加藤隼戦闘隊

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飛行第64戦隊
創設 1938年(昭和13年)8月
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 戦隊
兵種/任務/特性 航空作戦
空中戦闘
編成地 彰徳
通称号/略称 高2194
愛称 加藤隼戦闘隊、加藤隼戦闘部隊
最終上級単位 第5飛行師団
最終位置 南部仏印 クラコール
主な戦歴 日中戦争-ノモンハン事件-第二次世界大戦
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加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐戦死後、陸軍少将)率いる大日本帝国陸軍飛行戦隊飛行第64戦隊飛行第六十四戦隊秘匿名高二一九四部隊軍隊符号64FRないし64F)の愛称。および、加藤建夫と同戦隊の活躍を記録した同名の映画、同名の部隊歌戦隊歌・軍歌)。

本項では部隊・映画・軍歌の3つのすべてを詳述する。

概要・戦歴[編集]

前身・編成[編集]

1938年春、飛行第2大隊第2中隊長時代の加藤建夫と九五戦

1938年(昭和13年)8月1日、彰徳飛行場において飛行第2大隊第1・第2中隊立川飛行第5連隊にて編成)と、独立飛行第9中隊平壌飛行第6連隊にて編成)の計3個飛行中隊が合同して飛行第64戦隊が編成された。初代第64戦隊長は寺西多美弥少佐(旧飛行第2大隊長)、加藤建夫大尉は旧飛行第2大隊の第1中隊長であった。

なお、第64戦隊の編成前より九五式戦闘機、のちには九七式戦闘機を装備する飛行第2大隊は日中戦争支那事変)において中国空軍国民革命軍)を相手に活躍しており、1938年3月26日に第2中隊は北支航空戦の帰徳における空戦での武勲から、帝国陸軍航空部隊飛行部隊としては初めて部隊感状北支那方面軍司令官寺内寿一大将名)を拝受、さらに4月29日には飛行第2大隊自体が部隊感状(航空兵団司令官徳川好敏中将名)を授与されているなど、当時から日本陸海軍航空部隊では有数のエース部隊の頭角を現している。

加藤大尉は同年5月、陸軍大学校(専科)入校及び陸軍航空本部員拝命の辞令を受け北支戦線従軍中の飛行第2大隊第2中隊を離れ日本に帰国しているが、8月に改変された第64戦隊は引き続き武漢作戦や南支航空戦に従軍。さらに1939年(昭和14年)7月にはノモンハン事件に参加、ソ連赤色空軍を相手とするノモンハン航空戦では第2代戦隊長横山八男少佐が戦死するなど激戦を戦い抜き、戦果を挙げた。

陸大を卒業し航本部員として欧米各国を歴訪していた加藤少佐は帰国後の1941年(昭和16年)4月10日、第4代戦隊長として当時広東に駐屯していた第64戦隊に着任。部隊名(隊号)こそ変わっているものの再び古巣に戦隊長として帰ってきたことになる。同年6月1日にはさらに第64戦隊としては初の、第2大隊から数えては3枚目となる部隊感状(南支那方面軍司令官後宮淳中将名)を拝受。

一式戦「隼」[編集]

映画『加藤隼戦闘隊』(後述)にて第64戦隊機を「演じた」明野陸軍飛行学校所属の一式戦「隼」二型(キ43-II)たち。明飛校の保有機に第64戦隊第1中隊の部隊マークである「白矢印」を描いた

1941年8月、第64戦隊は帝国陸軍の新鋭戦闘機である一式戦に機種改変するため日本に帰国、9月にかけて多摩陸軍飛行場(現・横田基地)にて機体を受領した。飛行第59戦隊に次ぐ「隼」装備部隊である第64戦隊は11月より広東で錬成の猛訓練を行い、12月3日には旧駐屯地の広東から35機全機を加藤少佐が率い、卓越した航法により1機の落伍もなしに2千数百kmを一気に飛行し仏印フコク島ズォンドンに進出した[1](第64戦隊は九七戦の頃より夜間飛行・雲上飛行・洋上航法・編隊空戦・無線活用に力を入れていた)。

なお、加藤自身は元々キ43(「隼」)の採用には否定的なスタンスであったため、第64戦隊長として機体を受領したのち「隼」大成にかける情熱に当初周囲は驚いている。この時、加藤は到着後直ちに単機の模擬空戦を初めて乗る「隼」で行ったが、低位からの空戦演習に陸軍飛行実験部実験隊荒蒔義次大尉に勝てず、「どうしても低位からの空戦に勝ちたいと思った」と模擬空中戦を4度繰り返し荒蒔を驚かせている[2]

なお、一式戦に「隼」という愛称が陸軍航空本部報道官によって公式命名されたのは太平洋戦争開戦まもない1942年3月であるが、その「隼」の名は一式戦をもって活躍することとなる第64戦隊の部隊歌冒頭のフレーズ(後述)から取られたものとされている。

南方作戦[編集]

1942年初頭、第64戦隊のピスト(フランス語に由来する空中勤務者控所を意味する陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らと談笑する加藤建夫戦隊長

第7飛行団に所属する第64戦隊は、12月7日より対米英戦争(太平洋戦争)開戦にむけて、マレー作戦の主力第25軍司令官山下奉文中将)を乗せた上陸部隊輸送船団の海上空中護衛を、加藤少佐機以下7機が実施。夜間・洋上・悪天候・長時間という特に単座戦闘機にとっては最悪の条件にもかかわらずこれを成し遂げた(悪天候により高橋三郎大尉・中道格蔵少尉・都築昌義准尉3機未帰還)。帰還後の翌8日、マレー半島北部の連合軍航空戦力に対し航空撃滅戦を展開するため、第64戦隊はほとんど休養を取らずに午前9時50分(日本時間)に加藤少佐機以下全機が出撃。第2中隊機がブレニム1機(第34飛行隊スミス軍曹機)を撃墜(損傷、バターワース飛行場に胴体着陸)、さらにバターワース飛行場の在地敵機に対し機銃掃射しブレニム4機(第34飛行隊)を破壊、第64戦隊の損害は皆無で全機が無事帰還した[3]

マレー作戦の主要戦場は日本軍に対して数倍の規模を持つ連合軍地上戦力への攻撃であり、常に日本軍航空戦力の制圧下に置く事が勝利の条件であった。このため第64戦隊も日に複数の長距離の行程を経て地上支援と哨戒戦闘を行い、連合軍機の多くを空中・地上で撃墜破した。第64戦隊の「隼」と連合軍戦闘機との空中初交戦は12月22日であり、「隼」23機はクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファロー12機と交戦、1機を喪失(リード軍曹機と衝突)するも3機を撃墜、4機を撃破(不時着損傷)する戦果を挙げた[4]

マレー作戦の最終目的地であるシンガポール攻略中の1942年1月20日、数日前に中東方面より新鋭補充機として同地に到着・配備されていたハリケーンと第64戦隊は初めて交戦。この空戦で「隼」は1機を喪失するも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜した(臨時第232飛行隊ランデルス少佐機・マーチパンクス少尉機・ウィリアムズ少尉機)。当初からホ103 12.7mm 機関砲2門を装備した特別仕様機である加藤少佐機は一連射5、6発でウィリアムズ少尉機を発火撃墜する活躍を見せている[5](最初期の「隼」の武装はホ103 12.7mm 機関砲1門・八九式 7.7mm 機関銃1挺の混成装備が標準。12.7mm 機関砲2門が標準となるのは1942年半ば以降)。

この後、第64戦隊は蘭印作戦インドネシア)、ビルマ作戦ミャンマー)にも転戦し連合軍に勝利を重ね、各南方作戦において「隼」と64戦隊はその威力を発揮した。なお加藤少佐はマレー作戦において、しばしば上層部からの指示を越える範囲まで攻撃を行っている。これによって地上部隊の進撃速度は上がったが、操縦者ら空中勤務者の疲労を招き、飛行場大隊といった整備員ら地上勤務者の派遣も追いつかないという問題が生じた。軽い戦闘整備については当初操縦者自らが行っていたが、後に移動の際に操縦席後部と胴体に機付の整備員を同乗させていた。燃料も占領した飛行場において遺棄された敵機から抜いて「隼」の運用に充てたという。

なかでも蘭印作戦における1942年(昭和17年)2月14日のパレンバン空挺作戦では、第59戦隊とともに、加藤の統一指揮のもとスマトラ島パレンバン油田落下傘降下する陸軍空挺部隊「空の神兵」こと第1挺進団一〇〇式輸送機ロ式輸送機)を護衛・掩護。第64戦隊はハリケーン15機と交戦するも、マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機の2機を撃墜し残機も撃退(内撃墜1機は加藤の戦果。さらにもう2機が燃料切れで不時着し英軍損失は計4機)[6]、かつ「隼」および降下前輸送機に損害もなく一方的に勝利している。南方資源地帯掌握のため始められた太平洋戦争において、東南アジア屈指の大油田地帯であるパレンバンは戦略上の最重要攻略目標であり、その確保に大貢献した「隼」と第64戦隊の働きは相当なものであった。

第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は戦隊長加藤少将の個人感状、飛行第2大隊時代を含めると計9枚)と日本陸海軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものであった。

以下一連の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である[7]第64戦隊・第59戦隊の一式戦は太平洋戦争緒戦の空戦において実質約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した

  • 1941年12月8日の開戦(マレー作戦開始)から1942年3月9日(蘭印作戦終了)の期間中
    • 第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機撃墜(第59戦隊30機、第64戦隊27機、両戦隊協同4機)
      • 撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機43機
      • さらに蘭印作戦中にバタビア沖上空にて1機のB-17E(フランクリン機長、41-2503号機)を撃墜 [8]
    • 日本軍側の空戦による損害は第59戦隊・第64戦隊計16機喪失(戦死11名・生還5名)

ビルマ航空戦[編集]

各地を制圧した第64戦隊は1942年3月21日からビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に参戦。以後、主にイギリス空軍およびアメリカ陸軍(初期はフライング・タイガース(AVG)を含む)と交戦し、同月23日には損害無くハリケーン1機を撃墜(第136飛行隊ブラウン少尉機)し同戦線における初戦果を収めている[9]。このビルマ航空戦に第64戦隊および飛行第50戦隊は長期間従軍しまたエース・パイロット多数を輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げた[10]

第64戦隊の一式戦は1942年6月4日までの空戦で最低でも連合軍機10機撃墜(協同撃墜のB-17E 1機を含む)、損害は11機喪失。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機6機爆撃機4機で、一式戦10機喪失はP-40によるものであった[11]

加藤の戦死[編集]

1942年5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場にブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、帰還不可能と察した加藤機は左に反転しベンガル湾の海面に突入し自爆した。戦死した加藤中佐は「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評される南方軍総司令官寺内寿一元帥大将名の個人感状を拝受、さらに帝国陸軍初となる二階級特進し陸軍少将、また功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となった。

なお丸尾大尉・大谷大尉の両中隊長、さらに加藤の後任たる八木戦隊長を失った第64戦隊において、1942年4月に第3中隊長に着任していた黒江保彦大尉は先任将校として指揮統率。自身も陸軍航空部隊指折りのエースである黒江は、イギリス空軍の高速機モスキートを撃墜[注釈 1]するなど活躍、1944年(昭和19年)1月半ばにテスト・パイロットとして再度陸軍航空審査部飛行実験部に転任するまで第64戦隊を支えた。

ビルマ戦線では雨季の期間中は航空作戦が不能ないし低調になるため、雨季を除く大戦中期たる1942年9月9日から1943年5月29日にかけて第64戦隊・第50戦隊の一式戦は連合軍機62機撃墜を記録、対する一式戦の空戦損害は36機喪失であった。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機44機爆撃機等17機偵察機1機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン36機・モホーク5機・P-40 3機、爆撃機等はB-24 5機・ブレニム5機・B-25 3機・ウェリントン2機・ハドソン1機・ボーファイター1機、偵察機はF-4 1機となる。一式戦喪失36機のうち連合軍戦闘機によって撃墜されたものは24機で、残機は爆撃機の防御砲火や対空砲火などによるものである[12]

後期[編集]

1943年12月5日、日本の陸海軍戦爆連合をもってインドのカルカッタを爆撃する龍一号作戦が発動(本作戦は陸軍航空部隊のみならず海軍航空部隊も参加し零式艦上戦闘機および一式陸上攻撃機が投入されている)。侵攻に先立ち各地に飛んでいた一〇〇式司令部偵察機チャフを散布し、日本軍のマグエ飛行場群からは第64戦隊などの一式戦多数、飛行第98戦隊の九七重爆17機、第三三一海軍航空隊の零戦27機、第七〇五海軍航空隊の一式陸攻9機が出撃しカルカッタを目指した。進行途上で第258飛行隊のハリケーンの奇襲を受け九七重爆1機を喪失するもこれを撃墜、また爆撃自体も成功し任務は完全な成功を収めた。空戦でイギリス空軍はスピットファイア1機・ハリケーン10機を喪失、一式戦はこのうちスピットファイア1機・ハリケーン7機を撃墜、零戦はハリケーン3機のみを撃墜、日本側戦闘機に喪失は無く一方的な戦闘であった[13]

大戦後期の1943年7月2日から1944年7月30日の期間、第64戦隊を筆頭とするビルマの一式戦は連合軍機135機撃墜を記録、対する空戦損害は83機喪失。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機爆撃機等32機輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機・スピットファイア18機・P-51 15機・P-38 8機・P-40 4機・P-47 1機となる。この当時のビルマ航空戦全体で日本軍戦闘機は計142機を撃墜、連合軍戦闘機は計127機を撃墜、単純に撃墜戦果のみの比較で(日本軍劣勢の大戦後期たる1944年半ばにおいても)ビルマで帝国陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角の勝負をしており[14]、主力となる一式戦に至っては幾度も勝利を収めていた。

1944年にはチッタゴンインパールコックスバザーへの侵攻、アキャブ方面の地上協力を実施。また、同年4月22日にアラカン山脈方面を進撃中だった宮辺機が、成都に単独で向かっていたアメリカ陸軍航空軍第444爆撃航空群所属のB-29と世界で初めて交戦。8発の命中弾を与え右内側エンジンを一時停止させ撃破した(宮辺は帰還後撃墜を報じたが、実際には墜落には至らずこのB-29は生還している)。

この他、拉孟・騰越両守備隊に対する物資投下作戦やインパール作戦以降撤退する地上軍の掩護、輸送船団護衛に任じた。6月10日には部隊感状を、1945年(昭和20年)1月1日には第5飛行師団隷下各部隊の一つとして部隊感状を拝受(何れも第3航空軍司令官木下敏中将名)。なお戦闘爆撃機隊も積極的に編成・運用されており、1945年2月11日にはラムリー島上陸作戦掩護にあたっていた、イギリス海軍駆逐艦パスファインダー」を池澤軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機が攻撃。合計2発の爆弾が艦尾に命中し「パスファインダー」は大破全損になっている。

特攻に関しては志願者が参加、宮辺自身は隊内事情を鑑みて、後がないようなら特攻を志願する腹だったが、最終的には第64戦隊は精鋭部隊との陸軍上層部の理由により、特攻要員の抽出や特攻隊掩護は行われていない。

なお、日本軍・連合軍の一次史料や証言をもって一連の一式戦の戦績調査研究を行った梅本弘は自著において以下の如く結んでいる。

「隼の損害、戦果ともに筆者の調査で確認できたものだけで、実際にはもっと多いはずだ。調査には限界があり、完全ではないが、昭和19年の後半から終戦まで、日本陸海軍の航空部隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた中で、主戦場から外れたビルマとさらに南東の辺境では、最後の最後まで、隼が信じられないような健闘をつづけていたのは確かである」

— 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 2010年8月[15]

終戦[編集]

終戦南部仏印のクラコールで迎え、この時点での保有機は「隼」三型(キ43-III)18機だった。飛行分科「戦闘」の飛行戦隊の定数は42機だったが、大戦後期には充足されることはほとんど無かった。主要機種は前身部隊時代を含めて九五戦、九七戦、一式戦「隼」[注釈 2]および、戦力強化のために若干数が送られた二式戦「鍾馗」。また、鹵獲したハリケーンも一時期若干数保有していた。なお、第64戦隊と共に長くビルマ航空戦を戦っていた、同じく有数のエース部隊である第50戦隊は1944年夏に四式戦「疾風」へ機種改編しているが、第64戦隊は「疾風」に乗り換えず「隼」を使用し続けていた。

残った隊員のうち何人かは強い誘いにより国民党軍やベトミンに身を投じた(宮辺の回想による)。宮辺は戦後、「飛行第64戦隊略歴」を作成。現在はその写しが防衛省防衛研究所に保管されている。また、1944年1月に陸軍航空審査部に戻った黒江は各新兵器の審査にあたり、また臨時防空部隊の「福生飛行隊」として日本本土防空戦に従軍し活躍。また、1945年2月に漢口鹵獲されたマーリンエンジン搭載P-51Cのテスト・パイロットを務め、戦後は航空自衛隊に入隊し空将補となったが、1965年(昭和40年)12月5日に趣味の釣りの最中に高波により事故死した。

第64戦隊の最終的な戦果は撃墜283機・地上撃破144機(日本側記録による)。主な損害は戦死160余名(空中勤務者)。感状授与数は7枚で陸海軍全軍中最多であり、かつ飛行第2大隊時代を含めると計9枚となる。

陸上自衛隊丘珠駐屯地丘珠空港と同居)資料館に加藤関連の資料や遺品が保存・展示されている。

部隊マーク[編集]

1939年、ノモンハン事件当時の第64戦隊の九七戦。部隊マークとして操縦席側面に「赤鷲」を描いている

帝国陸軍航空部隊には、その機体の所属を示す部隊マークとして図案等を機体に描く瀟洒な文化があり、飛行第64戦隊は「矢印斜矢印)」を使用していた。この「斜矢印」は垂直尾翼に大きく描かれ、いわゆる中隊色としては戦隊本部は「コバルトブルーの縁取った白矢印」、第1中隊は「矢印」、第2中隊は「矢印」、第3中隊は「矢印」がある。

第64戦隊に当時第3中隊整備班長として在隊していた新美市郎元少佐はマーク考案当時を回顧し以下の証言を残している。

隼に機種改変して、どうやら戦も近いらしい、戦隊マークを作らにゃいかんなあってことになって、安間さん(第3中隊長・安間克己大尉)と僕、空中勤務者と、整備の下士官が集まってわさわさやってたんだけど、この矢印なら描きやすいし、格好もいいから、これにしようってことになってね

— 新美市郎中尉(第64戦隊第3中隊整備班長)[16]

なお「矢印」の部隊マークが採用される前は(九七戦時代の途中頃まで)、を意匠化した「赤鷲」を使用していた。「赤鷲」は操縦席側面の胴体に文字通り赤色で描かれている(同時期の撃墜マークは「赤鷲の片翼」であり「赤鷲」の横に描かれる)。この「胸に描きし赤鷲」は後述の戦隊歌の歌詞として歌われており、映画でもオープニングタイトル画に採用された。

映画『加藤隼戦闘隊』[編集]

加藤隼戦闘隊
スタンダード
加藤隼戦闘隊
監督 山本嘉次郎
脚本 山崎謙太
山本嘉次郎
製作 村治夫
出演者 藤田進
大河内伝次郎
志村喬
高田稔
音楽 鈴木静一
撮影 三村明
配給 社団法人映画配給社
公開 日本の旗 1944年3月9日
上映時間 109分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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映画『加藤隼戦闘隊』にて藤田進演ずる加藤少将と第64戦隊機を「演じた」一式戦二型(キ43-II)。本作に登場する多数の一式戦は明野陸軍飛行学校の保有機であり、空戦の撮影も主に明野を舞台に行われた。このシーンは、海軍の真珠湾攻撃の成功を聞き、喜んでいる所である

1944年3月、東宝映画『加藤隼戦闘隊』として公開された。山本嘉次郎監督を務め、陸軍省後援・情報局選定の国民映画として9日に封切り公開され[注釈 3]、1944年に最も興行成績を上げた大ヒット作となった。

原作は第64戦隊に所属していた後の「義足のエース」こと檜與平中尉および遠藤健中尉が、中隊長教育を受けるために日本に帰国し明野陸軍飛行学校(現・陸上自衛隊明野駐屯地陸上自衛隊航空学校)の甲種学生時代、戦隊の緒戦の戦いぶりを著した『加藤隼戦闘部隊』である。原作者の一人の檜は、1943年11月にP-51Aと交戦中に右足を負傷し内地後送となり義足となったが戦列に復帰、本土防空戦にてP-51Dを確実撃墜するなど活躍、大戦を生き延び1991年(平成3年)に71歳で死去した。もう一人の遠藤は著作の上梓前に1943年5月15日に雲南で戦死している。『加藤隼戦闘部隊』は2003年(平成15年)にカゼット出版から復刻発売された (ISBN 4-434-07988-3)。

帝国陸軍の古参の戦闘機乗りとして空に生き、性格は豪放磊落かつ部下思い、また洒落っ気のある名指揮官名パイロットたる加藤の人物像そのものは名優藤田進が演じている。

本作は陸軍省報道部、陸軍航空本部、各陸軍飛行学校、各基地の全面協力のもとに製作され、映画に登場する軍用機は、この映画のためだけに大半のシーンで実際に一式戦「隼」を始め、九七重爆、九七輸、九七戦といった実機を飛ばし、また敵連合軍機役のF2A、P-40、ハドソンなどは、実際に太平洋戦争で鹵獲された実機が日本軍機と同じく映画のために用意され撮り下ろしされリアリズムに徹している。なお加藤時代の装備機は「隼」一型(キ43-I)であったが、映画では撮影の都合により二型(キ43-II)が主に、また「鍾馗」が敵機役として少数使用され遠景シーンに登場している。映画序盤の僅かなアクロバット飛行シーンのみ同じ東宝映画の『翼の凱歌』(1942年、山本薩夫監督)から流用され、また当時南方戦線で航空部隊の記録映画を撮影していた村田武雄による「隼」部隊の現地映像も数カット提供を受けているが、大半は『加藤隼戦闘隊』のオリジナル映像である。

さらに帝国陸軍は本作の空中撮影用に偵察機、爆撃機、戦闘機計3機を提供、高度6,000mでの空中戦撮影では、三村明カメラマンが夢中になって撮影機の窓から半身を乗り出してしまい、これを山本監督が必死になって押さえるという一幕もあった。タイトルの通り、加藤と第64戦隊を主軸にしたセミ・ドキュメンタリー映画であるものの、第64戦隊が空中掩護したパレンバン空挺作戦も再現され、陸軍空挺部隊の降下・戦闘の各描写が丹念に当映画のため撮影されている。このパレンバン空挺作戦の撮影には、陸軍の意向で30台の撮影カメラが動員され、カメラマンは画面に映っても支障のないよう挺進兵の降下服姿でこれを行った。カメラ30台を持ちだされた東宝撮影所は、このため一時他の作業がすべて止まってしまったという。

重爆隊によるラングーンのイギリス空軍飛行場と港湾の空爆描写に至っては、円谷英二の名特撮にて迫力をもって再現されている。特に、飛行場爆撃の地上シーンでは、リアルな造形の格納庫や地上設備(ミニチュア撮影)が続々と爆撃で粉砕されていくそのすぐ横を避難する英軍将兵の集団を、「移動マスク合成トラベリングマット合成)」により、極めて完成度の高い合成映像に作り上げられている事から評価も高い。円谷特撮監督ら特撮班は、本作のためにこの「移動マスク合成」の技法を開発し、日本初となる本格的導入を行った。「爆発する格納庫の手前を逃げる将兵」といった画面は、向山宏合成技師がフィルムを青と赤に染め分け、人物一人一人のマスク(黒く切り抜いた部分)を作りはめ込んだものであるが、当時の資材としては非常に手間のかかるものだった。しかし本作で東宝特撮班の合成技術は飛躍的に発展することとなった。

戦中の国威掲揚映画という側面はあるものの、『加藤隼戦闘隊』は戦前中の戦争映画・特撮映画、そして往年の名機達の息吹を感じられる、貴重な戦争映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっている。

軍歌『加藤隼戦闘隊』[編集]

「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まるこの歌は、1940年(昭和15年)2月末に南寧に応急派兵された「丸田部隊」こと第64戦隊第1中隊(丸田文雄中尉を隊長とし当時は分遣隊として運用)で、部隊の戦意高揚のため生まれたが[17]、すぐに全戦隊員の要望で「飛行第64戦隊歌飛行第六十四戦隊歌)」となった部隊歌である。

歌詞の意味は作詞者の田中林平中尉(当時准尉)によれば、「威風堂々、陸の隼がゆくところ、そこには激しい空中戦が待ち構えていた」、「勲の蔭で多くのパイロットが死んでいったが、戦いが継続する限り、哀しみを乗り越えて、我々は祖国のために闘わねばならない」、「立川出征以来、身をもって(華北やノモンハンで)体験した様々の哀歓と感動がこめられ、また亡くなった先輩・戦友を想う心」を秘めた第1中隊の歌であるが、「広く日本陸軍戦闘飛行戦隊に共通する、明野スピリットでもある」という[18]。なお、歌詞に出てくる「隼」とは作詞当時は単に戦闘機を猛禽類に例えた愛称にすぎなかったが、後の太平洋戦争緒戦において第64戦隊が一式戦をもって活躍したため、その部隊歌「飛行第64戦隊歌」から「隼」が取られ「一式戦の公式の愛称」に採用されている(1942年3月8日、陸軍航空本部は一式戦を「隼」と命名・発表)。

1940年2月22日、南寧に到着した第64戦隊第1中隊(丸田部隊)の任務は、援蒋ルートの遮断、柳州、桂林地区への攻撃、南寧地区の防空であった。しかし、南寧は天候が悪く、その上敵航空勢力との会敵もないことから士気の低下が心配された[19]。そこで、部隊人事係に任命された田中林平准尉が士気高揚の為に、北支での戦訓をもとに部隊歌を作ることを発案、歌詞が隊内で公募された。丸田隊長ら将校で選考した結果、同盟通信記者の藤本有典や隊の者の意見を入れて作詞した、十篇近く集まった中で発案者の田中准尉と旭六郎中尉の合作とされるものが選ばれた[20]。この歌詞への作曲は、部隊が広東に戻ったとき南支那方面軍軍楽隊の守屋五郎隊長に丸田隊長が依頼した[21]。この時、丸田隊長が「四節は調子を変えて欲しい」と要望したため、一、二、三、五節は明るいハ長調であるが四節のみはハ短調へと転調(岡野正幸軍曹がこのパートを書いたとされる)され、「悲しき部隊の犠牲者」を偲ぶ思いをあらわす節として完成した[22][23]。この丸田部隊歌を、当時第64戦隊本隊が駐屯する満州東京城で朝日中尉が披露したところ、戦隊の全員より懇願され飛行第64戦隊に「申し受け」された。以後「飛行第64戦隊歌」となったという[24]

1941年1月1日に公開された「同盟ニュース映画」で国民に紹介され[25]、映画『加藤隼戦闘隊』でも事実上の主題歌として使用[注釈 5]、映画封切直前には灰田勝彦[注釈 6]の吹き込みで『加藤部隊歌』のタイトルでレコード化されている。これにより日本国民が広くこの歌を知ることとなり、また「飛行第64戦隊歌」はそのまま「加藤隼戦闘隊」とも呼称され人気を博した。

なお、南支で従軍中の丸田部隊は日本ニュース映画社の取材を受けており、その模様は1940年12月27日に「日本ニュース第30号」「凱歌南支を圧す 陸鷲暁の出動」として公開、空中撮影した編隊飛行を行う九七戦の映像を背景に、この後の「飛行第64戦隊歌」(合唱付)が使用されている。

  • 作詞:飛行第64戦隊 田中林平准尉
  • 作曲:南支那方面軍軍楽隊 原田喜一軍曹、四番の旋律のみ岡野正幸軍曹
  • JASRAC管理著作物
階級は1940年当時

また、文才も豊かな黒江保彦少佐が第64戦隊時代に、戦地の飛行場で作詞した第二隊歌ともいうべき「印度航空作戦の歌」(作詞:黒江保彦、作曲:ビルマ方面軍軍楽隊荻原益城軍曹)が存在し、当時の人気流行歌手である伊藤久男によりレコーディングされている。このためか、一部では「飛行第64戦隊歌」の作詞者を黒江保彦と混同・誤解されている[26]。ドリフターズは「ドリフの軍歌だよ全員集合!」で加藤茶が歌っている。「ドリフだよ!全員集合(赤盤)」に収録。何故か、一番の歌詞が「しるしは我らが戦闘隊」になっている。

参考文献[編集]

  • 檜與平『つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2104-2
  • 黒江保彦『あゝ隼戦闘隊―かえらざる撃墜王』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2017-8
  • 宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社NF文庫、1986年、ISBN 4-7698-2206-5
  • 田中林平『翼よ雲よ戰友よ』時事通信社 1972年
  • 秦郁彦『太平洋戦争航空史話(上)』中央公論新社文庫、1995年。
  • 押尾一彦・野原茂『日本軍鹵獲機秘録』光人社、2002年、ISBN 4-7698-1047-4
  • 梅本弘『ビルマ航空戦・下』大日本絵画、2002年、ISBN 4-499-22796-8
  • 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』別冊宝島編集部編、2009年、ISBN 978-4-7966-7247-4
  • 中山雅洋『中国的天空(下)沈黙の航空戦史』大日本絵画、2008年、ISBN 978-4-499-22945-6
  • 『日本陸軍機写真集』エアワールド、1985年。
  • Sakaida, Henry. (1997). Japanese Army Air Force Aces, 1937-45. London: Osprey Publishing.ISBN 1-85532-529-2
  • 『東宝特撮映画全史』(東宝)
  • 『東宝SF特撮映画シリーズVOL3』(東宝)
  • 梅本弘 (2010a),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月
  • 梅本弘 (2010b),『捨身必殺 飛行第64戦隊と中村三郎大尉』 大日本絵画、2010年10月
  • 遠藤健・檜與平 (2002). 『加藤隼戦闘部隊』 カゼット、2002年10月 (初版は鱒書房、1943年5月発行)

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 「隼」の最高速度では補足できないが、航続力を生かして相手からほとんど視認できない距離でこれを追尾、モスキートが残燃料の関係で巡航速度に落としたところ、漸く追いつき死角から接近して撃墜する「送り狼作戦」で仕留めている。
  2. ^ 加藤はこの「隼」の性能向上に大変意欲的であり、既存の無線機無線電話)や防弾装備を重要視していた。
  3. ^ 戦後の1963年(昭和38年)に本作は再び劇場公開された。
  4. ^ 挺進兵としても出演している。
  5. ^ 映画の本来の主題歌は「隊長殿のお言葉に」(作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄。歌:灰田勝彦、小畑実など)であり、「加藤隼戦闘隊」はB面に収録された挿入歌である。これはレコードに添付の文句紙(歌詞カード)の記載と順番により明らかであるが、劇中では「加藤隼戦闘隊」が多用されている。
  6. ^ 灰田は映画の中ではパレンバンに降下する落下傘部隊の隊長役で出演している。

出典[編集]

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  1. ^ 梅本 (2010a), p.8
  2. ^ 高城肇 「丸メカニック45号(隼・飛燕)」 潮書房 p.35
  3. ^ 梅本 (2010a), pp.8-9
  4. ^ 梅本 (2010a), p.11
  5. ^ 梅本 (2010a), p.15
  6. ^ 梅本弘『第二次大戦の隼のエース』大日本絵画、2010年、20項
  7. ^ 梅本 (2010a), p.23
  8. ^ 梅本 (2010a), p.21
  9. ^ 梅本 (2010a), p.24
  10. ^ 梅本 (2010a), p.77
  11. ^ 梅本 (2010a), p.27
  12. ^ 梅本 (2010a), p.39
  13. ^ 梅本 (2010a), p.64
  14. ^ 梅本 (2010a), p.77
  15. ^ 梅本 (2010a), p.124
  16. ^ 梅本 (2010a), p.13
  17. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.230
  18. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.231~233
  19. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.230
  20. ^ 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  21. ^ 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  22. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.233
  23. ^ 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  24. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.234
  25. ^ 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.234
  26. ^ 黒江保彦「隼戦闘機隊-かえらざる撃墜王-」光人社 P.1 高木俊郎の回想

関連項目[編集]

外部リンク[編集]