高句麗論争

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高句麗の系統が新羅(後の朝鮮民族の母体)と金(後の満州族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

高句麗論争(こうくりろんそう)は、かつて朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争。

概要[編集]

韓国・北朝鮮の研究者は、698年に建国した渤海の支配層が高句麗人であり、そのため渤海は高句麗の継承国であり、北の渤海・南の新羅が鼎立した南北国時代から、高麗によってはじめて朝鮮は統一したと主張しており[1]、したがって、韓国・北朝鮮の研究者が称しているところの高句麗の継承国の渤海が、「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという論争もおきている。

高句麗を建国した朱蒙生母は、中国英雄河伯の娘である柳花夫人であり、朱蒙が中国人の血を引いていることは議論の余地がない[2][3][4]

韓国での高句麗と渤海についての見方[編集]

韓国メディア東亜日報』は、韓国人が高句麗を韓国の誇らしい歴史として認識しているのは、「私たちの歴史のなかで、ほとんど唯一中国王朝と対立し、中国王朝と戦うことができた国家だから」と報じている[5]

李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、高句麗中心史観を廃棄して、渤海も朝鮮史から除外しようと主張しており、「韓国人のルーツは、新羅正統性も新羅にある」「韓国人の姓氏など新羅出身が70%以上である」として、「高句麗と百済が私たちに残してくれた遺産はかすかな血筋と歴史記録だけ」と述べており、年中行事などの多くの遺産は新羅に起源をもち、新羅史を注目していないのは、自らの親を恥ずかしいとして隠す行為と同じであると主張している[5][6]

日本での高句麗と渤海についての見方[編集]

河上洋によると、高句麗は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であった[7]

矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを夫余の系統に位置づけた[8]。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう」と述べる[9]。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる[10]

高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する[11]。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人女真人にも受け継がれていた[11]。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と述べる[12]。19世紀後半になると朝鮮人が間島沿海州などに移り住むようになり、朝鮮がに対して間島の領有権を主張する[11]1885年1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった[11]大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した[11]1909年の日清間における間島協約1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず[11]、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による「高句麗論争」の素地になった[11]

外山軍治礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民混血」が生じたとしている[13]

三国史記』巻46巻崔致遠伝では、以下の記述がある。

伏聞 東海之外有三國 其名馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也

古畑徹によると、馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅とあり三韓を高句麗・百済・新羅に対応させる歴史意識が見られるが、「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識であると指摘している[14]。また古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[15]。ちなみに古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[15]

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[16]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[16]

井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている[17]

このことは高句麗史研究において、現在の国境ではなく、より大きな観点から高句麗史を理解することが必要であることを端的に示しているといえる。それならば、問題を多数内包しているものの、中国東北地方と朝鮮半島を区別することなく、一体的な歴史地理的空間として高句麗史を把握しようとする満鮮史的視座は、高句麗の史的展開過程を考究する上で、有効な視角の一つとおもわれる。それは高句麗の動向を今日の国家という枠組みを超えて巨視的に理解しようとする試みの一つでもある。今日の高句麗史研究が国境を基準とする一国史的史観にとらわれ論及された結果、冒頭で示したようにさまざまな問題を惹起していることを想起すれば、満鮮史的視座は一国史的史観を克服するものとして、再度、考究される余地があってもよいのではないかと考えられるのである。 — 井上直樹、帝国日本と“満鮮史”―大陸政策と朝鮮・満州認識、p229-p230

金光林は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる[18]。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする[18][19]

武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった」と述べている[20]

松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した[21]」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族[22]」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり[23]」と述べている。

奈良本辰也が編集した『日本歴史大辞典』には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた」と記述してある[24]

藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する[25]」「其文化は六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である[26]」と記述している。

浦野起央は、「高句麗は、朝鮮半島とも漢民族の歴史とも関係のない異民族が建国した国家である。それを中国は、高句麗史を中国の地方政権の歴史として、韓国の歴史認識を封じ込めんとした」として、「高句麗が領土としていた朝鮮半島北部地域が中国人が建国した箕子朝鮮衛満朝鮮の故地であり、漢四郡楽浪郡臨屯郡真番郡玄菟郡)が所在した地域であることから、韓国・北朝鮮が歴史事実による檀君神話をもって建国ナショナリズムの発揚と接合して歴史認識を確認」し、「韓国は、建国神話と歴史事実を混同させつつも、現在の政治イデオロギーを抑え込もうとすることへの対決と走った」と述べている[27]

夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました」と述べている[28]

南出喜久治は、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている[29]

室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている[30]

倉山満は、「満州で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満州を支配した東アジア最大の国家だった(申瀅植『梨花女子大学校コリア文化叢書 韓国史入門』p4)」とお国自慢をしているが、現在の北朝鮮の領域の先祖であるかつての朝鮮北部と満州を支配した民族がKorea民族なのかは疑問であり、高句麗は朝鮮北部と満州を領域としており、満・韓・漢のどの民族であるかなど完全に区切ることはできず、韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満州人です。より正確に言えば、満州から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも純粋Korea人でないことだけは確かです。中韓の間で、高句麗は中国か朝鮮かという歴史論争がありますが、どちらでもないが正解です。今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだという思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはなりません」と批判している[31]。また、渤海を「渤海(のちの満州人)」として、「は渤海(のちの満州人)との対立と新羅の謀反で日本どころではなくなります。ついでに言うと、韓国人はこの渤海の歴史も韓民族の歴史に組み込んでいます。渤海の侵略を防いだり、渤海の栄光を誇ったり、忙しいのが韓国人の歴史観です」と批判している[32]

横田安司は、韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[33]。戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。また戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[34][35]

東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、高句麗が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない、と述べている[36]

現在の日本の教科書では、高句麗は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われるが[37]、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という記述の教科書もある[38]

田中俊明は、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・の諸民族が併存しているの様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識も存在しなかったという。特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であり[39]中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなく、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであると述べている[40]

高句麗[編集]

  • セルゲイ・シロコゴロフ英語版「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている[41]
  • 白鳥庫吉「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう[42]
  • 井上秀雄「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう[43]
  • 加藤九祚「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている[44]
  • 鳥越憲三郎「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国[45]
  • 浜田耕策「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである[46]
  • 村山正雄「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名[47]
  • 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている[48]
  • 護雅夫「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族[49]
  • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族[50]
  • 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である[51]
  • 長野正孝「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった[52]
  • 宮家邦彦「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した[53]
  • 豊田隆雄「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家[54]
  • 薗田香融「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗[55]
  • 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている[56]
  • 酒井忠夫「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)[57]
  • 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである[58]
  • 三上次男「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる[59]
  • 青木慶一「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った[60]
  • 成瀬治「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族[61]
  • 沖浦和光「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします[62]
  • 白崎昭一郎「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう[63]
  • 水野祐「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている[64]
  • 小島直記「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという[65]
  • 外山軍治礪波護「高句麗を建てたのは、古くから満州東部から朝鮮半島の北東部に移り住んだ貊族の一種である[66]」「貊族はツングース系統に属する[66]
  • 佐々木高明「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている[67]

渤海[編集]

  • 森安孝夫「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家[68]
  • 和田萃「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された[69]
  • 藤本和貴夫「【シベリア】7世紀~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた[70]
  • 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である[71]
  • 佐々木史郎「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている[48]
  • 安藤達朗「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた[72]
  • 田村実造「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである[73]
  • 渡部昇一「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである[58]
  • 埴原和郎「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている[56]
  • 鈴木俊「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられた[74]
  • 中国研究所「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある靺鞨族により創建された渤海国[75]
  • 今西正雄「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族[76]
  • 佐々木高明「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている[67]

第二次世界大戦前の日本での研究[編集]

戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙松井等稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海などは「満州史」の一部であるという認識をしていた[77]

今西龍は、「而して特に注意すべきは檀君は本来 、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず[78]」と述べている。また、稲葉岩吉は「兎に角三国時代の三分の二は満州民族が此の領土に移住して当時の文化を植付けて居ったということは争われない[79]」と述べている。朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はほとんど収録されていないが、その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史の一部と認識されていたためである[77]

朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[77]

今西龍は、1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[80]。また、戦前に刊行された朝鮮通史である稲葉岩吉矢野仁一の共著である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[81]。執筆した稲葉岩吉は、高句麗人や渤海人や女真人といったツングース系満州民族である高句麗と百済を韓族である新羅が統一したと認識していた[80]

脚注[編集]

  1. ^ 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、156頁。ISBN 978-4000108294
  2. ^ “유화부인 柳花夫人,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825225652/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000865259 
  3. ^ “하백 河伯”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825230752/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000761986 
  4. ^ “하백(河伯)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210825232039/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/SearchNavi?keyword=%ED%95%98%EB%B0%B1&ridx=0&tot=8 
  5. ^ a b ““한국사의 정통성은 신라에… 고구려 중심사관 폐기해야””. 東亜日報. (2007年1月16日). オリジナルの2021年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210903034839/https://www.donga.com/news/Culture/article/all/20070116/8396213/1 
  6. ^ 이종욱 (2006-12-30). 민족인가, 국가인가?. 소나무출판사. ISBN 8971396121 
  7. ^ 河上洋  (1983年9月). “渤海の地方統治体制--一つの試論として”. 東洋史研究 (東洋史研究会): p. 5 
  8. ^ 中野耕太 2014, p. 126
  9. ^ 矢木毅 2012, p. 70
  10. ^ 矢木毅 2012, p. 260
  11. ^ a b c d e f g 中野耕太 2014, p. 127
  12. ^ 矢木毅 2012, pp. 110
  13. ^ 外山軍治礪波護『隋唐世界帝国』人物往来社〈東洋の歴史5〉、1967年、19-20頁。
  14. ^ 古畑徹 (1988年). “後期新羅・渤海の統合意識と境域観” (PDF). 朝鮮史研究会論文集 (朝鮮史研究会): p. 34. オリジナルの2016年11月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161104000540/http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/19011/3/LI-PR-FURUHATA-T-25-54-w.pdf 
  15. ^ a b 古畑徹 (2010年). “高句麗・渤海をめぐる中国・韓国の「歴史論争」克服のための基礎的研究 (PDF)”. 科学研究費助成事業研究成果報告書. 2017年6月25日閲覧。
  16. ^ a b 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』ワックワックBUNKO〉、2005年9月1日、77-80頁。ISBN 978-4898315361
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参考文献[編集]

関連項目[編集]