高句麗五部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

高句麗五部(こうくりごぶ)は、高句麗において5つに編成された部族である。

歴史[編集]

高句麗は建国時より多数の部族により形成されていたが、故国川王は高句麗内の部族を5つ(五部)に再編することを命じた[1]

高句麗の記録に従えば、中国の後漢代末の頃には高句麗は単なる部族連合ではなくなり役人による支配が完成したことになる[1]

新唐書』「東夷伝」高麗伝によれば、以下の5つである。

  • 内部桂婁部黄部とも)
  • 北部絶奴部後部とも)
  • 東部順奴部左部とも)
  • 南部灌奴部前部とも)
  • 西部消奴部とも)

子孫[編集]

彼らは渡来人として日本へ渡った際も、日本の部民制における部(べ)と同様に部名をとして名乗った。五部は上部・下部・前部・後部・東部とされ、音訓両方の読みが見られる。

前部(ぜんぶ)
天平宝字五年三月紀には「高麗人前部白君等六人(賜姓)御坂連、前部選理等三人杮井造、前部安人御坂造」また神護景雲元年紀に「左京人從七位上上部白麻呂賜姓廣篠連」とある。
後部(こうぶ)
天武紀五年條に「後部主傳河于」、また宝亀七年五月紀に正六位上後部石島等六人賜姓出水連」とあり、また延暦八年五月紀に「信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養、無位宗守豐人等、賜姓田河(阿に作る)造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人外從六位下封瘻眞老、後部黑足、云黑足等(賜)姓豐岡」などが見える。
上部(かみべ)
天平十八年正月紀に「右京人上部乙麻呂」、東大寺奴婢帳・天平勝宝三年三月三日の奴婢見來帳に「河内国志紀郡林郷戸主上部古理、戸口上部白麻呂」、天平宝字五年紀に「上部君足等二人(賜姓)雄坂造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人小縣郡人无位上部豐人、上部色布知等言、己等先祖高麗人也、云、文代等(賜)姓清岡、色布知(賜)姓玉井」などとある。
下部(しもべ)
延暦十八年十二月紀に「信濃國人下部文代等言、己等先高麗人也、云、文代等(賜)姓清岡」とある。この「シモ」は「資母」「信茂」「征茂」「志母」などとも充て字された。地名でも大和国宇智郡吉野郡の資母郷、河内国安宿郡資母郷、伊勢国河曲郡資母郷はじめ但馬播磨三河甲斐などにみられる。これらの地名を背負う「シモ」氏の多くは帰化人で、中でも河内の大族が最大勢力であった。
東部(とうぶ)
弘仁二年八月紀に「山城國人正六位上東部黑麻呂、賜姓廣宗連」と見える。

脚注[編集]

  1. ^ a b 武光誠『地図で読む「魏志倭人伝」と「邪馬台国」』PHP研究所、2014年、168頁

参考文献[編集]

  • 太田 亮『新編姓氏家系辞書』丹羽 基二、秋田書店、1991年。ISBN 978-4253002639

関連項目[編集]

  • 高 (姓) - 日本における高姓はほとんどが帰化人由来であり、前部高氏・後部高氏を含む。