コンテンツにスキップ

首相官邸ネズミ捕獲長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
首相官邸ネズミ捕獲長
Chief Mouser to the Cabinet Office
庁舎ダウニング街10番地(首相官邸)
イギリス・首都ロンドン
任命イギリスの首相
任期規定なし。
引退あるいは死亡により退任。
創設1500年代初期
初代不明
俸給年100ポンド
オバマ・米大統領と面会するラリー。中央奥がキャメロン・英首相。

首相官邸ネズミ捕獲長(しゅしょうかんていネズミほかくちょう、英: Chief Mouser[1] to the Cabinet Office)は、ダウニング街10番地(イギリス首相の官邸)の公式な飼い猫に与えられる肩書である。Chief Mouserは「首席ネズミ捕り」[2]などと訳されることもある。

昔からダウニング街ではネズミが多く住み着いていたため、その対策として猫をネズミ捕り兼ペットとして「雇う」という習慣が1500年代の初期からあった。

ダウニング街で最も長く務めた猫はウィルバーフォースであり、彼はエドワード・ヒース、ハロルド・ウィルソン、ジェームズ・キャラハン、マーガレット・サッチャーの下で14年間働いた。

身分

[編集]

これらの猫は公務員とみなされるため[3]、官邸に住む首相の私物ではなく、ネズミ捕獲長の「任期」が首相のそれと一致することはまず無い。

例えばハンフリーに関する報道などで[4]、これらの猫が「公的に任命されている」という風に扱われることは過去にもあったが、イギリス政府では2011年2月15日に就任したラリーを公式にこの肩書を帯びた最初の猫としている[5]。

生活費として年間100ポンドほどが給与として認められているほか、職員がおやつ代を自己負担している[6]。

人間の公務員と同じように定期的な健康診断も受けている[6]。

歴史

[編集]
ウルジー枢機卿の像。椅子の下から猫が顔を出している

大蔵省やダウニング街に住みついた猫をネズミ捕り役およびペットとして「雇う」ことはヘンリー8世 (在位:1509年 - 1547年) の時代[7]、ウルジー枢機卿が大法官として執務中に自分の飼い猫を傍らに置いたことまで遡る[8]。

1860年代、ロンドンの郵便局の為替係がネズミ対策のために猫を飼い始めたのが記録に残る最も古い「公務員猫」の事例だと言われている[9]。

政府が直接猫の飼育に関与し始めたのは1920年代に入ってからだった。1929年6月3日までの分に限った『2000年情報自由法(英語版)』の一環として2005年1月4日にパブリックドメインになった公文書によると[10][11]、1929年当時、大蔵省のAE・バンハムは「有能な猫の生活費として雑費から1日あたり1ペニーを支出する」ことを事務員に認めている[12]。

1932年4月、手当は週あたり1シリング6ペンスまで増えた。21世紀の時点で経費は年100ポンドである[13]。

「公務員猫」の記録を最も詳細に残しているのは内務省である[14]。1929年に生活費が公的に支出されたのは、内務省猫(英: Home Office Cat)として飼われていたピーター(英語版)という黒猫だった。ピーターは職員に甘やかされ、おやつを食べて太りつつあったため、生活費の支出によって1日あたりの食事量を管理しようとしたのである[9][14]。食事制限で痩せた後のピーターは熱心に職務に励んでいた。第二次世界大戦中、内務省機能の一部が移転された際には追加で2頭分の生活費の申請が行われた。終戦後の1946年11月14日、17歳と高齢になっていたピーターは財務省が定める「有能な猫」への手当支給要件を満たさなくなったため退任し、安楽死処置が取られた。1ヶ月後、生後2ヶ月のオスの黒猫が後任として迎えられ、ピーター2世(英語版)と名付けられた[14]。

しかし、ピーター2世は1947年6月27日に交通事故で重症を負い、英国動物虐待防止協会による手当も虚しく、安楽死を余儀なくされた。1947年8月27日、ピーター3世(英語版)が内務省猫に就任した[14]。

ピーター3世は、特に国民的人気が高かった。内務省には動物愛好家や愛護団体から、彼の給与に関する苦情が相次いで寄せられた。内務省はこうした懸念に対し、ピーター3世が捕まえるネズミが食事の一部であること、彼の給与は食事を与え怠惰な暮らしをさせるためのものではないことなどを伝えた。また、デスクに残されていた鳩の死骸が齧られてこそいたが食べ尽くされていないことを以て、彼が飢えに苦しんでいるわけではないと説明した[14]。ピーター3世は1958年にBBCのテレビ番組『Tonight』に出演したほか、複数の雑誌からも取材を受けており、非常にメディア露出が多かった。1964年に死去した際には英国内に留まらずアメリカやイタリアからも多くの手紙が寄せられ、寄付によって大理石の墓碑が建てられたという[9]。

ピーター3世の死後、マン島副総督(英語版)ロナルド・ガービー(英語版)が内務省に宛て、後任候補として血統書付きのメスのマンクス猫を贈った。この猫がペータとして内務省猫に就任することになる。1964年5月7日、ヘンリー・ブルック(英語版)内相への贈呈式がBBCを始めとするメディアを招いて催された[14]。

ペータの就任に先立ち、内務省猫の労働条件の調整が行われた。1964年5月1日付のメモによれば、従来の猫職員(feline employees)は庁舎内清掃員によって世話されていたので、「現場作業員」(the industrial grades)扱いだった。しかし、ペータの「外交的な経歴」を考慮すると、週給制から年俸制に切り替えるべきと提案されていた。ペータは昇給も果たし、初任給は年額13ポンドだった。これは前任者の給与の2倍以上にあたる金額だった[14]。

ペータも前任者に劣らない人気者だったが、それが災いした。1967年2月、ペータにおやつを際限なく与えて極度に太らせ、怠惰な性質を助長したとして、内務省職員らが叱責された。トイレの躾もこの頃に忘れたという[14]。また、ペータはハロルド・ウィルソン首相の飼い猫ニモと喧嘩をして、仲裁を試みた首相夫人を引っ掻いた、という疑惑も掛けられていた。ただし、ペータが尾の無い黒猫である一方、首相夫人を引っ掻いたのは「尻尾のある白黒の猫」と報告されているので、猫違いとも言われている[9]。1968年頃から更迭が検討され始めた。正式にいつ退任したのかは明らかではない。1976年に行われた問い合わせに対し、内務省は「田舎で休暇を楽しんでおり、職員の所有する広い庭を自由に歩き回っている」と回答している。ペータは1980年に死去した[14]。

ピーターの系譜のほか、1940年代にはウィンストン・チャーチル首相が海軍本部前で拾ったネルソン(英語版)という猫も飼われていた[9]。

ラリーは、当時のデーヴィッド・キャメロン首相が、英国首相の官邸近くで目撃されたネズミの群れに対処するために雇い入れ、2011年2月15日に就任した[15][16]。

その年の1月、ITNによるとテレビ・ニュースの中継中、首相官邸の玄関前を駆け抜けて行くネズミが目撃された[17]。当時ネズミ捕獲長は空席だったが、首相の報道官はこの問題解決のため猫を雇う計画は無いと述べた[18]。しかし翌日の新聞は、その報道官が官邸内の「ネコ賛成派」について述べたことを報じ、その結果、問題対処のため今の衛生業者から猫への鞍替えが本当にあるかもしれないという憶測が生まれた[18]。イブニング・スタンダード(英語版)によると、この猫はデーヴィッド・キャメロンとその家族がバタシー・ドッグス・アンド・キャッツ・ホーム(英語版)で選んだものだった[19]。しかしラリーは翌年の2012年の6月を過ぎた頃から、職務に対し不熱心な様子が報道されるようになり[20]、9月になって遂に更迭されることになった[21][22]。

後任の首相官邸ネズミ捕獲長として、財務大臣であるジョージ・オズボーンが飼っているフレイヤが就任することになった。フレイヤは外で暮らしていた経験があり、職務遂行能力の高さが期待されている[21][22]。なお、ラリーは捕獲長ではなくなったものの、ネズミ捕獲員としては留任となった[22][23]。

2014年8月、フレイヤは官邸から離れた路上で交通事故に遭い、それまでも度重なる脱走が問題になっていたことから同年11月に引退、ロンドンを離れた。それにともないネズミ捕獲長の任はラリー単独で当たることとなった[24]。

2016年、イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票の結果を受けてキャメロンは首相を辞任したが、ラリーは新首相テリーザ・メイの就任後もネズミ捕獲長に留任することとなった[25]。

猫の一覧

[編集]
名前 就任 退任 首相 出典
トレジャリー・ビル 1924年 ラムゼイ・マクドナルド [26]
ピーター 1929年頃 1946年 スタンリー・ボールドウィン、ラムゼイ・マクドナルド、ネヴィル・チェンバレン、ウィンストン・チャーチル、クレメント・アトリー [10]
ミューニック・マウサー 1937年-
1940年
1943年 ネヴィル・チェンバレン、ウィンストン・チャーチル [27][28]
ネルソン 1940年代 ウィンストン・チャーチル [28][29]
ピーター2世 1946年 クレメント・アトリー [10]
ピーター3世 1946年 1964年 クレメント・アトリー、ウィンストン・チャーチル、アンソニー・イーデン、ハロルド・マクミラン、アレック・ダグラス=ヒューム [10]
ペータ 1964年 1976年頃 アレック・ダグラス=ヒューム、ハロルド・ウィルソン、エドワード・ヒース [10]
ウィルバーフォース 1970年 1988年 エドワード・ヒース、ハロルド・ウィルソン、ジェームズ・キャラハン、マーガレット・サッチャー [30]
ハンフリー 1989年 1997年 マーガレット・サッチャー、ジョン・メージャー、トニー・ブレア [31]
シビル 2007年 2009年 ゴードン・ブラウン [32]
フレイヤ 2012年 2014年 デーヴィッド・キャメロン [22]
ラリー 2011年、
2014年
現職 デーヴィッド・キャメロン、テリーザ・メイ、ボリス・ジョンソン、リズ・トラス、リシ・スナク、キア・スターマー、アンディ・バーナム [19][25]

首相官邸以外の省庁

[編集]

首相官邸以外の省庁としては、2016年4月に保護施設から引き取られ、「パーマストン」と名付けられたオス猫が、外務省にネズミ捕り長官として就任した[33]。2020年8月7日、パーマストンおよびサイモン・マクドナルド(英語版)外務事務次官の公式ツイッター上で、パーマストンが同年8月末に公務を引退する旨が発表された[34][35]。

2017年11月に在ヨルダン英国大使館にネズミ捕獲長のポストが新設され、同ポストの直属の上司は本国外務省のネズミ捕獲長とされている[36]。

2016年7月末には大蔵省が1歳半の黒猫「グラッドストン」(名前は4度にわたり首相を務めたウィリアム・グラッドストンにちなむ)を採用した[37][38]。

脚注

[編集]
  1. ↑ 英: mouser:ネズミを捕る猫
  2. ↑ 「6首相に仕え15年 英首相府の猫「ラリー」」『AFPBB News』2026年2月15日。2026年2月15日閲覧。
  3. ↑ Fenton, Ben (2005-01-04), “Cats that left a mark in the corridors of power”, デイリー・テレグラフ, オリジナルの2005-05-23時点におけるアーカイブ。 2011年12月29日閲覧。
  4. ↑ Purr-fect ending fur Humphrey!, BBCニュース, (1997-11-25) 2011年12月26日閲覧。
  5. ↑ “10 Downing Street”. gov.uk. 2026年7月30日閲覧。
  6. 1 2 日本放送協会. “イギリス首相官邸のネコが減量へ 外出制限で太りすぎ”. NHKニュース. 2021年3月11日閲覧。
  7. ↑ Davies, Caroline (1997-11-24), “More questions over how No 10 handled the kitty” (英語), デイリー・テレグラフ, オリジナルの2007-12-05時点におけるアーカイブ。 2011年12月28日閲覧。
  8. ↑ “Chapter Six. The Cat and the Law. Van Vechten, Carl. 1922. The Tiger in the House” (英語). Bartleby.com. 2011年12月28日閲覧。
  9. 1 2 3 4 5 “Bureau-cats: A short history of Whitehall’s official felines”. The National Archives. 2026年7月22日閲覧。
  10. 1 2 3 4 5 (英語) Home Office cat history revealed, BBCニュース, (2005-01-04) 2011年12月28日閲覧。
  11. ↑ “The official Home Office cat” (英語). イギリス政府. 国立公文書館 (1929年 - 1976年). 2011年12月28日閲覧。
  12. ↑ “Tale of Home Office cat” (英語), メトロ(英語版) (アソシエイテッド・ニューズペーパーズ(英語版)), (2005-01-04) 2011年12月28日閲覧。
  13. ↑ Millward, David (2005年3月15日). “Humphrey... the Downing Street dossier” (英語). デイリー・テレグラフ. 2011年12月25日閲覧.
  14. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “The bureaucats at the heart of government”. The National Archives. 2026年7月22日閲覧。
  15. ↑ “UK’s chief mouser celebrates 10 years on the prowl”. The Associated Press. (2021年2月15日). 2024年7月4日閲覧。
  16. ↑ “英首相官邸の猫ラリー、「ネズミ捕獲長」就任11年に 「毒舌」が人気【写真特集】”. 東京新聞 (2022年2月28日). 2024年7月4日閲覧。
  17. ↑ “Another rat spotted on steps of Number 10”. ITN. MSN. 2011年1月24日. 2011年12月28日閲覧.
  18. 1 2 “"Pro-cat faction" urges Downing Street rat rethink” (英語). BBCニュース. 2011年1月25日. 2011年12月28日閲覧.
  19. 1 2 Woodhouse, Craig (2011年2月14日). “Larry the tabby lands No10 job as rat catcher” (英語). イブニング・スタンダード(英語版). 2011年12月28日閲覧。
  20. ↑ 「殺し屋の本能を失った」イギリス首相官邸ネズミ捕獲長のラリー氏に批判の声 9月19日閲覧。
  21. 1 2 「英国首相 公邸の猫を更迭」The Voice of Russia 18.09.2012, 13:53 9月19日閲覧。
  22. 1 2 3 4 “A paw performance! Larry the Downing Street cat is sacked as Number 10's chief mouse catcher after chillaxing too much on the job”. デイリー・メール. 2012年9月16日閲覧。
  23. ↑ “A paw performance! Larry the Downing Street cat is sacked as Number 10's chief mouse catcher after chillaxing too much on the job”. デイリーメール. 2012年7月16日.
  24. ↑ Dearden, Lizzie (2014年11月9日). “George Osborne's family cat Freya sent away from Downing Street to Kent”. The Independent. 2015年2月7日閲覧。
  25. 1 2 “Larry the cat escapes Downing Street eviction”. BBC news (2016年7月12日). 2016年7月14日閲覧。
  26. ↑ Campbell, Mel (2010-05-19), “‘Miaow, Prime Minister’: the bureaucats of Downing Street”, Crikey(英語版) 2011年12月26日閲覧。
  27. ↑ Irving, David (2001), Churchill's War Volume II: Triumph in Adversity, Focal Point Publications, p. 833, ISBN 1-872-19715-9
  28. 1 2 “Riddles, Mysteries, Enigmas”, Finest Hour (The Churchill Centre) (110), (Spring 2001)
  29. ↑ “Riddles, Mysteries, Enigmas”, Finest Hour (The Churchill Centre) (109), (Winter 2000-2001)
  30. ↑ Merrick, Jane (2007-09-11), “Ten years after the Humphrey hoo-ha, a cat returns to Downing Street”, デイリー・メール (Associated Newspapers) 2011年12月25日閲覧。
  31. ↑ “Humphrey the Cat” (PDF). 内閣府. 2007年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月25日閲覧。
  32. ↑ “Morning press briefing from 11 September 2007”. The official site of the British Prime Minister (2007年9月11日). 2008年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月25日閲覧。
  33. ↑ “野良から英外務省のネズミ捕り長官に 自分の食いぶちは自分で”. BBC NEWS JAPAN. BBC (2016年4月14日). 2016年4月14日閲覧。
  34. ↑ “! Important news !”. Twitter. Palmerston. 2020年8月7日閲覧。
  35. ↑ “DiploMog retires at end of August”. Twitter. Sir Simon McDonald. 2020年8月7日閲覧。 “In 2016 Palmerston arrived from @Battersea_, mouser & social media phenomenon, with 105K @Twitter followers. After 4 1/2 happy years @DiploMog retires at end of August: he’s enjoyed lockdown life in countryside so much, he’s decided to stay. Everyone @foreignoffice will miss him”
  36. ↑ “ヨルダンの英大使館、ネコの「ネズミ捕獲長」が就任”. ロイター. ロイター. 2017年11月21日. 2017年11月22日閲覧.
  37. ↑ “英財務省、ネズミ駆除の「ネコ」配属 政府機関で3匹目”. CNN.co.jp. CNN (2016年7月31日). 2016年4月14日閲覧。
  38. ↑ “Gladstone the cat lands Treasury job”. BBC (2016年7月29日). 2016年8月1日閲覧。

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]