高山外国人避暑地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
小豆浜サーフスポットから見た高山外国人避暑地の戸谷場地区(2009年8月)
松島湾の湾口部の空撮(2009年10月)。写真左側から延びる七ヶ浜半島南東端の丘陵上に鼻節神社花淵灯台(御殿山東斜面)、および戸谷場地区(御殿山西斜面)があり、表浜を挟んで西側の高台に高山地区がある。

高山外国人避暑地(たかやまがいこくじんひしょち)、または、高山国際村(たかやまこくさいむら)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜高山にある太平洋に面した外国人専用避暑地である。戦前は「高山外人部落」とも呼ばれた[1][2]

明治時代に、仙台在住のアメリカ人医師が病気の妻の療養地として見出し、アメリカ人宣教師らによって避暑地として開発された[3]。外国人により「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と称され、「日本三大外国人避暑地」の1つとされる[1][4]

概要[編集]

高山外国人避暑地は、松島丘陵東端が太平洋仙台湾に没して形成された松島湾の南側を形成する七ヶ浜半島の南東端の高台にある。仙台市から見て北東の仙塩地区に位置する。高山は「特別名勝松島」および「県立自然公園松島」の指定範囲内に位置し、日本三景の一つである松島の一角を成す[5][6]

高山海水浴場があり外人浜と通称される表浜を挟んで西側の「高山」(地図)と東側の「戸谷場」(地図)の2つの地区からなり、高山ビーチカンパニーによって管理されている。面積は約3万で、現在46棟の家屋が建つ。明治期からの家屋は数棟のみで、ほとんどが建て替えられた。高山に別荘を所有する外国人は、夏の1ヶ月間はそこに住まなければならないというルールがあると言われるが、本居として長年住んでいる者もいるため、「高山外国人居住区」と呼ばれる場合もある。

避暑のために7月中旬から8月下旬にかけて高山を訪れる外国人は当初、学校の教師や宣教師等であったが、戦前の最盛期には各国の在日大使館員等が多くなり[7]、また、上海香港広東からも宣教師等が避暑に訪れて300人以上の人々が集まった[8]戦後占領期には進駐軍に接収され、仙台に進駐したアメリカ軍などが使用した。近年は一般の欧米人、特に北欧人が多いといわれ[7]、日本各地やアメリカなどから多い時には80人程度の国籍教派も異なる外国人が集って来る。

以前は、周辺の日本人住民から当避暑地は「外人部落」、外国人避暑客は「高山外人」とも呼ばれた[8]。ただし、東北地方部落集落という意味であり、差別的な意味あいは無い。また、外国人避暑客に対する差別も無かったという[8]。またかつて、多数の日本人女性がメイドとしてここで働いていた。慰問旅行でメイドらが松島を訪れ、小船で遊覧する様子を写した写真が七ヶ浜国際村のプリマスハウスに展示されている。

周辺の浜辺は海水浴場サーフスポットとして日本人も利用するようになり、特に菖蒲田海水浴場は宮城県内では利用客上位の海水浴場となっている。また、高山外国人避暑地に隣接する高台に七ヶ浜国際村が建設され、様々な国際交流の場として利用されている。東日本大震災後には、花渕浜に「ヤーン・アライブ(毛糸生き生き)・ハウス」(正式名称:旧花渕浜集会所)が開設され、日本人と避暑地の外国人が一緒に編み物を通じて被災者・難民を支援する活動が続いている[9]

特徴[編集]

「日本三大外国人避暑地」の内、軽井沢では初めて外国人が別荘を建てた5年後の1893年(明治26年)には日本人所有の別荘が建てられ、第一次世界大戦による大戦景気以降は外国人避暑客より日本人の方が上回るようになった[10]。野尻湖では1912年(明治45年)に日本人が旅館(後にホテル)を建設し、1921年(大正10年)に外国人別荘地が開村、その後も周辺に数々の観光施設が開設されている[11]

高山の場合は、戦前からの組織である高山ビーチカンパニーが戦前の慣習を踏襲して現在も高山を管理しているため、軽井沢や野尻湖とは異なる歴史が続いている。外国人のみに所有が限定され、転売の際も高山ビーチカンパニーを通して外国人限定でなされているため、地価上昇や乱開発から逃れてきた。

一時期、町おこしのために町で開発する計画が持ち上がったが、それまでの開発抑制によって明治期の七ヶ浜の自然が残り、かつ、良好な外国人との隣人関係がある高山を保護したいと考えた当時の町長により開発は見送られた。現在も私有地にあたるため、通常、関係者以外は立ち入り禁止であるが、年に数回の地元の人との交流会が続けられている。

歴史[編集]

前史[編集]

江戸時代鎖国政策が幕末1858年安政5年)に安政五カ国条約によって開国に転換すると、開港場外国人居留地が設けられ、日本に外国人が居住するようになった。

鎖国前の東北地方には、外国人宣教師が定住したり[† 1]、外国人商人などが訪問したり[† 2]する例が見られ、また、開国後の東北地方を旅行したり[† 3]、布教活動のために訪問した外国人[† 4]もいたが、開国後の東北地方に初めて定住した外国人は尚絅学院地図)の基礎を創った宣教師のE.H.ジョンズとされ[12]1884年明治17年)12月から宮城県仙台区(現仙台市)に住み始めた[12]。仙台ではその後、1886年(明治19年)に仙台神学校(地図。後の東北学院)および宮城女学校(地図。後の宮城学院)、1893年(明治26年)に仙台女学校(地図。後の仙台白百合学園)などのミッションスクールが創立されて外国人宣教師の定住が増え、他方、1887年(明治20年)4月には国により(旧制)第二高等学校地図。後に東北大学に合流)が創立されてお雇い外国人も定住した。外国人宣教師の私的調査によると、1890年代初頭に仙台に居住していた外国人は、男性8人、女性13人、子供17人とされる[12]

1887年(明治20年)12月15日に、日本鉄道本線(現在のJR東北本線)が東京府下谷区(現東京都台東区)の上野駅から仙台区の仙台駅を経て塩竈駅(地図。のちの塩釜線塩釜埠頭駅。現在の塩釜駅地図)とは異なる)まで開通した。これにより、塩釜港から松島を経て石巻港へと繋がる航路「松島海道」に東京や仙台からの鉄道が接続することになるが、塩竈駅に近い高山への東京や仙台からのアクセスも容易になった。

避暑地として[編集]

1888年(明治21年)、仙台の(旧制)第二高等学校英語教師として勤めていた米国聖公会の宣教医のF.W.ハーレル[† 5]が、ハンティングのために現七ヶ浜町域を訪れ、高山を病気の夫人の療養地として見出した[3]。翌1889年(明治22年)、仙台神学校のデヴィッド・ボウマン・シュネーダー[† 6]やハーレルらが、日本人の友人の名義をもって、花渕浜の高山地区を別荘用地として10年契約で借り受けた。仙台在住のアメリカ人宣教師により7棟の別荘がここに建てられ、高山の避暑地としての歴史が始まる。

1888年は、高山に隣接する菖蒲田海水浴場地図)が日本で3番目の海水浴場として開場した年であり、1889年は町村制の施行で七ヶ浜村(人口4,157人)が誕生した年でもある。1890年(明治23年)には、アメリカ合衆国のバービー商会から購入された西洋野菜種子で、ズッキーニビーツルバーブセロリパセリラズベリーなどが栽培された。これは東北地方で最初の西洋野菜栽培例と考えられている。1899年(明治32年)になると日英通商航海条約が発効し、これにより内地雑居が始まった。

1907年(明治40年)、日露戦争を機に外国人から毎年の賃貸契約更新に不安の声が上がったため、4人の外国人に一括して高山地区の地上権を満999年間に渡って与える約束が交わされた。これは計算上2906年までの契約で、地上権料は1,154である。別荘地全体の管理運営のため高山ビーチカンパニー(高山開墾合資会社 Takayama Reclamation Joint Stock Company)が設立され、年次総会で選出される8人の委員による合議制で運営されるようになった。この後、避暑客や住民が増えるにつれ、土地が追加されていった。1917年大正6年)には、乳牛飼育のためにシュネーダーは花渕浜金色に牛舎を建てた。また1934年(昭和9年)より8月中旬に宮城県が主催する「国際親善の夕べ」が開催された。

この頃、高山に滞在した著名人として、関西学院第4代院長のコーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツ[13]がいる。ベーツは一家で毎夏ここを訪れていた[1]。ベーツは1902年(明治35年)に来日し、1910年(明治43年)に関西学院に赴任、1920年(大正9年)に関西学院第4代院長に就任し、1940年(昭和15年)に辞任して帰国した[13]。また、1935年(昭和10年)、東京帝国大学に留学中のヒュー・ボートンも家族と共に高山で一夏を過ごした。1936年(昭和11年)から5年間、東北帝国大学で教鞭を執った哲学史家カール・レーヴィットも高山に逗留した。外交官糠沢和夫の父である糠沢仙吉は学生時代、休みの日に現在の福島県本宮市から高山の外国人に英語を習いに来ていた[14]

1941年(昭和16年)、日本とアメリカの関係が悪化して開戦必至の状況になると、高山の外国人達が土地の権利と動産、不動産の売却を七ヶ浜村に申し出た。七ヶ浜村が高山ビーチカンパニーの管理地を買収する仮契約が11月に結ばれ、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)3月に本契約が行われた。買収金額は6万円であり、これは当時の七ヶ浜村の年間経常費5万円の1.2倍に相当した[15]。この前月の2月には、日本軍のシンガポール占領に際し、七ヶ浜村長を先頭に村民が大挙として高山に押し寄せ、3本の松の木に各々等身大のアメリカ合衆国大統領ローズベルトイギリスの首相チャーチル中華民国総統蒋介石の絵を巻き付け、銃剣で突いては万歳を叫ぶという事件が発生した[8]

1945年(昭和20年)第二次世界大戦が終結すると、日本各地に連合国軍が進駐を始めた。宮城県においては9月11日に最初の進駐軍となるアメリカ軍第11空挺師団の先遣隊106人がジープに分乗し、横浜から陸路で松島パークホテルに到着してこれを接収した[16]。これによって宮城県における連合国占領期が始まった。9月15日にはアメリカ軍の第8軍指揮下の第14軍団の司令官が塩釜港に上陸し[16]9月16日に進駐軍が鉄道とトラックで仙台入り開始した[16]9月26日になると、宮城県に進駐したアメリカ軍は約1万人まで増加した[† 7][16]。仙台に進駐した連合国軍は1948年(昭和23年)に高山地区や周辺の浜辺などを接収し、ここに海水浴のための脱衣所やシャワー室、休憩室など数棟を建てた。

この戦後の連合国軍の統治においては、戦前や戦中における連合国関連外国人の権益処理が行われ、この中で太平洋戦争開戦前後に七ヶ浜村と外国人の間で行なわれた高山の土地の売買が問題とされた。1951年(昭和26年)、連合国軍最高司令官総司令部の民間財産管理局 (CPC) はこの取引を不当な譲渡と見なし、七ヶ浜村に土地の返還を要求した。これに対して七ヶ浜村は、戦前にアメリカで弁護士を開業し当時代議士となっていた安部俊吾に民間財産管理局との折衝を依頼し、七ヶ浜村長や村議会議長も民間財産管理局に出頭して弁明に努めた。この時、契約当時の当事者である七ヶ浜村長の鎌田と外国人側の代表者アンケニーはすでに死去している状況だった。高山に家屋を所有していたアメリカ人滞在者の一人はアンケニーに土地の売却を依頼した覚えはないと主張し、七ヶ浜村はこれを覆す有力な資料を提示することができなかった。日本とアメリカの間で講和条約が締結される事が確実になるとこの問題は速やかに処理されることになり、最終的には七ヶ浜村は民間財産管理局の要求を受け入れた。七ヶ浜村には買収費用が戻されることになったが、村はインフレーションを鑑みて時価での返却を大蔵省に陳情したものの黙殺され、支払われた金額は当時の契約金額6万円だった[15]1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、高山ビーチカンパニーに不動産等の権利が返却された。

1989年平成元年)10月、七ヶ浜町の開村100周年、および高山避暑地開設100周年を記念して、七ヶ浜町とアメリカ合衆国マサチューセッツ州プリマスとの姉妹都市締結の交渉が開始され[17]1990年(平成2年)10月3日に両町の姉妹都市締結が行われた[17]。また1993年(平成5年)、高山外国人避暑地に隣接する高台に七ヶ浜国際村地図)がオープンした。この施設の敷地内には、高山外国人避暑地の歴史資料を展示する「プリマスハウス」も設置された。

2011年(平成23年)2月、避暑地の外国人と、七ヶ浜町ボランティアセンター「避暑地サポーターボランティア」との間で、地震および津波発生時の避難行動について話し合いが持たれた[18]。これから間もない3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生し、これに伴う津波でコテージ群の一部が浸水した[18]。発災時に避暑地に居住、滞在していた外国人は6箇国8名だった[18]。後に避暑地は、外国人ボランティアの滞在地の1つとなった[19]3月22日には、プリマス[† 8]テレビ局が募金を呼びかける長時間のテレビ番組を実施し、最終的に1000万円を超える募金を集めた[20]6月7日には、避暑地に長年居住するアメリカ人女性とスコットランド人女性により、被災者の生き甲斐づくりを目的とした編み物クラブ「YARN ALIVE」(ヤーン・アライブ:毛糸いきいき)が立ち上げられた[9][18][21][22]。完成した編み物は当初、同じ県内の気仙沼市女川町の被災者に届けられたが、後に広がって各被災地や福祉施設、さらには世界の災害被災者や、フィリピンネパールヨルダンモザンビーク等の難民にも届けられるようになった[18][22]。この活動がマスメディアでも取り上げられ、世界中の個人や毛糸会社から毛糸や棒針が届けられた[18][22]7月30日、七ヶ浜国際交流協会と避暑地の住民により「表浜クリーン作戦」が実施された[19]

2015年(平成27年)8月、台湾や日本国内などからの寄付により「ヤーン・アライブ・ハウス」(正式名称:旧花渕浜集会所)が花渕浜に完成した[9][22]

施設[編集]

  • サカモトストア
  • Gerhard Memorial Assembly Hall(高山チャペル) … 教会
  • (廃止)高山郵便局 … 夏季のみ営業していた郵便局(定期開設局)。外国人避暑客の便宜のため宮城県が設置し、為替業務も取り扱っていた。

周辺[編集]

七ヶ浜国際村にあるプリマスハウス

その他[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ ポルトガル人宣教師のディエゴ・カルヴァリョ神父など(西公園 (仙台市)#歴史参照)。
  2. ^ 慶長遣欧使節団サン・フアン・バウティスタ号に同乗したルイス・ソテロセバスティアン・ビスカイノなど。
  3. ^ 1878年(明治11年)に東北地方の日本海側を旅行したイザベラ・バードなど。
  4. ^ 1881年(明治14年)6月に東北巡回布教をしたニコライ・カサートキンなど(石巻ハリストス正教会参照)。
  5. ^ 専門は眼科
  6. ^ 1891年東北学院第2代院長に就任
  7. ^ 仙台市および周辺には、苦竹の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所跡地にキャンプシンメルフェニヒ、榴ヶ岡の歩兵第4連隊跡地にキャンプファウラー、仙台城二の丸周辺にキャンプセンダイ、霞目の仙台飛行場にレニアフィールド、多賀城海軍工廠跡地にキャンプローパーなどの進駐軍キャンプ地が設置された。
  8. ^ 2010年の国勢調査人口56,271人

出典[編集]

  1. ^ a b c d 学院史編纂室便り No.16関西学院学院史編纂室 2002年11月20日)
  2. ^ 写真集明治大正昭和塩釜・松島 : ふるさとの想い出122(国書刊行会 1980年7月発行)
  3. ^ a b 第二次世界大戦以前の日本のリゾート(外人避暑地)について (PDF)名古屋外国語大学現代国際学部 紀要 第5号 2009年3月)
  4. ^ 避暑地軽井沢とA.C.ショー(三田評論 No.1139(2010年11月号) 慶應義塾大学出版会
  5. ^ 特別名勝松島保存管理計画 (PDF) (宮城県 教育委員会 2010年3月)
  6. ^ 宮城県の自然公園・県自然環境保全地域(宮城県)
  7. ^ a b 東北の寄り道「高山外国人避暑地」 (PDF)東北防衛局広報紙「東北のかなめ」第4号 2008年7月24日発行)
  8. ^ a b c d 「少年放浪記」 鈴木伊三郎 著
  9. ^ a b c 毛糸で結ばれた心の絆をつなぎ続けよう―宮城県七ヶ浜町に「ヤーン・アライブ・ハウス」完成(Yahoo!ニュース 2015年8月4日)
  10. ^ 避暑地としての軽井沢の誕生(軽井沢観光協会)
  11. ^ 野尻湖周辺の別荘地開発にみる環境管理システム (PDF) (環境科学年報 信州大学 第17巻、1995年)
  12. ^ a b c 明治期の宣教師と仙台(学校法人尚絅学院「連載コラム FACE」 2005年1月1日)
  13. ^ a b 関西学院を創ったひとたち(関西学院)
  14. ^ 朝河の道」選定をめぐって (PDF)朝河貫一博士顕彰協会会報 第18号 2008年7月16日)
  15. ^ a b 『七ヶ浜町誌』684-688頁。
  16. ^ a b c d 「『仙台市史』 通史編8 現代1」16頁~19頁
  17. ^ a b 姉妹都市プリマスの紹介と交流の歴史(七ヶ浜町)
  18. ^ a b c d e f 毛糸の絆を世界へ(七ヶ浜町)(宮城県復興応援ブログ「ココロプレス」 2014年4月9日)
  19. ^ a b 広報しちがはま vol.479 (PDF) (七ヶ浜町 2011年9月)
  20. ^ {{{1}}} (PDF)岩手県立大学高等教育推進センター、総合政策 第16巻第2号(2015)pp.125-138)
  21. ^ 米国女性 被災者に編み物指導(東京新聞 2011年6月27日)
  22. ^ a b c d 被災女性たちの編み物 世界の被災地へ(河北新報 2016年3月7日)
  23. ^ 伊坂さん原作の映画「重力ピエロ」トークショーのご案内河北新報 2008年12月12日)
  24. ^ 9月16日放送『宮城県』(テレビ東京「空から日本を見てみよう」)

参考文献[編集]

  • 仙台学 vol.3(別冊東北学編集室)
  • 七ヶ浜町誌編纂委員会 『七ヶ浜町誌』 七ヶ浜町、1967年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]