香山栄左衛門

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香山 栄左衛門(かやま えいざえもん、文政4年4月10日1821年5月11日) - 明治10年(1877年4月30日)は、幕末期の幕臣は永考。昭洞と号す。妻は西丸御徒岡田定十郎の三女きん子(母は香山氏)で、中島三郎助の妻すずの実妹。

経歴[編集]

紀州藩刈谷充塞の次男として遠江新居で生まれる。天保6年(1835年)、浦賀奉行所組与力香山堅兵衛の養子となる。天保14年(1843年)に与力を継いだ。

応接掛与力であった嘉永6年(1853年)6月、浦賀奉行と称してペリー艦隊との交渉にあたった。アメリカ側から高く評価されたと伝えられる。

その後、鳳凰丸建造掛に任命されるが、嘉永7年(1854年)4月、富士見宝蔵番に昇進し、浦賀を離れた。文久3年(1863年)、歩兵指図役頭取に昇進、元治元年(1864年)6月に歩兵組改役を兼任、水戸天狗党の追討、大阪湾の台場建設に活躍した。

維新後は新政府に仕えず、茶園を開いて成功した。墓所は染井墓地、浦賀西叶神社に海軍大尉となった長男、香山永隆(1840 - 1880、元幕府軍艦役)が建立した顕彰碑が残る。