音羽正彦

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音羽正彦
正彦王
朝香宮家・音羽侯爵家
続柄

称号 海軍少佐(死後1階級昇進)
身位 侯爵華族
敬称 殿下 → 閣下
出生 1914年1月5日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (1944-02-06) 1944年2月6日(30歳没)
マーシャル諸島クェゼリン島
埋葬 多磨霊園
配偶者 大谷益子
父親 朝香宮鳩彦王
母親 鳩彦王妃允子内親王
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音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年大正3年〉1月5日 - 1944年昭和19年〉2月6日[1])は、日本皇族華族海軍軍人クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の名は(朝香宮正彦王(ただひこおう)。

生涯[編集]

1914年(大正3年)1月5日朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任[2]

学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという[3]

海軍軍人[編集]

1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。同期に伏見博英千早猛彦飯田房太志賀淑雄など。

海軍少尉任官と共に願により臣籍降下して音羽侯爵家を賜り、貴族院皇族議員を退任し、貴族院侯爵議員となる[4]

少尉任官後、「羽黒」「五十鈴」乗組。1937年(昭和12年)12月、海軍中尉。「長門」乗組。

1938年(昭和13年)、上海海軍特別陸戦隊土師喜太郎少佐のもと砲隊中隊長として日中戦争に参戦。田家鎮攻略、馬鞍山攻撃など連戦の激戦で敢闘する。この頃、軍服は泥まみれ、髭はのばし放題であったが、音羽は平然としていた。上海時代には同期の平塚清一に「戦闘というものは、決して格好いいものでもないし華やかなものでもないよ。泥まみれ、ずぶ濡れになり、兵隊とともに苦労するのが戦闘なんだ」と語りかけた。

近藤英次郎中将は次のように回想している[3]

音羽侯は戦死した部下のことを話されるとき、一人一人の名前をよく覚えておられ、その部下が戦死するまでの戦闘経過をじつに細々とご記憶になっておられた。私は音羽侯のお話を聞きながら、その温かい心の豊かさに泣かされた。音羽侯を語れば、陸戦隊を語れるほど典型的な海軍軍人であった。

赤城」「山城」「陸奥」各分隊長を経て、1942年(昭和17年)11月に「陸奥」副砲長となる。1943年(昭和18年)、海軍砲術学校高等科学生。なお、この年に「陸奥」は爆沈し、かつての上官である土師喜太郎中佐も「陸奥」砲術長として殉職している。8月21日には海兵同期の伏見博英(博英王)が戦死している。

戦死[編集]

砲術校卒業直前から「アメリカの進攻も激しくなってきた。今こそ頑張らねば。おれは第一線へ出ていって働くぞ」と述べる[3]など前線行きを希望しており、第6根拠地隊参謀海軍大尉としてマーシャル方面の前線部隊に配属された。砲術校高等科同級生の湯原博は「いくらなんでもひどすぎる。アメリカ進攻の矢面ではないか。人事局も、もう少し適任の配置があるはずではないか」と抗議したが、主任教官は「音羽侯のたってのご希望なのだ」と答えた[3]

クェゼリンの戦いにて5日間の死闘の末、1944年昭和19年)2月6日マーシャル諸島クェゼリン島で戦死するクェゼリンの戦い)。享年31 (満30歳没)。1944年(昭和19年)2月6日、戦死認定され海軍少佐に進級する[5]

同じ皇族海軍軍人の高松宮宣仁親王は『高松宮日記』に「はじめ大鳥島に勤務していた侯爵を、危険だからというのでクェゼリン島に転属させたところ、米軍が予想に反して同島に上陸してきた」と記している(昭和十九年二月四日条[6])。

朝香宮家は「勲一等を持っていた侯爵に大勲位菊花章をさずけてくれ」(『高松宮日記』二月二十六日条)、「爵位を公爵にあげてくれ」(三月四日条)などと宮内省に請願したがいずれも実現しなかった[6]

人物[編集]

  • 運動神経抜群で、様々なスポーツに興味を持った。皇族初の講道館柔道初段で、兵学校時代は名ショートとして知られ、ラグビーも好み、百メートル競争で11秒8の記録を保持し、テニスも一流の腕前であった[3][7]

家族[編集]

1940年(昭和15年)11月14日、第1次近衛内閣拓務大臣を務めた大谷尊由の次女・益子と結婚。1944年(昭和19年)1月5日、貴族院侯爵議員に就任[8]。同年2月6日に戦死[8]。夫妻に子供はなく、音羽侯爵家は廃絶となる(益子はその後、小坂財閥の小坂善太郎と再婚)。

多磨霊園にある音羽正彦の墓

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和19年2月28日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1348号。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  3. ^ a b c d e 第2回 音羽正彦 (第六根拠地隊司令部参謀・62期・少佐) - ウェイバックマシン(2008年12月12日アーカイブ分)
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
  5. ^ 『「写真週報」に見る戦時下の日本』世界文化社、2011年11月1日発行。、187頁。 
  6. ^ a b 浅見雅男 『皇族誕生』 角川文庫 ISBN 978-4043944897、201p
  7. ^ 【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者(神立 尚紀) @gendai_biz”. 現代ビジネス (2019年12月27日). 2023年9月7日閲覧。
  8. ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。
  9. ^ 『官報』第2748号、「叙任及辞令」1936年3月3日。p.26
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献[編集]

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 『「写真週報」に見る戦時下の日本』、保阪正康 監修、著者:太平洋戦争研究会、世界文化社 2011年。

外部リンク[編集]


日本の爵位
先代
叙爵
侯爵
音羽家初代
1936年 - 1944年
次代
廃絶