高家寺

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高家寺
各務原市・高家寺
所在地 岐阜県各務原市那加北洞町一丁目390番地
位置 北緯35度25分36.27秒
東経136度50分24.21秒
座標: 北緯35度25分36.27秒 東経136度50分24.21秒
山号 臥龍山(がりょうざん)
院号 修學院(しゅがくいん)
宗旨 真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 聖観音
創建年 1639年
開山 祐加上人
札所等 美濃新四国四十一番
公式HP 高家寺公式ホームページ
地図
高家寺の位置(岐阜県内)
高家寺
法人番号 5200005002454
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高家寺(こうけじ)は、岐阜県各務原市那加北洞にある高野山真言宗密教寺院

高家寺歴史等[編集]

開山[編集]

岐阜県最古の寺院:高家廃寺
平成元年(1989年)に飛騨古川に岐阜県最古の寺院が発掘され、寺院名が「たきへでら」と呼ばれていた「高家寺」であることが明らかにされる[1]。奈良時代よりも以前の飛鳥時代に創建されたと考えられる。
開山
寛永16年(1639年島原の乱平定の翌年 徳川幕府3代将軍家光の時代)、戸田松平光重播磨明石より美濃加納(現岐阜駅南)に転封。それに従った住台寺住職祐加上人の開基[2]
戸田松平氏の姫君、加納城「二の丸殿」の発願
戸田(松平)忠光の娘である彼女は、光重の異母妹であり、上野七日市藩二代藩主・前田利意の正室となったが後に離別。母は忠光の正室で阿波徳島藩蜂須賀家政の四女・実相院(辰姫)。早世し、跡を継がなかった父・忠光、または忠光の正室であった母の供養のため、また自分自身の心の安寧を求めて建てられたものと伝わる。

開基[編集]

戸田松平家は、譜代として初めて松平氏を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝於大の方の娘)を藩祖戸田康長が娶ったためであった。康長と松姫には長男・永兼が居たが早世。康長には妾腹の次男に忠光、三男に康直がおり、忠光が後継者であった。彼は2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光の両方の名をいただいているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の松平光重と正妻の子の女子が居た。ところが、忠光は父・康長よりも早く戸田家を継ぐことなく亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡をとる。しかし、康直にも跡継ぎがおらず、忠光の子である光重が跡をとる。この光重の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の四女)の長女であったのが二の丸殿であった[3]

その後、戸田松平家は、公卿の羽林家の1つである今城家と何代にも渡り婚姻関係を結ぶ。戸田家は三大臣家である正親町三条家の支流である。家紋の1つに戸田連翹(とだれんぎょう)を用いる。これは正親町三条家の家紋である連翹襷(れんぎょうだすき)の変形で、高家寺の寺紋はこの戸田連翹である。寺伝では、この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったとされる。高家とは元々は貴族を意味していた[4]

高家寺の境内は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵で確認される。寺領は425坪程度で現在の岐阜駅のすぐ南にあった。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動が発生し、安藤家は陸奥磐城平藩に減転封され、永井家に変わったと同時の1756年以降の高家寺の記録は散失した。ただし、灯籠が何本もあり、荒寺であったわけではないことが確認される。明治時代、岐阜駅を創る際に移動させられ、その移動先も太平洋戦争の戦火により全焼した。仮堂のままであったものを、岐阜易前の開発に伴い岐阜市鷺山に仮移設し、その後、平成5年(1993年)に現在地に移転した。

仏像[編集]

昭和31年篤信家の手により銀杏弘法大師[5]

  • 平成13年つるぎ大師が奉納。(共に90歳を超えられる老夫婦より)
  • 平成14年(2002年)般若秘鍵大師並びに三十三観音が奉納。
  • 平成17年(2005年)浪切不動明王御分身が奉納。
  • 平成22年(2010年)高野山真言宗管長金剛峯寺座主真言長者松長有慶大僧正御来山。

現在の境内[編集]

  • 敷地六百坪
  • 本堂(護摩堂・大師堂を含む)・山門・渡り廊下・庫裏・水館・水掛不動明王・子安地蔵堂
  • 鎮守:真清田社(祭神:天火明命 国常立命)・摩利支天(合祀)・茶室(耕心庵)

脚注[編集]

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  1. ^ 「ぎふの埋蔵文化財」No.43 2005年
  2. ^ 「加納町史」
  3. ^ 「加納町史」
  4. ^ 江戸幕府の職制の高家職が生まれる前に高家寺は創建されている。
  5. ^ 荘川村(現在は御母衣ダムの湖底)御母衣ダムに沈むことになる弘法大師所縁の逆銀杏の木が奉納され弘法大師像が刻まれる。