高木甚三郎

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たかぎじんざぶろう
高木甚三郎
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晩年の初代高木甚三郎
生誕 1846年3月
静岡県袋井市
死没 1928年5月29日(1928-05-29)(82歳)
東京都
国籍 日本の旗 日本
別名 高木義澄

高木 甚三郎(たかぎ じんざぶろう、1846年弘化3年)3月 - 1928年昭和3年)5月29日)は、かつて小石川関口台町19(現在の東京都文京区関口)にあった私立聖母仏語学校 初代校主[1]カトリック信徒で、霊名は「パウロ」。静岡県袋井市出身。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

1846年(弘化3年)3月、遠江国山名郡袋井宿(現在の静岡県袋井市)の商家に生まれる。1869年明治2年)4月に上京し、下谷区元黒門町(現在の台東区上野)の紙商、渡辺儀助の元で修業する。1876年(明治9年)11月、本郷区湯島三組町(現在の文京区湯島)にあった元禄年間創業の老舗味噌製造業「伊勢利商店」[2][3]を営む高木家に入婿し、神田同朋町(現在の千代田区外神田)20番地にて紙問屋「高木紙店」を経営し成功した。

改宗[編集]

1878年(明治11年)頃、カトリック築地教会に「天主堂などと書いた看板を出しているが、実際は邪宗門耶蘇教なんだから看板を外させてやる」と押し込んだのが縁で宣教師と知り合いとなった[4]1879年(明治12年)6月から浅草向柳原町1丁目15番地(現在の台東区浅草橋)にあるカトリック浅草教会にて宗教講究し、翌1880年(明治13年)1月19日、妻たみと共に夫婦揃って洗礼を受ける。その後、1885年(明治18年)1月には浅草教会内にあった児童福祉施設「玫瑰(まいかい)学校」の幹事となり、教会運営に協力した。

聖母仏語学校[編集]

ピエール・マリー・オズーフ
ジャン・アレキシス・シャンボン

1877年(明治10年)に日本北緯使徒座代理区の初代司教として来日したピエール・マリー・オズーフは、教会発展のため東京の中心地に土地を求めた。しかし当時、外国人の土地取得は地所質入書入規則[5]により禁止されていた。そのため1886年(明治19年)5月22日、土地所有者の一柳末徳から、オズーフに代わって甚三郎他6名の浅草教会信者名義で小石川関口台町(現在の文京区関口)の土地[6]を購入した。

その後、甚三郎は「玫瑰学校」の仏文科教頭であった司祭ジャン・ピエール・レイに協力し、既に購入済みだった関口台町の土地に「聖母仏語学校」を設立するため東京府へ設置願を提出[7]1886年(明治20年)12月27日に認可され翌1887年(明治21年)1月7日に開校[8]、自らは校主となった[9]

教会活動[編集]

1887年(明治21年)1月15日に浅草教会の布教会委員[10]に選出され、1896年(明治29年)まで務めた。また1897年(明治30年)からは、布教会委員の補佐として特別委員に推薦され、浅草教会の信徒総代として活躍した。1893年(明治26年)頃には天主教会喜捨会総代として、度々東京市養育院[11]に寄付を行っている[12]

1900年(明治33年)2月26日には、オズーフと共に信徒総代として東京府へ『聖母教会堂(後のカトリック関口教会)設立願』を提出[13]、同年10月7日に認可された。1903年(明治36年)には、公教教友会[14]に入会し、東京6教会[15]全域で活躍した。

人物[編集]

極めて温厚で物静かな人格者であり、誰からも尊敬される義理堅い性格だが[16]、青年期には、大柄な外国人が大勢居たであろう築地教会へ押し込むといった攻撃的な一面もある。また老年期は、白髪童顔で品位が善く、浅草教会では3歳の子供も知っていると言われ、「著名で熱烈な信者」[17]、「多くの病者や貧者を助けた稀に見る程の篤信、愛徳、謙譲、謹直の人」[18]と評された。

晩年[編集]

晩年は家督養子である丹蔵に譲り、自らは義澄と名乗り上智大学の敷地内に住んでいた[19]1928年(昭和3年)5月29日、82歳で死去した。葬儀は浅草教会で盛大に行われ、当時の東京大司教区教区長ジャン・アレキシス・シャンボンを初め、多くの神父、信徒が会葬した[20]

略歴[編集]

  • 1869年(明治2年)4月:上京し、紙商にて修業する
  • 1876年(明治9年)11月:高木家に入婿し改姓、別家相続する
  • 1879年(明治12年)6月:浅草教会にて宗教講究する
  • 1880年(明治13年)1月19日:浅草教会にて洗礼を受ける
  • 1885年(明治18年)1月:玫瑰学校の幹事となる
  • 1887年(明治21年)1月6日:聖母仏語学校の校主となる
  • 1887年(明治21年)1月15日:浅草教会の布教会委員に選出される
  • 1891年(明治24年)1月18日:浅草教会の布教会委員に再選する
  • 1894年(明治27年)1月22日:浅草教会の布教会委員に再選する
  • 1897年(明治30年)5月:浅草教会の特別委員に推薦される
  • 1903年(明治36年):公教教友会に入会する

文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 学校の経営責任者・校長のこと。
  2. ^ 『本郷区史』p.1163 第四編 第三章 湯島方面 第八 湯島三組町には「景況 『区内要録』は此邊味噌麹商多く、糀味噌問屋高木利八當地の豪商なりとし、『東京名所図会』亦當町は味噌商多きを似て名あり、其の最も著名なるは「伊勢利商店」高木利八、「角茂」牧野茂助なり」とある。
  3. ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫
  4. ^ カトリック新聞1878号『昔がたり東京教区(5)』には「浅草向柳原の浅草・聖パウロ教会で、長いあいだ教会を援助していた高木甚三郎さんは商売のことでこの築地教会を知った。はじめ高木さんは「天主堂などと書いた看板を出しているが、実際は邪宗門のヤソ教なんだから看板をはずさせてやる」とばかり、意気込んで教会へ押し込んで行った。しかしそれが縁で宣教師と知り合いになり、教えを学んで高木さんは信者になった。(省略)高木さんが洗礼当時のことは、海老原保蔵氏が私に語ったことである。そして海老原氏が浅草教会の青年会幹事をしていた時分、高木さんが青年信者を奮起させるため語ったことという。」とある。
  5. ^ ウィキソースには、地所質入書入規則の原文があります。
  6. ^ 常陸国茨城郡宍所の藩主、松平頼徳の屋敷跡4,800坪の土地。
  7. ^ 東京都公文書館所蔵 普通第2種 願伺届録・各種学校・9冊ノ内9〈学務課〉(資料番号616.C8.05)『私立学校設置願』(明治20年12月24日提出)
  8. ^ 東京都公文書館所蔵 普通第2種 願伺届録・各種学校・1〈学務課〉(資料番号617.A6.09)『聖母仏語学校開校届』(明治21年1月6日提出)
  9. ^ 1899年(明治32年)に東京府に提出された『学科課程他取調書』には「聖母仏語学校々主高木甚三郎」と記載されている事から、少なくとも当年までは校主だった。
  10. ^ 教会の維持運営を効果的になすため、ピエール・マリ・オズーフにより導入された役員制度。各教会信徒団の代表者であり、3年毎に改選される。
  11. ^ 東京府に松平定信の七分金積立が引き継がれたのを活用して、1872年(明治5年)に渋沢栄一によって創設された窮民救済施設。
  12. ^ 『東京市養育院年報』 第22回「明治26年4月-27年3月」p.80-p.105
  13. ^ 東京都公文書館所蔵 第1種 文書類纂・第一課文書・社寺・第36類・教会講社及教師・第3巻〈第一課〉(資料番号624.D3.12)『聖母教会堂設立願』(明治33年2月26日提出)
  14. ^ 布教聖省からの引締めや監督体制の強化が導入されても、それら全ての規定を遵守し、教会事業の沈滞状況を打開するための試みとして、信者に積極的な教会事業への献身を求め、各教会の信者間の交流を通して相互啓発を期することを目的に設立された会。
  15. ^ 築地、神田、浅草、本所、麻布、関口の6教会。
  16. ^ カトリック新聞1878号『昔がたり東京教区(5)』には「高木さんは長いあいだ、天神下に紙問屋の店を出していて、成功者の一人だったがきわめて温厚で静かな人格者、だれかれの区別なく尊敬されていた。零落して貧しかった私の家にも、正月には店員に手拭いを入れた箱を持たせて、玄関で賀詞を述べられるという風な義理がたい人だった」とある。
  17. ^ カトリック・タイムス124号『浅草教会の人々』には「震災前の主日及び平日のミサに、よく白髪童顔の人品の善い七十近い老翁を見受けた方があったであろう。浅草教会では三歳の子供も知って居る、と言はれた初代高木甚三郎翁である」とある。
  18. ^ 浅草教会『百年のめぐみ』p.64には「氏は多くの病者や貧者を助けたまれに見る程の篤信、愛徳、謙譲、謹直の人であった」とある。
  19. ^ カトリック・タイムス170号4面『レイ・シャンボン両大司教送迎会』の出席者名簿には「麹町区紀尾井町七 高木甚三郎」とある。
  20. ^ 浅草教会『百年のめぐみ』p.64には「教会初の盛大な教会葬が営まれ、レイ、シャンボンの二大司教を初め、多数の神父、信徒が会葬した」とある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]