飯羽間城

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飯羽間城跡

飯羽間城(いいばまじょう)とは、鎌倉時代から戦国時代末期にかけて美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市岩村町飯羽間)に存在した日本の城。現在は城跡のみが残っている。

概要[編集]

  • 美濃国恵那郡遠山荘の地頭であった遠山氏の分家飯羽間遠山氏が本拠地とした城で明知城苗木城阿寺城阿木城千旦林城串原城などの遠山十八子城の中の一つである。
  • 飯羽間城は遠山氏の本拠地である岩村城に最も近く、防衛の最前線にある重要な城であった。飯羽間城は山の中にありながら平山城で、梯郭式と連郭式の混合縄張である。一の曲輪を最高所に、二の曲輪、三の曲輪、帯曲輪、出曲輪をもち、物見台等も多く配置していた。また、飯羽間城の北東約300メートルに出城の信城(しんじょう)も存在した。
  • 築城時期は鎌倉時代中期頃と推定されるが、遠山氏の誰が築城したかは不明である。

歴史・沿革[編集]

  • 鎌倉幕府の重臣であった加藤景廉が、幕府創設時の功績により源頼朝から与えられた荘園の中の一つが遠山荘である。加藤景廉の長男遠山景朝が、遠山氏の初代となり、以後、岩村城を拠点として遠山荘を治めたが、やがて子孫たちが遠山荘内に分かれ分家をなした。その一つが飯羽間遠山氏である。
  • 元亀3年(1572年武田信玄の命により、家臣の秋山虎繁(信友)の軍勢が信濃国伊那谷から美濃へ侵攻して岩村城の遠山氏を攻略した(岩村城の戦い)。織田信長は岩村城の周囲に多くの城砦を配置し、そこに織田氏の軍勢を派遣して岩村城奪還の機会を窺った。天正元年(1573年)武田信玄が没すると、後継者の武田勝頼東濃の形勢を有利にするため、天正2年(1574年)3万の軍勢を率いて美濃国に侵攻したため、苗木城、串原城等の遠山十八子城は次々に陥落した。織田信長は、織田信忠明智光秀など3万の軍勢で鶴岡山へ遣わし布陣して勝頼と対峙するが、武田軍の山県昌景に退路を脅かされて後退し、この間に17城目の明知城まで落城する。最後に残った城は飯羽間城のみであったが、飯羽間城の戦線が膠着したため、武田氏の家老衆である馬場信春内藤昌豊は勝頼に対して甲斐に引き上げるように進言した。しかし新参の浪人衆である名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛等が、奉公のために浪人衆に飯羽間城を攻め取らせて欲しいと願い出ると、これを聞いた旗本近習衆、外様近習衆は、飯羽間城を残しておくと敵勢の情報拠点になると家老衆を批判し、また浪人衆の意見を通すことは他国への聞こえがよくないと主張した。 結局、長坂光堅跡部勝資の進言により攻撃を継続することに決まり、飯羽間城を取り巻いていた先鋒勢が、飯羽間城の城戸を打ち破って突入し攻め落とした。『甲陽軍鑑』には、信長から派遣された14騎の武者と城兵350余人を残らず討ち取り、飯羽間城の城将[1]を土蔵で生け捕りにしたと書かれている。武田軍が甲斐躑躅ヶ崎館山梨県甲府市)に帰陣する際、足軽どもは「信長は 今見あてらや 飯狭間 城を明知と 告げの串原」と謡った。これは、「信長は城を明渡さないと浅はかに言ったが、黄楊櫛(つげぐし)のようである」という言葉に、攻略した5つの城名を織り込んだ唄である。飯羽間城はこの落城のあと、そのまま廃城となった。

所在地[編集]

岐阜県恵那市岩村町飯羽間字市場田

現地情報[編集]

  • 現在は城山の一部が崩れ、二つある登城口の一方が通行止めになっている。
  • 一の曲輪跡に「飯羽間城諸将士十三界萬霊塔」と書かれた城兵の供養碑があり、崖下の低地部に「史蹟飯峡城址之碑」という城址碑がある。
  • 飯羽間城の城跡付近から二十六間筋兜が発掘された。これは縦長梯形鉄板を26枚張り合わせた実戦向きの兜で、南北朝時代の武将が使用したものであった。このような立派な兜は、飯羽間城主が着用したものと推定できるという。この兜の出土によって、築城は鎌倉時代中期から末期と考えられている。
  • 上飯羽間の上平街道の傍らには、姫塚という墳墓がある。天正2年(1574年)武田軍によって飯羽間城が攻め落とされた時、飯羽間城主遠山友信の娘がこの地に隠れていた。里人はこの美しい姫を憐れみ、かくまって保護したが、間もなく亡くなったため、ここに葬って姫塚と呼んだと伝わっている。

交通アクセス[編集]

中央自動車道恵那インターチェンジから車で約20分

脚注[編集]

  1. ^ 飯羽間右衛門佐信次と書かれており、遠山友信または織田信次をさすと思われる。

関連項目[編集]