鈴木嘉和

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鈴木 嘉和(すずき よしかず、1940年 - 1992年11月消息不明)は、風船おじさんとして知られたピアノ調律師。自称冒険者

略歴[編集]

東京都でピアノ調律師の一家に生まれる[1]国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市ピアノ調律業を営む。

1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケの「マイナスワンテープ」というオーケストラからピアノの音を抜いた録音テープの販売を開始。1986年には銀座では音楽サロンのあんさんぶるを開店[2]。さらに麻雀荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが[3]、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。借金苦に陥る。ビニール風船26個を付けたゴンドラ飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという[4][5]

1989年横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いこと及び、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。これに対し博覧会運営当局が対策を取らないことに抗議して、同年7月30日に高さ30メートルの塔に博覧会のマスコット「ブルアちゃん」のぬいぐるみを着てよじ登り、塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らした。7時間立てこもり、119番通報されたハシゴ車と警察が出動する騒ぎになった。警察によって引き降ろされたが、抗議の際には出店に3,000万円を要したとしていた[6][7]

この抗議の後、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力で高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置した。

経営する銀座のパブに出資してもらったことから[4]1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消[8][9]

1992年4月17日には、風船で飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こした。府中署防犯課の警察官の制止を聞かずに東京都府中市多摩川河川敷から千葉県九十九里浜を目指してヘリウム風船で飛び立った。座った椅子に5メートルと2.5メートルの風船各2個を直接くくりつけて飛行していたが、おもりの15kgの砂袋2個が外れて急上昇して、予定の高度400メートルが5,600メートルの高度に到達したため、当日購入していた百円ライターの火で炙って5メートルの風船を切り離した。この後、高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根に不時着した。しかし左手に怪我をした程度で済み、駆けつけた蒲田署員に謝罪しつつも、成功すれば次はハワイを目指す予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていた[9][10][11][12][13][14]。一方、民家はが壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたが、弁償も挨拶もなかったという[8]

この初飛行の後、NHKのラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。しかし、この4月の実験飛行の失敗によって、マスコミ各社は距離を置くようになり[8]、風船のヘリウムガスを売ってもらえなくなった[15]

同年11月23日に「ファンタジー号」に乗り、琵琶湖湖畔から太平洋横断を目指し出発したが、数日後消息は途絶えた(後述参照)。

家族[編集]

1992年5月に国立音楽大学のピアノ科講師で高校時代に1学年上だったピアニストの石塚由紀子とは音楽教材の仕事をともにするようになり、やがて3度目の結婚[4][16]。石塚は2000年に著作『風船おじさんの調律』(未來社・ISBN 4624501292)を出版した[17]

2003年6月に、継子の石塚富美子がバイオリン奏者「fumiko」としてデビューした[18]2004年にはNHKのドラマ『火消し屋小町』で女優としてもデビューした[19]

石塚にはfumikoの他に娘2人がおり、1994年に母娘4人でファミローザ・ハーモニーというクラシック音楽を中心にした音楽グループを結成し、ディナーショーを開催したり、日本国外でも活動した。なお、娘3人は石塚の前夫との間の娘であり、鈴木との血縁関係はない[20][21][22]。先妻との間には実子をもうけている[23]

ファンタジー号事件[編集]

事件の概要[編集]

1992年11月23日、当時52歳でヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」の試験飛行を琵琶湖畔で行う。

試験飛行の場には、電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビワイドショーおはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが集まった[8]

この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった[4][15]。しかし、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃、「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープを外した。「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とし周囲の制止を振り切って、アメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した[15]

翌日は携帯電話で「朝焼けがきれいだよ」と連絡が取れたものの[24]、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認した。しかし捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。ファンタジー号の高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達した。約3時間の監視ののち雲間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。

以後、SOS信号は確認されておらず、家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカ合衆国カナダロシアに救難要請を出した[25]

鈴木の計算では、ファンタジー号は、高度1万メートルに達すれば、ジェット気流に乗って、40時間でアメリカに到着するはずだったが[8]、以後の消息は不明である。当時の気象大学校の教頭である池田学は『朝日新聞』の取材に対し、「生存は難しいだろう」と答えている[25]。ファンタジー号のビニール風船の素材が塩化ビニールならば、1日に約10%の割合でガスが抜け、 海に着水している可能性が指摘されている[26]

冒険の動機は、同志社大学教授の三輪茂雄の鳴き砂保護に賛同して、鳴き砂保護を訴えるためだったと言われる。鳴き砂の海岸がある島根県邇摩郡仁摩町(現大田市)の町長に2度の接触を持ち、経済援助を要請していた。その際「2億円の生命保険をかけている」と説明したという[9]。生命保険については、債権者に5,000万円の保険に加入したと語っていたという情報もある。この債権者には、成功すればCM料で借金が返済できるとも説明していた[4]

しかし仁摩町からの太平洋横断飛行出発には、4月の東京での飛行の失敗のために日本の運輸省の許可もアメリカの連邦航空局の許可も下りず、仁摩町は文書で正式に要請を断った[8][4]。なお、仁摩町では鈴木が高校時代に見て以来好きだったというフランス映画『赤い風船』をビデオで見せていたという[24][5][15]

三輪教授には、会うたびに異なった計画を説明をし、「断食の訓練をしたから食事は要らない」「アメリカから帰ったら有名になれる。俺は冒険家だ」とも語っていた[9]。そんな鈴木に三輪は無線免許を取ることと、鳴き砂のある仁摩町から飛ばなければ意味がないと諭していた[27]が、それにも関わらず、琵琶湖湖畔から旅立たれ、裏切られた思いだとマスコミに感想を述べている[8]

ファンタジー号[編集]

直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個装備。ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高いを使用していた。ゴンドラ製作を依頼したのは桶職人で、桶造りでは東京江戸川区の名人と言われる人物ではあるが、飛行船のゴンドラは専門でない。風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。ただし焼酎は浮力不足のため、琵琶湖畔からの出発の際に200本全てが下ろされた[15]

積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメット紫外線防止サングラス等であった。

出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布で、無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。食糧については、鈴木は絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった[8]。さらにテレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた[15]

ファンタジー号のビニール風船については、もともと人を乗せるものではないし、零下何十度にも達する高空に耐える保証もないことを制作したアド・ニッポー社は取材に答えている。日本気球連盟の今村純夫も、上空で気圧が下がると、球形の風船では膨らんで弾ける可能性を指摘。さらに破れてヘリウムガスが抜ける風船があったものの、鈴木は出発の前に粘着テープで応急修理して使ったという[8][15]。4月の不時着事故でこれまでの会社がヘリウムガスを売ってくれなくなったため、別の会社から調達。計280万円分のヘリウムボンベはトラック3台で運搬された[15]

ファンタジー号での冒険にあたっては、鈴木は金を募ったが、寄付された金額は不明。ゴンドラの制作のために多額の借金を負い、支援者の1人が1,300万円を肩代わりした[4]

マスメディアの反応[編集]

ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局のワイドショー番組では、貴乃花宮沢りえの婚約報道とともにトップニュース扱いで毎日のように報道。「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。

新聞のテレビ欄では、11月26日にフジテレビ『タイム3』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『モーニングEye』が「無謀・風船男太平洋横断決行」、『スーパーワイド』が「風船おじさんを大追跡」と取り上げているのが確認できる。12月1日には『モーニングEye』が「風船男飛んで1週間消息徹底追跡」、『タイム3』が「追跡風船男米空軍も調査」。密着取材していたフジテレビの『おはよう!ナイスデイ』は12月2日に「風船男の安否」、12月3日に「風船おじさん 遂に身内捜索願」と取り上げた。

しかし、1992年12月6日以後は、オーストラリアで新婚旅行中の日本人妻が失踪する事件(のちに狂言であることが発覚)が発生し、マスメディアの関心が移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、『スーパーワイド』が12月6日「風船男SOS」、12月8日に「風船男SOS検証」と取り上げているのがテレビ欄で確認できる最後であり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。

週刊誌では、同年12月17日号の『週刊文春』が、密着して出発時の映像も撮影していたフジテレビの姿勢を「鈴木を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。12月24日・31日合併号の『週刊新潮』は過去のプライバシーを明かす記事を掲載した。見出しには、『週刊文春』が「風船男」、『週刊新潮』は「風船おじさん」を使った。

フジテレビは『週刊文春』の取材に対しタイアップしておらず、また鈴木は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。

その後[編集]

残された妻は会社の共同経営者であり、家が抵当に入っていることもあり[20]、借金は残された妻が払い続けている(2006年時点)[21]。1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は戸籍上は生きていることになっているという。ただその時点で失踪宣告の手続きをしようかと思うようになったとも語っている[20]

「風船おじさん」については、その後も話題になることがある。

例えば、タレント映画監督ビートたけしは、野球選手のイチロー国民栄誉賞を辞退した際に、冒険家だった風船おじさんに国民栄誉賞をあげればいいと語ったことがある[28]

1995年にはレピッシュがアルバム「ポルノポルノ」に「風船おじさん」という曲を収録。ドン・キホーテ的生き方を敬意とともに肯定する内容となっている。

1997年4月には、劇作家山崎哲の作・演出で鈴木をモデルにした舞台『風船おじさん』が新宿シアタートップスで上演された。蟹江敬三の一人芝居である[29][30]

1998年11月22日の20時からは文化放送が鈴木の妻や周辺に取材して、『ファンタジー号に乗って~あれから6年 消えない響き』というドキュメンタリーのラジオ番組を放送した[31][32]

遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマである[33]

脚注[編集]

  1. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.125
  2. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.163
  3. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.167
  4. ^ a b c d e f g 『週刊新潮』1992年12月24日・31日合併号
  5. ^ a b 「風船おじさんが遺した意外な発明品」『週刊文春』2001年1月4日・11日合併号、p.56。
  6. ^ 「通風筒」『中日新聞』1989年7月31日号。
  7. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.79
  8. ^ a b c d e f g h i 『週刊文春』1992年12月17日号
  9. ^ a b c d 『週刊朝日』1992年12月25日号
  10. ^ 「冒険風船あえなく不時着」『読売新聞』1992年4月18日号。
  11. ^ 「風船で空中散歩 落下し男性けが」『中日新聞』1992年4月18日号。
  12. ^ 「20キロ先の民家に不時着、瓦割る 風船の冒険男性」『毎日新聞』1992年4月18日号。
  13. ^ 「青鉛筆」『朝日新聞』1992年4月18日号。
  14. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』 未来社、2000年、p.90
  15. ^ a b c d e f g h 三輪茂雄「彼の出発状況」(Internet Archiveのキャッシュ)
  16. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』 未来社、2000年、p.119,131
  17. ^ 「『風船おじさん』今どこに? 妻が思いつづった本出版」『毎日新聞』2000年12月12日
  18. ^ 「消えた風船オジサン三女がCDデビュー! バイオリニストfumiko」 ZAKZAK 2003年4月14日 ※リンク切れ
  19. ^ 「『風船おじさん』の娘、fumikoが女優デビュー」『東京中日スポーツ』 ※リンク切れ
  20. ^ a b c 「今も帰りを待ち続ける『風船おじさん』の妻」『週刊新潮』1999年5月6日・5月13日合併号、p.26。
  21. ^ a b 「『風船おじさん』妻と娘が2万円「Xマスディナーショー」」『週刊新潮』2007年1月4日・11日合併号
  22. ^ 「『風船おじさん』出発から十年、家族はディナーショーで音楽活動」『週刊文春』2003年1月2日・1月9日合併号、p.44。
  23. ^ 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.126
  24. ^ a b 「風船おじさん 原点は仏映画『赤い風船』だった」『週刊朝日』2000年12月15日号、p.167.
  25. ^ a b 「風船旅行鈴木嘉和さん、消息途絶え絶望か」『朝日新聞』1992年12月13日号。
  26. ^ 「不明1ヵ月、情報ゼロ 米へ飛行 風船おじさん」『中日新聞』1992年12月28日号。
  27. ^ 堀江謙一植村直巳の例に見られるように、冒険家は世界中どこでも連絡の取れるアマチュア無線を保有・使用するのが定石。
  28. ^ 「ビートたけしの21世紀毒談 国民栄誉賞はイチローじゃなく"風船おじさん"にあげろっての」『週刊ポスト』2001年11月23日号、p.216。
  29. ^ トム・プロジェクト株式会社 概略 トム・プロジェクト公式サイト
  30. ^ 「蟹江の演技が熱気 トム・プロジェクト『風船おじさん』」『朝日新聞』1997年4月8日夕刊。
  31. ^ 山家誠一「ラジオ交差点 風船おじさんの『夢』」『朝日新聞』1998年11月16日夕刊。
  32. ^ 「『風船おじさん』のドキュメンタリー 22日・文化放送」『東京新聞』1998年11月18日号。
  33. ^ 「消えたあの23人を大追跡! アラスカで風船おじさん発見!?」『女性セブン』2002年1月17日・24日号。

参考文献[編集]

  • 「風船おじさん 一発逆転飛行の動機と結末」『週刊朝日』1992年12月25日号
  • 「フジTVが舞い上らせた風船男」『週刊文春』1992年12月17日号
  • 「行方不明『風船おじさん』の『女』と『金』のペテン人生」『週刊新潮』1992年12月24日・31日合併号
  • 宝泉薫編著「おじさんはいかに生きるか クシャおじさん、風船おじさんほか」『芸能界一発屋外伝』彩流社、1999年、pp.164-p165。

関連事項[編集]