・カゲマルで200勝、1993年7月31日札幌第6競走4歳以上500万下・アイオーユーで300勝を達成。1992年と1993年には優秀調教師賞を受賞するが、1995年カブトヤマ記念・アイオーユーを最後に重賞勝利から遠ざかり、年間勝利数の面でも1990年代後半より成績が大きく落ち込み始める。1998年8月1日函館第6競走3歳新馬・コバノキャンティで400勝を達成するが、1999年には9勝と初めて一桁に終わり、10勝を挙げた2003年以降は年間一桁の勝利数が続く。2008年新潟ジャンプステークス・ジンデンバリューが最後の重賞出走となり、2009年定年まで9年を残して勇退。12月26日の中山第8競走3歳以上1000万下・ダイバクフが最終出走で最後の勝利となった。

現役調教師時代には「NHK競馬中継」「HTB土曜競馬中継」にて解説者として幾度か登場している。

通算成績[編集]

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 467 498 478 4,637 6,080 .077 .159
障害 17 15 29 281 342 .050 .094
484 513 507 4,918 6,322 .075 .155

主な管理馬[編集]

太字八大競走を含むGI級レース。

主な厩舎所属者[編集]

※太字は門下生。

参考文献[編集]

  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 『競馬ワンダーランド』(ぴあ株式会社、1993年)「調教師 競走馬を勝たせるための最高責任者 - 高松邦男調教師」
  • 優駿』1994年12月号(日本中央競馬会)辻谷秋人「キョウエイプロミス ジャパンCにかけた馬と男たち」