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頸城トンネル

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頸城トンネル
Kubikitunnnel.jpg
頸城トンネル 名立・直江津方坑口(終点)
頸城トンネルの位置(日本内)
頸城トンネル
赤線.頸城トンネル、1.能生市振米原)方坑口(起点)、2.筒石駅3.名立直江津)方坑口(終点)
並行する橙破線は北陸自動車道
概要
路線 えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン
位置 新潟県
座標 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度 / 37.14056; 138.07417座標: 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度 / 37.14056; 138.07417
現況 供用中
起点 新潟県糸魚川市
終点 新潟県上越市名立区
駅数 1
運用
建設開始 1966年(昭和41年)
開通 1969年(昭和44年)9月29日
管理 えちごトキめき鉄道
技術情報
全長 11,353 m
軌道数 2(複線、一部3線)
軌間 1,067 mm
電化の有無 有(直流1500 V
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頸城トンネル(くびきトンネル)は新潟県糸魚川市大字能生字白拍子のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン能生駅と同県上越市名立区名立大町字町田道下の同線名立駅の間にある鉄道トンネルである。本項では、本トンネルを含む北陸本線(→日本海ひすいライン)糸魚川駅 - 直江津駅間の複線化工事に伴う改良についても述べる。

概要[編集]

1969年(昭和44年)に完成した日本国有鉄道北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化に伴い、浦本駅 - 有間川駅に建設された新線の一部を構成し、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化による西日本旅客鉄道(JR西日本)への移管を経て、2015年(平成27年)3月14日に本区間に並行して、北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間が開業したことに伴う、北陸本線新潟県内区間(市振駅 - 直江津駅間)のえちごトキめき鉄道移管により、現在の所属となった。

延長は11,353 m であり、能生駅 - 名立駅間(11.7 km)の大半を占め、完成当時国内第3位であった[1][注釈 1]。また、えちごトキめき鉄道移管後はJR線以外(いわゆる民鉄)の鉄道トンネルとして日本最長となった[2][注釈 2]

本区間は新線化に際し複線となっており、トンネルも基本的に複線断面となっているが、名立駅の待避側線設置の関係上、名立方 280 mは3線となっている[注釈 3]。また、トンネル中間には日本で3例目の山岳トンネル内の駅となった筒石駅が設置されている。このため筒石駅部は幅2 mの片面ホームを上下線でずらして配置している[1]

なお、名称についてしばしば「城」のように拡張新字体を用いて表されていることがあるが、以前の管理者であるJR西日本では、管理最終年度の2014年(平成26年)度に発行した『データで見るJR西日本2014』において「頸城」の表記を用いている[3]。以下特記ない限り、名称については「頸城」の表記を用い、引用についても、実際の表記のいかんに関わらず同様とする。

建設に至る背景[編集]

糸魚川市徳合の旧線跡地(新潟県道542号上越糸魚川自転車道線、2012年)

糸魚川駅 - 直江津駅間の鉄道は1911年(明治44年)に直江津駅 - 名立駅間が信越本線支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)に糸魚川まで延伸され[4]1913年(大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続し、北陸本線に編入された。当初この区間は、大部分が現在の国道8号に並行し、日本海の海食崖・山裾を縫うように敷設された[4]。しかし、以下の問題があった。

速度向上の難しさ・逼迫する輸送量[編集]

この区間は本線としては最急となる半径300 m の曲線が29か所存在するなど、曲線が連続するため、速度向上が困難であり[5]、当時運行されていたキハ80系気動車(最高速度100 km/h)による特急列車「白鳥」もこの区間の表定速度は約60 km/h に過ぎなかった[4][注釈 4]。加えて、単線区間であることによりこの区間は線路容量が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた[4]

しかし第二次大戦後の重工業開発による輸送量の増大により北陸本線は1963年(昭和37年)の時点で貨物発送トン数が10年間で1.86倍となる全国一の伸びを記録し[6]、糸魚川・直江津地区では貨物列車の比率が全体の約60~65%に達した[6]。結果として、1963年(昭和37年)の時点で同区間を含む糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至り、1965年(昭和40年)ごろには104回に達する見込みであった[4]

日本鉄道技術協会が発行した『JREA』1963年4月号に掲載された、国鉄各支社の担当者による座談会「幹線の行きづまりをどうするか」において、当時の国鉄中部支社企画室長、滝川良和は限界を迎えつつある北陸本線の輸送の状況について以下のように述べている[6]

北陸線では1本の臨時列車のスジを旅客に使う貨物に使うで、営業部内がとにかく2、3ヵ月議論しなければ結論が出ないということなんですね…(中略)…完全に旅行客の増発というものは、ここ10年来おさえにおさえていまして、乗車効率は10年前より明らかに悪化している状態で、旅客が伸びようがない。 — 滝川良和(国鉄中部支社企画室長)、<座談会>幹線の行きづまりをどうするか?[6]

また、同じく中部支社の鶴見三郎も同誌同号で以下のように述べている[7]

景気調整下の不況時であった昨年(引用注:1962年)の秋でも、北陸線はギリギリいっぱいである。長岡から上越線で日本の背骨を越えて、わざわざ東海道に遠廻りして、やっと目的地に到着させた貨車が、毎日20両もあった。

こんなやりくりの苦心をしても「輸送力不足のためやむなくトラックで輸送した」という貨物が4万トンを越えた〔ママ〕…

(中略)

…青海・糸魚川地区には新・増設工場があって、この地域の出貨は昨年より大幅に増加することはまず確実である。昨年より少なくとも2~3往復が増発できないと、お先まっくらというほかない。

輸送力が足りない…(中略)…北陸トンネルの完成(引用注:前年の1962年開通)は確かに北陸の夜明けを告げるシンボルである。だが最大のあい路は解消しても、第2、第3、のあい路は北陸線の輸送力の前に大きな壁となって立ちはだかっている…

(中略)

…数年前の経済白書に、”もはや戦後ではない”という有名な言葉があるが、北陸線では供給さえあればなんでも飛ぶように売れた”戦後”がまだつづいているのである。

— 鶴見三郎(国鉄中部支社)、<幹線の四季>秋の北陸線[7]

地すべり[編集]

1916年(大正5年)9月26日の地すべりにより破壊された筒石駅
1934年(昭和9年)2月16日に能生駅 - 筒石駅間で発生した地すべり(通称「藤崎地すべり」)を伝える東京朝日新聞の記事

新潟県は日本有数の地すべり地帯であるが、糸魚川駅 - 直江津駅間で通過する旧西頸城郡(現在の糸魚川市域と上越市名立区)はいわゆる糸魚川静岡構造線地帯であり、新第三紀層とこれを不整合に被覆する第四紀層からなる地質条件を持つ[8]。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は 3,000 ha におよぶ[9]

旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な継続的な地すべり(1.0 - 1.5 m / 年程度で絶えず滑動)ではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊(崩壊末期の速度は 10 m / sec に達する)を生じる、間けつ的崩壊性の地すべりをする特徴があり、予知・対策が難しいとされる[8][9]

糸魚川駅 - 直江津駅間では建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生しており[10]、特に能生駅 - 筒石駅間はベントナイト凝灰岩が地表近くに広く分布し、かつ破砕帯も多いために、地すべり崩土層が広く厚く分布することから[8]、沿線の中では特に地すべりが多かった[11]。こういったこともあり、鉄道技術研究所(鉄道総合技術研究所の前身)では1948年(昭和23年)に地すべりと土質の研究の調査研究を行う能生実験所を設置している[10]

沿線で特に甚大であった地すべり被害としては1963年(昭和38年)3月16日16時20分頃、能生町小泊(現:糸魚川市能生小泊、能生駅 - 百川信号場間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、大規模な連続地すべり(小泊地すべり)が挙げられる[12]。この地すべりはこの地域の地すべりとしては崩壊速度が2 - 3 m / secと異例の遅さであったが[8]、規模は延長 370 m、幅100 - 170 m、面積 45 ha におよび、北陸本線と国道8号沿いの民家を直撃・破壊し、北陸本線では現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車C57 90、客車7両編成)が地すべりに乗り上げた後、機関車と客車1両が泥流に乗って埋もれた集落の上を流され、海まで到達した[12]。この事故では、列車乗客・乗務員の死者はなかったが、集落では人家31戸と国道200 m が埋没して死傷者は25名に及んだ[12]。また、北陸本線は復旧・開通に20日間を要した[4]

このほか、水害等も含めると、開通から1963年(昭和38年)にかけて、同区間は主要なもの[注釈 5]だけでも36回もの運行停止を招く災害が発生し、うち脱線あるいは転覆事故は15回を数えた[9]

糸魚川駅 - 直江津駅間の複線化計画[編集]

急増する輸送需要に応えるため、国鉄では1957年(昭和32年)を初年度とする大規模投資計画「第1次5か年計画」を策定し、北陸本線では北陸トンネル建設(1962年完成)などの大幅な改良を伴いながら順次複線化・電化が進められたが、この「第1次5か年計画」では輸送力増強には十分に手が回らず、1961年(昭和36年)からの「第2次5か年計画」で、輸送量がひっ迫しつつある各幹線の抜本的な線増を行うこととなった[13]。北陸本線については当初、「第2次5か年計画」の5か年で米原駅 - 富山駅間の複線化達成、以東の部分複線化(将来的には全線複線化)が考えられており、糸魚川駅 - 直江津駅間も、浦本駅 - 名立駅間、郷津駅 - 直江津駅間の部分線増が計画に上がっていた[13]

しかし実際には応急的に3か所(木浦・百川・西名立)の信号場を、1964年(昭和39年)までに計画・設置したのみで[4]、本格的な着工に至れないままであった。これは投資資金の不足に加え[14]、以下の問題によるものであった。

複線化にあたっての問題点[編集]

1963年(昭和38年)の時点では、糸魚川駅 - 直江津駅間のうち、糸魚川駅 - 能生駅間、有間川駅 - 直江津駅間は、地すべりの影響は小さく腹付線増・曲線改良が比較的容易と考えられていた[4]。このうち有間川駅 - 谷浜駅間および郷津駅 - 直江津駅間にトンネルが存在するものの、これについても前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられた[4]。しかし、能生駅 - 有間川駅間については鉄道沿線・内陸部共に地すべり地帯にあり、わずかな切取りによって地すべり・土砂崩壊が発生する恐れから、現在線の腹付線増や曲線改良は不可能であった[4]。加えて、仮に新線を敷設するとしても、災害多発地帯を通過するため、防災的な見地からのルート選定を行う必要があった。

このため改良に当たっては、

  1. 現在線を下り線とし、単線の新線を上り線として建設する案
  2. 現在駅をすべて利用するが、浦本駅 - 谷浜間の地すべり地帯は駅間を複線トンネルによる新線で結ぶ案
  3. 現在駅を一部通過しない複線の新線を建設し、一部駅を移転・廃止する案

などが地質構造・営業面から想定されたが[4]、これらの案は、それぞれ以下の欠点があった[4]

  • 1. は下り線が今後も災害を伴い、曲線改良ができない。
  • 2. は地すべり地帯に多くのトンネル坑口ができる。
  • 3. は廃止・移転される駅が生じ、その処置が問題となる。

複線化の検討[編集]

1963年(昭和38年)7月には「北陸本線糸魚川 - 直江津間地質調査委員会」が設けられ、約1年間にわたる本格的な調査・検討が行われた[9][5][8]。翌1964年(昭和39年)3月には、現在線での地すべりは間けつ的かつ崩壊速度が大きいため「地すべりの発生時期と規模を的確に予知することはできず抜本的な予防対策はたてがたい[9]」、と結論づけられた[9][8]

このため線増については、地すべり地域への線路敷設は「その建設ならびに保守に著しい困難が予想される[8]」として、「根本的には、複線化の際に地すべり地帯を極力避けた別線の複線ルートを選ぶべき[9]」とし、なお地すべり地帯を通過する場合は「…想定される最深の地すべり面(地表から30~40 m の深さ)より深くトンネルでもぐるべきである[9]」とした。また、特に鉄道経過地として避けるべきとして、浜木浦(浦本駅 - 能生駅)、白山神社出口(能生駅 - 筒石駅)、筒石駅付近、藤崎付近(筒石駅 - 名立駅)、名立駅付近、郷津駅付近、の各地点を挙げた[5]

新線ルートの選定[編集]

以上の勧告を踏まえ糸魚川駅 - 直江津駅間の線増案は、いずれも地すべり危険地域を避ける新線を建設し、駅移設・廃止を伴う3案が選定され、さらに検討が行われた[5]。なお、新線建設に当たっては、単線で新線を建設し、当面は現在線と併用して輸送量を確保し、のちに新線を複線化することで、投資を繰り延べるという手法もあったが、当初から複線で建設することが前提とされた。これは新線を単線で建設した場合、信号場の設置が必要である上輸送能力が劣り、数年後の線増を踏まえると投資繰り延べが有利とならないと判断されたためである[9]

北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間線増にあたり検討された路線案の比較[9]
糸魚川駅
- 浦本駅
浦本駅 - 直江津駅 線路
延長
(km)
最急
勾配
(‰)
トンネル 曲線半径 工事費
(億円)
年間
経費
(百万円)
備考
浦本駅 -
新能生駅
予定地[注釈 6]
新能生駅予定地 - 直江津駅 総延長
(km)
最長
(km)
新能生駅予定地 - 有間川駅 有間川駅
- 谷浜駅
谷浜駅 -
直江津駅
A 現在線を線増 新線建設。木浦川を境に2.570 km、1.550 kmのトンネルで結ぶ。能生駅は新線上に移設。 新線建設。21.300 kmのトンネルで結ぶ。 37.1 10 25.52 21.30 R=600以上×10 205 2,578 トンネル内に信号場設置が必要
B 新線建設。14.750 kmのトンネルで同区間を直線的に結ぶ。 現在線を線増。長浜トンネルは1.140 kmの複線トンネルを新設。 新線建設。郷津駅を放棄し3.550 kmのトンネルで結ぶ。 38.4 10 23.36 14.75 R=600以上×19 182 2,529
C 新線建設。名立川を境に11.250 km、3.590 kmの2本のトンネルで結ぶ。 38.9 10 23.45 11.25 R=600以上×21 186 2,568 採用案
(参考)旧線 41.3 10 3.09 0.65 R=400未満×30
R=500未満×17
R=600未満×6
R=600以上×34
(各案備考) 浦本 - 直江津間 車両電化除く 1975年度を想定

比較の結果、投資額・年間経費の面で最も有利であったのはB案であったが、この案では待避を行うための信号場をトンネル内に設置する必要があった[9][注釈 7]。しかし、地質上の問題から4線断面のトンネルの掘削は技術的に困難と判断された[9]。加えて駅廃止数を抑制したいという、営業面の問題もあった[9]

このため、委員会では最終的結論としてC案が適当とし[9]、これを基にさらに1年間調査・検討し、地元と協議の上ルートの決定が進められた[5]

糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事[編集]

「第2次5か年計画」は計画を達成しないまま、1965年(昭和40年)で打ち切られることとなり、新たに同年を初年度とする「第3次長期計画」が策定された。この「第3次長期計画」には、「第2次5か年計画」に引き続き主要幹線の複線化が盛り込まれた。これは、1970年(昭和45年)度末までに全国で約3,300 km を複線化する、というものであったが[注釈 8]、うち北陸本線は東北上越信越中央の各線区と共に重点的に工事が行われることとなり、1968年(昭和43年)度までに全線複線化をおおむね完成させる計画とされた[15]

しかし、北陸本線については初年度時点で複線化を完了していたのは、全線357 km[注釈 9] のうち50%ほど(約175 km)に過ぎず、そのすべてが富山操車場(現:富山貨物駅)以東の区間(238.8 km)におけるものであった[9][15]。残る区間は富山操車場 - 糸魚川駅間が「第2次5か年計画」から親不知トンネル・新子不知トンネルなど、輸送上の隘路となる区間を中心に線増・電化工事が進められ、子不知付近など一部単線区間を残しながら同年10月1日に糸魚川までの交流電化を実施したものの[16]、糸魚川駅以東は前述の線増案が決定したのみで新線はおろか現在線線増すら着工していない状況であり[9]、計画の達成のためには早急な着工が迫られた。

最終的に、北陸本線糸魚川 - 直江津間線増工事は1966年(昭和41年)3月に着工し、完成目標を1969年(昭和44年)秋とした[1]

線増工事概要[編集]

線増工事は前述のC案を基とする以下のものとなった[5]

糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事(完成時点での最終)[17][9][5]
糸魚川駅
- 浦本駅
浦本駅
- 能生駅
能生駅 能生駅
- 名立駅
名立駅 名立駅 -
有間川駅
有間川駅
- 谷浜駅
谷浜駅 -
直江津駅
路線延長
(km)
トンネル
総延長
(km)
最長
(km)
現在線を線増 新線建設。 現在線を線増。但し長浜トンネルは複線新トンネル(1,158 m[注釈 10])に切替。 新線建設。湯殿トンネル(3,105 m[注釈 11])で結ぶ。郷津駅廃止。 38.8 23.455 11.355
浦本トンネル(2,665 m[注釈 12])、木浦トンネル(1,571 m[注釈 13])で結ぶ。 新線上に移設。 頸城トンネル(11,353 m[注釈 14])で結ぶ。トンネル内に筒石駅を移設。 新線上に移設。 名立トンネル(3,601 m[注釈 15])で結ぶ。
(参考)旧線 41.3 3.09 0.65

トンネルはいずれも直流電化複線形(内空断面積51m2)を基本に、名立駅前後は3線断面区間(内宮断面積91m2)とした[18]

駅は、湯殿トンネルによって迂回される郷津駅(谷浜駅 - 直江津駅間)を廃止し、能生駅は旧駅(現:糸魚川市能生事務所付近)から約700 m 山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、名立駅が旧駅から約1.6 km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転した。筒石駅については廃止計画があったとされるが[19][注釈 16]、地元の強い要望があったため[20]、最終的には頸城トンネル内にホームを設けることとなった。

施工は日本国有鉄道岐阜工事局が担当した[21]

キロ程について[編集]

北陸本線は本工事のほか、全線の29%に当たる106.4 km を新線に切り替えたことにより、全線で路線延長が12.6km短縮された[22]

このため全線複線化を達成した1964年(昭和49年)10月1日の営業キロ程修正で、全線の営業キロを改定し、営業キロ上の総延長を353.8 km としている。

一方で施設上のキロ程(以下、施設キロ)は引き続き旧線に基づく開業以来のキロ程が用いられ、キロポスト(距離標)もこれに基づいて建植されている。これは糸魚川駅 - 直江津駅間の新線も同様であり、新旧線の差は有間川駅米原方(名立トンネル内)と直江津駅米原方(新旧線合流点)の2か所に断鎖(ブレーキメートル、BrM)の距離更正点を設け、キロ程を修正している[17]

以下文中ではキロ程を表示する箇所があるが、特記ない限り施設キロで表記する。なお新線と旧線、および営業キロとのキロ程対照は以下の通り。

糸魚川駅 - 直江津駅間キロ程対照表(km)[17][9]
米原起点 糸魚川駅 梶屋敷駅 浦本駅 能生駅 筒石駅 名立駅 (BrM) 有間川駅 谷浜駅 郷津駅 (BrM) 直江津駅
旧線施設キロ 324.260 328.620 332.100 337.640 344.080 350.660 352.700 355.250 358.560 360.930 363.940 365.52585
新線 施設キロ 337.270 344.700 348.910 350.59619 355.170 - 363.59761
352.700 363.940
営業キロ 315.0 319.3 322.8 327.9 335.4 339.6 - 343.8 347.2 - - 353.8

施工法[編集]

各トンネルともおおむね軟弱地質帯を貫くことから、中央底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法[注釈 17]を主に採用し、地質が悪い箇所は側壁導坑先進順巻工法(サイロット工法)[注釈 18]や底導先進上半工法、特殊サイロット工法[注釈 19]を用いた[5]。その他、特殊な施工については各トンネルの項で述べる。

頸城トンネル[編集]

建設担当と工区割[編集]

筒石斜坑(現筒石駅旅客通路)入口(2010年)
筒石斜坑(現:筒石駅旅客通路)内部(2011年)
筒石斜坑(直進)と筒石駅旅客通路(左方)の分岐部。(2010年)

当初より最長トンネル、すなわち頸城トンネルの工事が線増工事の完成時期を支配すると考えられており[9]、前述の完成目標達成のため、両坑口のほか、山王、筒石[注釈 20]、徳合の3か所に斜坑を設け、5工区に分けての施工を実施した。しかし、後述する進捗状況への不安から大藤崎に斜坑を追加している[18]。第1工区と第2工区の間、第2工区と第3工区の間、第4工区と第5工区の間には、それぞれ600 mの未契約区間が当初残されており[17]、その後の進捗に応じて契約して工程の調整を行った[25]

頸城トンネル工区割(最終)
工区名 第1 第2 第3 第4 第5
着工 1966年4月23日 1966年3月14日 1966年2月21日 1966年3月5日 1966年2月26日
竣工 1969年3月31日 1969年4月10日 1969年4月5日 1969年4月5日 1969年1月15日
キロ程 起点 337 km 418 m 66 339 km 550 m[注釈 21] 342 km 300 m[注釈 22] 344 km 840 m 346 km 900 m[注釈 23]
終点 339 km 550 m 342 km 300 m 344 km 840 m 346 km 900 m[注釈 24] 348 km 771 m 66[注釈 25]
延長 2,131 m 34 2,750 m 2,540 m 2,060 m 1,871 m 66
作業坑 名称 なし 山王斜坑 大藤崎斜坑 筒石斜坑 (筒石駅) 徳合斜坑 なし
延長 174.3 m 171 m 232.1 m - 174.4 m
地点 340 km 170 m 342 km 950 m 344 km 545 m 344 km 700 m 346 km 057 m 30
施工業者 大成建設 間組 熊谷組 鹿島建設 鉄建建設
請負金額 15億7500万円 16億3900万円 17億5400万円 10億2700万円 9億8300万円

地質[編集]

能生谷層と呼ばれる泥岩主体の層が入口側から濁澄川付近まで続き、その上にさらに砂岩と泥岩が互層となって重なっている。また、坑口から350 - 500 m 間にかけては水溶膨張度が高いベントナイト凝灰岩が介在する[5]。徳合川の谷を境に名立川層と称する泥岩が主体となる。いずれも第三紀層に属する比較的新しい地層で、固結度が低いものであった。特に第1工区から第3工区にかけては、地殻変動の甚だしい地帯で地すべり崩土層が広く分布するとともに、メタンガスの検知、石油の湧出、異常膨張性泥岩の存在、摂氏30度に達する高温など、数々の困難に見舞われることになった[20]

線形と規格[編集]

両起終点付近に能生川と名立川およびこれらに沿う県道があり、坑口の位置・高さはこれらとの立体交差の都合上から決定した[26]。また山王、相場、濁澄、筒石、徳合の各河川の下を横切るときにできるだけ大きな土被りを確保したいということや、地すべり土塊下の良質地層下を通過するため、概ね直線としながらも数か所に半径800 - 1000 m の曲線を介在させている[1][26][18]。また、上述の制約を受け、線路規格上の上限勾配は10 ‰ であるものの、縦断線形は起点から途中濁澄川付近までの約5.1 km が2.5 ‰ の上り勾配、そこから終点まで約6.3 km が2.0 ‰ の下り勾配と設定された[26][18][27]。これは泥岩におけるトンネルとしては排水上最小限とされる値である[注釈 26]。それでも土被りの厚さは、山王川で18.4 m、濁澄川で13.5 m、筒石川で15.2 m、徳合川で9.0 m となり、これらの地区では慎重な施工が必要となった[18]

第1工区[編集]

第1工区は大成建設により、米原方坑口から着手した。掘削方式は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で進められ、坑口より350 - 500 m 地点間ではベントナイト質凝灰岩地帯を突破し[5]、石油の浸出や断層の出現などにも対応して掘削を進め、当初の1,000 m ほどの区間は順調なペースで掘削が進んだ[25]

しかし、985 - 1,135 m 地点間では導坑に盤ぶくれ現象が生じ、その区間の盤下げ縫い返し[注釈 27]が行われた[5]。さらに、導坑が坑口より1,465 m 地点、上半掘削が1,350 m 地点に達したころから、矢板折損、支保工変形が激しくなり、各種対策を実施しながら掘進を進めたが、導坑は盤ぶくれにより最大80 cm 扛上し、支保工やコンクリートの座屈変状も止まることはなかった[5][30]

1967年(昭和42年)10月19日、坑口より1,670 m 地点で導坑掘進は不可能となった。その後、上部半断面掘削についても1,450 m 地点以降は最大200 cm の盤ぶくれや支保工の著しい変状が発生するなど経日とともに変状が目立ち始め、同年11月30日、1,543 m 地点で上部の掘進が中止された[5][30]。加えて同時期に導坑は1,436 - 1,673 m 地点にかけ、全面的に圧壊した[5][30]。その後、1,450 - 1,543 m 地点間については、アーチコンクリートを打設後すぐに側壁・インバートを打設して早急に完成形状に仕上げ、同時に断面を円形に近づけ、1,543 m 地点まで完成形での施工を終了させた[5]

1,543 m 地点以降の約600 m は1968年(昭和43年)4月3日から掘削を再開した。再開に当たっては断面を円形に変更の上、大きな地圧抵抗力が期待できる上部半断面先進ベンチカット併進逆巻工法[注釈 28]を採用した。以降は順調に工事が進んだ。途中は膨張はなくなったものの、既に残り工区長は150 m ほどであり、工法の切替・復帰は工期・工費的に得策ではないとされ、トンネル断面のみ標準に戻して工区境まで工事を継続した[31]。1969年(昭和44年)1月7日に第2工区と貫通し、これによりトンネル全区間が貫通した[31]

第2工区[編集]

第2工区は間組により、山王斜坑によって本坑へ取り付いて着手した[26]。順調に工事を進めてきたものの、途中でやはり上半断面の工事により導坑断面が縮小する現象が見られるようになり、サイロット工法や特殊サイロット工法に切り替えて工事が行われた[31]。前述の第1工区の苦闘による工程遅れに伴い、第1工区と第2工区の間に600 m 残されていた未契約区間は、すべて第2工区の受け持ちとされた。一方、第2工区と第3工区間の未契約区間については後述の理由から第3工区側がすべて受け持った[20]

第3工区[編集]

1967年(昭和42年)4月7日、第3工区と第4工区の貫通点にて握手する高橋岐阜工事局長(右)と朝倉糸魚川出張所長(左)

第3工区は熊谷組により、筒石斜坑によって本坑に取り付き着手し[26][32]、直江津方と米原方の2方向へ掘削を開始した。直江津方は底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法で掘削し、米原起点344.700 m 前後の280 m では筒石駅を設置するため、通常断面より側幅が1.3 m 広い特殊断面を掘削した。この区間は順調に進行し、1967年(昭和42年)4月7日[注釈 29]に第4工区と貫通し、頸城トンネル各工区間で最初の貫通となった[32]

一方米原方は、請負者の希望により当初からサイロット工法を採用して掘削した。しかし強大な地圧により導坑の支保工が変形し崩壊の恐れがあるなど苦心し、導坑の縫い返し、仮巻コンクリートなど様々な対策で突破した[32]。着工から約18か月を経過した段階で、第1工区から第3工区(およびその未契約区間)の工程に不安を持たれたことから、濁澄川の谷に大藤崎斜坑を新設し、米原方の590 m (米原起点342 km 310 mから342 km 900 m)については、大藤崎斜坑からの施工を行った[18][32]。このことや、第2工区側の掘削停止期間の関係もあり第2工区との境界における600 m の未契約区間は、すべて第3工区の担当となった[20]

第4工区[編集]

第4工区は鹿島建設により、徳合斜坑によって本坑に取り付いて着手した[26][32]。底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法を用い、湧水も少なく順調に施工した[18][32]。第4工区と第5工区については順調に掘削が進んだことから、工区境にある600 m の未契約区間は、300 m ずつ分割してそれぞれ施工した[20]

第5工区[編集]

第5工区は鉄建建設により、直江津方の坑口から着手した[26][32]。名立駅設置の都合上、坑口付近280 m が3線断面[1]になっていたことから、この付近についてはサイロット工法で掘削を行った。第5工区については比較的順調に掘削が行われた[32]

完成[編集]

第1 - 第3工区の難航により当初の工期が危ぶまれたものの、トンネル自体の工事は1969年(昭和44年)5月に全面完成し[33]、予定通りの完成となった[34]。軌道工事については、電蝕防止のため木製の枕木を採用し、また将来的な保守の都合から第1 - 第3工区についてはバラスト軌道、第4工区と第5工区についてはコンクリート道床を採用した[35]

同年6月10日に頸城隧道銘標除幕式およびレール締結式が実施された。銘標は米原方が石田礼助日本国有鉄道総裁、直江津方が藤井松太郎技師長(いずれも当時)の筆によるものである。レール締結式は米原方坑口から約25メートル入った場所、下り337 km 439 m 30地点、上り337 km 433 m 50地点で実施された[35]

その他線増工事における特筆すべき工事[編集]

浦本トンネル(浦本駅 - 能生駅)[編集]

浦本トンネル第1工区(米原起点332km 215m - 333km 700m)では、ルート選定時のボーリング調査で地表に圧力水が自噴する箇所があり、鬼伏調査工(延長221m)を掘削した。その結果、泥岩と砂れき層の境界に大量の地下水の存在が判明し、難航が予想された[5]。その後の掘削では坑口より420 m 掘進後、泥岩砂れき境界付近の切羽で地質調査用ボーリング3本を実施したところ、3気圧 1,700L/minの湧水に遭遇し、切羽掘削が中止された[5]

その後も減水の兆候は見られなかったため、長孔ボーリングによる水抜きを実施した[5]。1回目のボーリングでは湧水圧は0.5気圧に減少するなど成功をおさめ、以降調査ボーリングにより被圧水が確かめられる度に水抜き・排水が実施され、最終的に長孔ボーリングは孔数17、延長2,210 m に及んだ[5]

木浦トンネル(浦本駅 - 能生駅)[編集]

能生川橋梁(写真中央)の左奥が木浦トンネル(2010年)

木浦トンネルでは、国鉄におけるトンネルボーリングマシン(以下、TBM)施工の可能性、使用時の問題点、経済性の検討を行うため、糸魚川駅 - 直江津駅間の工事区間で比較的地質が安定している[36]本トンネルの一部区間で、底設導坑をTBMによる導坑に置き換えて(TBM先進工法)施工した[28][29]

TBM(小松ロビンスT.M.230G型)は制作した小松製作所から有償で借上げ、施工業者の前田建設工業に貸与の上、用いた[28][29]。このTBMは国産第1号のものであり、もとは愛媛県新居浜市住友共同電力東平発電所の水路トンネル工事における硬岩掘削を目的として制作されたものの、掘削時に生じた問題から試用を中止されていたものであった。このため木浦トンネルにおける試用は、軟岩における性能を明らかにすることも目的のひとつであった[36]

使用されたのは延長1,570 m のうち887 m で、1967年(昭和42年)1月12日に直江津方坑口から125.3 m の地点から掘削を開始した[29]。木浦トンネルも能生谷層に属する泥岩主体の地質であり、試験掘削期間中には大量の湧水に遭遇したが、2月18日からの本工事では掘削はほぼ順調に進行し、3月には、月進(29日間)362 m、平均日進12.5 m を達成し、3月25日には日進246 m を達成した[29]。TBMによる掘削は5月5日、岩質が軟弱となりTBMによる掘削が困難となったことから終了し[28]5月16日に米原起点335.6518 km 地点にて、米原方から発破工法で掘削した底設導坑と貫通した[29]

日本の鉄道トンネルにおけるTBMは本トンネルのほか同年より青函トンネルの導坑掘削でも用いられたが、日本の複雑な地質への適応の問題から、その後の使用は数例にとどまり、後年の海外での実績の評価や、国内におけるシールド技術の蓄積による再評価が進むまで本格採用には至らなかった[24][注釈 30]

糸魚川駅 - 直江津駅間線増工事の完成[編集]

谷浜 - 有間川間 新線の長浜トンネルと旧線桑取川橋梁の橋台(2016年)

頸城トンネルをはじめとした糸魚川駅 - 直江津駅間の線増工事は、長浜トンネルを含む有間川駅 - 谷浜駅間が1968年(昭和43年)9月25日に複線化されたことを皮切りに、翌1969年(昭和44年)には、6月4日に糸魚川駅 - 梶屋敷駅間、6月19日に梶屋敷駅 - 浦本駅間が線増により複線化され、9月29日に頸城トンネル含む浦本駅 - 有間川駅間、谷浜駅 - 直江津駅間が新線に切り替わり、同時に直流1500 Vでの電化[注釈 31]を行い、これにより北陸本線は、線増工事開始当初の計画であった、1969年秋に全線の複線電化を達成した。[37][16]

本区間の線増工事には、工費200億円、延べ作業人員約250万人、セメント13万t、鋼材2万t を費やし、コンクリート打設量は50万m3、掘削量150万m3に及んだ[5]

また、一連の工事では25名の犠牲者が発生し[5]、開業に先立つ1969年(昭和44年)同年9月10日に、能生駅構内において工事碑および慰霊碑の除幕式が行われた[38]

線増・新線建設の効果と評価[編集]

線増・新線化・電化により、列車の高速化が達成され、本区間では所要時間をおよそ15分短縮した[37]。またこの複線電化により、首都圏と北陸地方は既存の東海道本線米原駅敦賀駅経由だけでなく、上越線・信越本線を介しても架線で結ばれるようになった。 このため新線開通直後の1969年(昭和44年)10月1日に行われたダイヤ改正では、特急「はくたか」(上野駅 - 金沢駅)が経由を信越本線(碓氷峠、当時信越本線は一部非電化)から上越線へ変更の上で、気動車(キハ80系)から電車(485系)となり、運転時間(金沢行き列車、以下同様)は1965年(昭和40年)10月1日時点の7時間50分から、6時間35分[注釈 32]に短縮され、うち、直江津駅 - 富山駅間は1時間58分から1時間28分[注釈 33]へ30分短縮した[39]。その後、JR西日本では同区間を含む泊駅 - 直江津駅間の最高運転速度を130 km/h に引上げ[40]、北陸新幹線開業まで同区間で運行した特急「はくたか」(越後湯沢駅 - 金沢駅ほか)は、運転終了直前の2015年(平成27年)2月時点で、直江津駅 - 富山駅間無停車便は1時間6分(越後湯沢行き21号)[注釈 34]で走破した[41]

また、旧線で生じていた各種の災害からも解放され、大島洋志は地質技術者として頸城トンネルを含む新線を「究極の防災[42]」と評価している。

このように、輸送強化・防災という面では大きなメリットがあったものの、大島登志彦・中牧崇は地域公共交通という観点では、駅の移転などで地域における利便性が大幅に悪化したこと等を挙げた上で、「特急列車のスピードアップを前提としたもの[19]」「地域輸送を二の次にして幹線輸送に特化したもの[19]」と評価し、その後のえちごトキめき鉄道転換に当たって「直ちにその特性を発揮できない体制[19]」にあるとした。ただし、このルート選定は先述したように、現在線での線増工事が困難であったことも一因である。

また、その後同地は北陸自動車道北陸新幹線が建設され、いくつかのトンネルが掘削されているが、大島洋志はこれらの工事に対して貴重な情報を提供したことも指摘している[42]

旧線のその後[編集]

旧線については、浦本駅付近から谷浜駅付近までの大部分が新潟県道542号上越糸魚川自転車道線(久比岐自転車道)として転用され、徒歩もしくは自転車で通行可能である[19]。また、谷浜駅 - 直江津駅間については郷津トンネルを拡張の上、国道8号直江津バイパスへ転用された。

年表[編集]

  • 1964年(昭和39年)8月 - 地質調査委員会の調査を踏まえ、本区間の複線別線計画を決定する[43]
  • 1966年(昭和41年)2月 - 国鉄岐阜工事局が頸城トンネルの建設を発注する[44]
  • 1967年(昭和42年)
    • 4月7日 - 第3工区と第4工区が貫通する[44]
    • 8月10日 - 第4工区と第5工区が貫通する[26]
  • 1968年(昭和43年)8月28日 - 第2工区と第3工区が貫通する[26]
  • 1969年(昭和44年)
    • 1月7日 - 第1工区と第2工区が貫通し、全区間が貫通する[45]
    • 5月 - トンネル工事完成[33]
    • 6月10日 - 頸城トンネルの隧道銘標除幕式及びレール締結式を挙行する[46]
    • 9月10日 - 能生駅構内において工事碑および慰霊碑の除幕式が行われる[38]
    • 9月29日 - 浦本駅 - 有間川駅間において複線の供用を開始する[47]
青線.日本海ひすいライン、赤線.頸城トンネル、桃線.(左から)浦本トンネル-木浦トンネル-(頸城トンネル)-名立トンネル-長浜トンネル-湯殿トンネル、灰線.旧線のおおよその経路(上越糸魚川自転車道線等)、1.浦本駅、2.旧能生駅跡、3.旧筒石駅跡、4.旧名立駅跡、5.有間川駅、6.谷浜駅、7.郷津駅跡、12.能生駅、13.筒石駅、14.名立駅

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の1位は北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、2位が上越線新清水トンネル(13,490 m)。
  2. ^ それまでの民鉄最長の鉄道トンネルは北越急行ほくほく線赤倉トンネル(1997年(平成9年)供用開始、10,472 m)[2]
  3. ^ 同様の理由から名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、一部3線断面となっている。
  4. ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
  5. ^ a b 列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。
  6. ^ (現)能生駅の位置に相当
  7. ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に退避設備を設置している。
  8. ^ もっとも、第3次長期計画で計画されたすべてが予定通り実行されたわけではなく、線増に関しても羽越本線など全線複線化が計画されていながら達成できなかった線区が多数存在する。
  9. ^ 後述する施設キロ(365.5 km)と異なる値であるが、当時完成していた深坂トンネル・北陸トンネル経由の数値(2新線で約9 km 短縮)と思われる。
  10. ^ 着工時点での計画値は1,150 m。
  11. ^ 着工時点での計画値は3,095 m。
  12. ^ 着工時点での計画値は2,660 m。
  13. ^ 着工時点での計画値は1,570 m。
  14. ^ 着工時点での計画値は11,355 m。
  15. ^ 着工時点での計画値は3,596 m。
  16. ^ ルートが決定した1965年(昭和40年)の時点では「新能生駅」「新名立駅」は記載が見られるが、筒石駅については新線上に記載がなく[9]、翌1966年(昭和41年)に出版された加茂(1966)では「新筒石駅」が記載されている[17]
  17. ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[23]。北陸トンネル工事で確立された工法であり、底設導坑地質の確認・地下水排除が可能であることから、底盤部が泥寧化しやすい地山のトンネルや、長大トンネルの施工に適する[24]
  18. ^ 最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法[23]
  19. ^ サイロット工法に中央底部の導坑を加えたもの[23][5]
  20. ^ 当初、筒石斜坑は、濁澄斜坑として濁澄川の川筋に設置の予定であった[9]が、先述の筒石駅設置の要望を受け、斜坑の旅客通路転用を考慮し変更した[20]
  21. ^ 工事開始時は340 km 150 m 地点まで
  22. ^ 工事開始時は342 km 900 m 地点まで
  23. ^ 工事開始時は347 km 200 m 地点まで
  24. ^ 工事開始時は346 km 600 m 地点まで
  25. ^ 工事開始時、終点は348 km 860 m 地点とされていた
  26. ^ 能生駅を挟んで隣接し、同じく泥岩層を通過する木浦トンネル(1,570 m)の場合、米原方330 m を9‰、残る直江津方を5‰で施工している[28][29]
  27. ^ 圧縮された断面を再掘削し、座屈変状した支保工を交換する作業[5]
  28. ^ トンネル上半部を先に4.5 - 6 m 掘削し、一旦掘進を中止して天井部の覆工を行い、可能な限り近い後方で下半部を1.5 - 2.0 m 掘進し、インバート側壁のコンクリートを施工する工法。地山を掘削したまま放置する区間・期間が短く、支保工の変状が発生する前にコンクリートで補強ができ、早期に円形閉合が可能となることから大きな地圧抵抗力が期待できる[5]
  29. ^ 『岐阜工事局五十年史』218ページ本文では7月7日貫通とされているが、214ページの表では4月7日となっており、6月に発行された『交通技術』誌で貫通年月日入りの貫通地点写真が掲載されていることから、4月7日を採用する。
  30. ^ 再評価後の使用例としては、国内初の全断面TBMによる鉄道トンネル(単線)である吾妻線八ッ場トンネルがある(2005年貫通、2014年供用開始)[24]
  31. ^ ただし、糸魚川駅以西は交流20 kV・60 Hzで電化されていたため、糸魚川駅 - 梶屋敷駅間に交直デッドセクションを設けた。このため、新線は開通以来交直両用車両、もしくは内燃動力車が定期運用に用いられている。
  32. ^ 上野07:40 - 金沢15:30→上野07:50 - 金沢14:25
  33. ^ 直江津12:38 - 富山14:40→直江津12:06 - 富山13:34
  34. ^ 富山16:56 - 直江津18:02

出典[編集]

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参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 『岐阜工事局五十年史』 日本国有鉄道岐阜工事局、1970年3月31日

雑誌・論集等[編集]

関連項目[編集]