駐日ドイツ大使館

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駐日ドイツ連邦共和国大使館
Deutsche Botschaft Tokio

Botschaft Tokyo.jpg

所在地 日本の旗 日本 東京都
住所 東京都港区南麻布4丁目5番地10号
座標 北緯35度39分2.9秒 東経139度43分30.8秒 / 北緯35.650806度 東経139.725222度 / 35.650806; 139.725222座標: 北緯35度39分2.9秒 東経139度43分30.8秒 / 北緯35.650806度 東経139.725222度 / 35.650806; 139.725222
大使 ハンス・カール・フォン・ヴェアテルン
ウェブサイト 駐日ドイツ連邦共和国大使館
駐日ドイツ大使館の管轄区域(赤)/在大阪・神戸ドイツ総領事館の管轄区域(緑)

駐日ドイツ大使館(ちゅうにちドイツたいしかん、ドイツ語: Deutsche Botschaft Tokio)は、ドイツ連邦共和国日本に設置している大使館である。

詳細[編集]

駐日ドイツ連邦共和国大使はハンス・カール・フォン・ヴェアテルン博士(Dr. Hans Carl von Werthern)。大使不在時はシュテファン・グラープヘア(Dr.Stephan Grabherr)公使がその代理を務める。

北海道東北地方関東地方を管轄する(西日本大阪の大阪・神戸総領事館が管轄している)。敷地内には大使館と総領事館が設置されており、小中学生を対象にした絵画コンテストや修学旅行生の大使館訪問の受け入れなど、様々な活動を行っている。

歴史[編集]

設立[編集]

1863年1月に横浜市に設けられ、その後1865年に現在の東京都港区高輪に移設した。当時は公使館であり、1897年ジョサイア・コンドルの設計で千代田区に移され、現在の国立国会図書館東京本館の位置にあった。

両大戦間[編集]

1914年から始まった第一次世界大戦時には、後の日独開戦時に国交断絶により閉鎖された館員は抑留されたものの、ドイツの敗北により終結し、戦後まもなく再開した。

その後、1933年に政権を獲得したナチ党ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は日本との連携を重視し、1936年には日独防共協定を結んだ上、第二次世界大戦に突入した後の1940年には、日独伊三国同盟を締結したことでますます関係が密接化していった。そのような中でヘルベルト・フォン・ディルクゼンオイゲン・オットが大使を務めた。

オット大使は「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、ナチ党員のリヒャルト・ゾルゲを私的(その後公的)顧問としていたが、1941年10月に所謂「ゾルゲ事件」でゾルゲが逮捕された後、1942年11月に大使を解任される。

再度の閉鎖[編集]

日本が太平洋戦争に突入した後、1944年夏まで東京で活動していたが、連合国軍機の空襲の可能性が出てきたことにより、一部の通信班を残してハインリヒ・ゲオルク・スターマー大使らは箱根宮ノ下の富士屋ホテルに、残りは河口湖畔の富士ビューホテルと[1]世田谷区成城に分離疎開した[2]

1945年4月30日アドルフ・ヒトラー自殺に際して、都内に残った大使館員は、恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだが、当時の日本政府は、これに対して外務省の儀典課長を参列させたのみで、弔電や半旗の掲揚などは行わなかった[3]。その後5月9日フレンスブルク政府が無条件降伏し、連合国によって行われたベルリン宣言により、ドイツに中央政府は存在せず、全土が連合国の統治下に入る旨が決定した。

降伏から1か月後の6月8日、日本政府は「ドイツ政府はもはや存在しない」として、ドイツ大使館並びにドイツ領事館の職務執行停止を正式に通告した[4]ことで、駐日ドイツ大使及び外交官としての地位を喪失した。なおこの際に日本政府は「独逸国大使」のスターマー宛に、5月25日東京大空襲で焼失した[5]旧ドイツ大使館の跡地を外務省の管理下に移すことを通知している[6]

その後スターマー以下旧大使館員は、富士屋ホテルと河口湖に全員軟禁されたが、旧大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガーはこの様な状況にも拘らず、反ナチス的な活動をする旧大使館員の動向を特高に伝えるなどしたため、フランツ・クラブフドイツ語版ら旧大使館員たちは、もはや法的な根拠のないマイジンガーの行動を停止させようとして、日本の外務省に抗議した[7][8]

分裂と再統一[編集]

大戦後のドイツ分裂を受け、その後の日本と西ドイツ東ドイツとの国交樹立以降は両国の大使館に別れた(東ドイツ大使館は港区赤坂に設けられた)。しかし1990年ドイツ再統一以降は、東ドイツ大使館を吸収する形で「再統一」された。

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 荒井訓 & 2010-3, p. 271.
  2. ^ エルヴィン・リッケルト『戦時下のドイツ大使館』中央公論社、1998年
  3. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.159 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  4. ^ 21.独逸大使館及領事館職務執行停止ニ関スル件』 アジア歴史資料センター Ref.B14090613800 
  5. ^ ドイツ連邦共和国大使館 建物と庭園-ドイツ大使館
  6. ^ 20.独逸国大使館防空壕及大使館焼跡ニ関スル件』 アジア歴史資料センター Ref.B14090613700 
  7. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.159 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  8. ^ 荒井訓 (2010-3). “終戦前滞日ドイツ人の体験(2) : 「終戦前滞日ドイツ人メモワール聞取り調査」”. 文化論集. https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/6043. 、288p

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]