韓日合邦を要求する声明書

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韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日大韓帝国親日団体一進会皇帝純宗韓国統監曾禰荒助首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。

声明書発表までの経緯[編集]

1904年李容九宋秉畯尹始炳が中心となって一進会が設立された。会長は当初は尹始炳であったが、すぐに李容九に代わった。一進会はアジア主義大東合邦論を掲げ、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張。さらに李容九は、日本大韓帝国の軍事同盟が、ロシアに対抗し、大韓帝国の富国強兵を図る方法であると主張した。1906年、李容九は「韓日合邦」をはじめて主張し、同年、天道教(東学)を脱退して侍天教を設立し、その教祖となった。

1909年10月26日、前統監伊藤博文ハルビン駅で暗殺されると、一進会「顧問」[1]として東京から同会を「指揮」[2]「操縦」[3]していた内田良平が「主謀者」として一進会名義の声明書を韓国皇帝純宗、統監曾禰荒助、首相李完用に提出した。内田が主謀者であると述べた文書が次の憲機第二三六五号[2][4]である。

憲機第二三六五号

今回一進会の発表したる声明書の主謀者は内田良平にして仝人が該書を齎らしたることは蔽ふ可からざるものにして発表後以外にも国民及政府の反対激烈なるため殆んど今日にては其成算に苦み居れりと而して昨日菊池謙譲は内田に対し大要左の如き忠告を与へたりと。

一、今日の事件は時機未だ熟せず一般の反対を受け平和を破壊する而已ならず平地に風波を起すものなれば一進会の指揮は東京に於て之れを為さず一切之れを京城に移し且つ内田等は潔く関係を断ち間接に一進会に援助すべしと

二、各会中声望あるは大韓協会なるを以て、該会に反対すれば到底希望を満し能はざるにより大垣丈夫と協議決定すべしと

右二項の注告を内田は容れ菊池の紹介に拠り大垣と正式の会見をなすことゝなり本日午前十一時より菊池宅に於て会見をなしたりと

明治四十二年十二月七日

内田は東京で武田範之に声明草案を示して文章化させ[5][6]。自ら渡韓して12月1日京城に入り、一進会会長李容九らと打合せ[7]、語句修正の後同月3日に一進会本部で声明書を可決[8]、翌4日に提出した。韓国各地の一進会員は本部からの電報と同会機関紙により声明を知った[9]。また声明書は、事前に山県有朋、桂太郎首相、寺内正毅陸相の同意を得ていたという[10][11][12][13]。後藤新平逓信相の関与を述べた文書もある[13][14]。寺内陸相は声明発表直前12月3日、曾禰韓国統監に「一進会が請願を出すらしいので受領してほしい。桂太郎首相も同じ考えだろう」と知らせている[15]が、曾禰はこうした行動から5日には桂首相宛文書[16]で「寺内は元々知ってたんじゃないか」と疑っている。

「合邦」の意味[編集]

この声明書の中で、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」[17]と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、韓国と日本が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。

内田は声明書提出に当り、韓国にいる一進会会長李容九の同意を事前に取り付ける必要があった。内田側と李の書信のやり取りで「合邦」の内容について意見の相違が生じたが、内田は合邦の解釈は各自に任せるとし、李の同意を取り付けた[18]

ところが、李が想定していた合邦とはいわゆる「連邦」制であり、つまり合邦後も韓国政府が「現今の如く存在する」というものだった。それを示すのが次に掲げる「警秘第四○四九号の一」[19][20]である。

警秘第四〇四九号の一

隆煕三年十二月二日 警視総監若林賚蔵  統監子爵曾禰荒助殿

日韓合邦問題に関する件 近来喧伝せらるゝ日韓合邦問題の径路に関し更に探聞する処に依れば過般来より宋秉畯と一進会長李容九との間に於て屡々交渉を重ねつゝありしは事実にして其成立せる連邦案の細目は左の如きものなりと伝ふ

一、大韓国を韓国と称すること

二、皇帝を王と称すること

三、王室は現今の儘韓国に存在す

四、国民権は日本国民と同等たるべきこと

五、政府は現今の如く存在すること

六、日本官吏は悉く傭聘とし現今より其数を減少すること

七、人民の教育、軍隊教育を振起すること

八、本問題は韓政府より直接日本政府に交渉すること

(以上の綱目は甚だ要領を得ざるも聞込の儘之を列記す)

(以下略)

また翌年2月20日付石塚韓国統監府総務長官事務取扱から曾禰統監への報告によると、同月頃、李容九・宋秉畯は山県有朋から日本政府の併合決定を伝えられ「数日に亘り協議」したが、そこでは更に踏み込んで「統監府を廃し従来の如く韓内閣のみとし」[21]とある。

声明書発表後の韓国内の反応[編集]

声明書発表後の韓国内の反応は憲機第二三六五号のとおり「国民及政府の反対激烈」であった。声明書以前から一進会は韓国内で「売国奴」扱い[22]されていたが、声明書発表で更なる「怨嗟」[23]を受け「窮状」[24]に追い込まれた。また在韓日本人記者らも内田が「功名心」あるいは「利益」のためにやったのだと強く非難した[25]

李容九の悲嘆[編集]

李容九は日本の内田良平とともに、日本と韓国の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には、この声明書の求める内容は拒否され、日本による韓国の一方的な併合(韓国の主権喪失、朝鮮半島の日本領化)となった。1910年8月22日韓国併合条約ののち、9月12日に日本政府によって一進会解散を命じられた李容九は9月25日にこれを解散した[26]。これは、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として15万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したものである[26]。この韓国併合によって、朝鮮王族は日本の「公族」となり、朝鮮の有力者らの一部は日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し、1911年疲労により入院、1912年5月、悲嘆のうちに亡くなった[注釈 1]。李の嘆きを示す資料が、次の書簡である。

李容九から武田範之への1911年3月30日付書簡


今日になって自己心身を顧れば『可笑可笑』者は小生なのです。『至愚至蚩』とは小生の事なのです。よく人に欺かれ、よくもてあそばれたのです……門を出れば周囲の人から笑われ辱かしめを受け、門を入れば門人たちに、国事成るとはこの事か、一進会の目的成就とはこの事か……と、この様な質問責めが毎日やって来て、とても堪え切れない有様……つらつら思うにこれは、杉山・内田・武田の皆さんが人に欺まされたのであるか、宋・李の二人が人に欺まされたのであるのか。

— 西尾陽太郎『李容九小伝 裏切られた日韓合邦運動』葦書房、1978年、221-222頁。

李容九は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じたのである。

一方の宋秉畯は韓国併合後、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に陞爵して伯爵となった[27]。かれは併合後の朝鮮政治にも大きな影響を与え、合邦善後策として日本の桂太郎内閣総理大臣に資金150万円を懇請したところ、1,000万円でも差し支えなしとの回答を得て、活動に邁進したといわれる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 李容九憤死までの経緯は黒竜会『日韓合邦秘史』(上下、1930年刊)及びその縮約である内田良平の『日韓合邦』に詳しく書かれている。竹内好「日本のアジア主義」(1980)。

参照[編集]

  1. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、289頁。「自強会が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣及び一進会長並びに同会顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時」
  2. ^ a b 『外交史料 韓国併合(下)』海野福寿編、不二出版、2003年、657頁。「憲機第二三六五号 今回一進会の発表したる声明書の主謀者は内田良平にして…」
  3. ^ 伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件 3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日(42画像目)”. アジア歴史資料センター. 2021年8月27日閲覧。 “乙秘第二五〇号 一月二十九日 菊地忠三郎ノ行動 日韓電報通信社長菊地忠三郎ハ内田良平ガ退韓後同人ニ代リ一進会操縦ノ任ニ当リ居リタルガ”
  4. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (43) [韓日合邦에 대한 一進會의 성명서 등 대책에 관한 보고서 사본 송부 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月3日閲覧。
  5. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、284頁。「武田は著者と天祐侠以来の同志にして、博学且韓国流の漢文を書くことに於て唯一人者であった。同人の漢文は韓人が之を読んで、日人の筆に成ったと観るものなき程の文章家である。武田の着京するや、曩に杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意を以て漢文となさしむる為め、芝浦竹芝館に籠居せしむること一週日の後、上奏文及び韓国統監に上る書、総理大臣李完様に上る書の三通を脱稿し、準備は茲に全く完成した。」
  6. ^ 海野福寿編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、611頁。「一進会李容九の名において曾禰荒助統監に提出された合邦請願書は、内田良平の下で合邦運動に従事していた武田範之が起草し、一二月一日に再渡韓した内田が持参した原稿に若干の修正を加えたものである。」
  7. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、288頁。「著者は渡韓の途中、下の関に於て暴風雨に沮まれ、予定より一日後れて三十一日乗船、十二月一日京城に入り、即夜清華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と会合して、携帯せる合邦上奏文及び建議書を李容九に渡し、之が提出の手順を議定した。」
  8. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、292頁。「十一月(引用者注:十二月の誤りか)二日、武田は一進会中の能文家崔永年と共に、合邦の上奏文其他の字句修正を行ひ、李容九にも熟読せしめて慎重に協議する所ありしが、僅かに二三句を刪正したるのみにて之を終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居浄書せしめた。三日、一進会は三派の提携を断絶すると同時に、本部に於て大会を開き、合邦の上奏案を討議し、満場一致を以て一気呵成的に之を可決した。」
  9. ^ 韓国警察報告資料巻の4(7画像目)”. アジア歴史資料センター. 2021年8月27日閲覧。 “一進会員ノ如キハ始メ本部ヨリ『皇室尊重人民仝等合致宣言書頒布』ノ電報ニ接シ次ニ国民新聞(引用者注:一進会の機関紙)ニヨリ宣言書ノ内意ヲ知リタルモノニシテ中ニハ其突然ノ発表ニ驚キタルモノアリ中ニハ自党ノ問題タルニ係ハラス反対ノ言ヲ吐ク者アリ又四面ノ攻撃ニ耐ヘスシテ脱会ヲ公示シタル者アリシカ各地多クハ本部ノ諭示ニヨリ何レモ慎重ノ態度ヲ持シ他ノ動静ヲ観望スルニ怠ラス”
  10. ^ 日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、286頁。「十五日(引用者注:1909年11月)、杉山(引用者注:杉山茂丸)を訪ひしに、杉山告ぐるに『山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる』を以てし」
  11. ^ 海野福寿『伊藤博文と日韓併合』青木書店、2004年、178-179頁。「黒龍会編『日韓合邦秘史』によれば、伊藤の死後まもなく宋秉畯・内田良平・武田範之が合邦請願書の草案を作成し、山県・寺内・桂の同意を得たという。」
  12. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (10) [韓日合邦에 관한 一進會의 請願書 趣旨에 대한 請訓 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “往電第三六號 明治四十二年十二月五日午後六時二○分發 曾禰統監 桂首相 …殊ニ內田ハ韓人ニ對シ此事ニ付テハ桂首相寺內陸相ノ密旨ヲ受ケ來レルコトヲ聲言シ居レルカ如シ是最モ憂フヘキノ事ト存ス”
  13. ^ a b 한국사데이터베이스 비교보기 > (32) 韓日合邦 문제에 관한 件”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “(32) 日韓合邦問題ニ關スル件 警秘第三四三號 天眞樓滯在中ノ內田良平ハ去四日來訪シタル大阪每日通信員山本光三ニ對シ語リタリト云フ談片ヲ聞クニ日韓合邦問題ニ關シ一進會カ活動ヲ開始シタルニ對シ世人或ハ突飛的ノ感情ヲ起スモノナキヲ保セサルモ同問題ハ旣ニ伊藤公生存中ヨリ萠芽シ來レル宿題ニシテ日本內閣員中桂總理·寺內陸相·後藤遞相等ノ間ニ於テ專ラ秘密ニ劃策セラレツゝアリテ…”
  14. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (43) [韓日合邦에 대한 一進會의 성명서 등 대책에 관한 보고서 사본 송부 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月7日閲覧。 “[一進會 釀成事件의 系統 및 關係者에 관한 報告書 寫本] (憲機第二三六九號) 今回一進會ノ釀成事件ノ系統及關係者左ノ如シトノ說アリ 遞相後藤男爵ハ朝鮮硏究會ト結ヒ宋秉畯ハ後藤男ヨリ金五萬圓ヲ受ケ一進會ノ相談役タル杉山茂九及內田良平ヲ使嗾シタルモノニシテ內田ハ五千圓ヲ以テ渡韓シ當地ニ於テハ新橋榮次郞 (後備輜重兵少尉) 菊池謙讓等モ多少ノ金ヲ貰ヒ運動ヲナシツゝアリ內田良平ニ屬スル井上藤三郞·武田範之等ハ東京ノ相場士又ハ各通信員等ト結托シ米穀ノ騰貴ヲ計リ一儲セン爲メナリト云フ 明治四十二年十二月七日”
  15. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (3) [一進會員의 韓日合邦 請願에 관한 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “密報ニ依レハ一進會員ハ日韓合倂ノ請願ヲナスノ決心ヲ爲シ明日ニモ之ヲ決行スルヤノ樣ナリ 此際ニ於ケル閣下ノ態度ハ將來國是遂行ニ大ナル關係ヲ有スルヲ以テ聊カ卑見ヲ述ヘ御參考ニ供シタシ御聽許ヲ得ハ幸甚ナリ 若シ一進會カ前述ノ如キ請願ヲナシタル場合ニ於テハ統監ハ泰然トシテ之ヲ受領シ單ニ參考ニ供スヘキ旨ヲ答ヘ置カレ一面韓國政府ニ諭シ本件請願ノ如キハ目下韓國ノ情態ニ於テ一ノ政事的意見ト見ルノ外ナキヲ以テ穩當ニ之ヲ受領セシムルノ處置ニ執ラシメラレ然ルヘシト考フ又此際捕縛又ハ虐殺等無謀ナル處置ニ出テサルヨウ嚴ニ韓國政府ニ注意ヲ與ヘラレタシ且ツ憲兵警察機關ヲ戒飭シ騷擾ヲ豫防セシメラレタシ又要スレハ密ニ軍隊ヲ戒メ卜慮ニ備ヘ置クノ必要アルヘシ 以上ハ小生一己ノ私見ヲ披瀝シタルモノナレトモ大體ニ於テ首相モ異存ナキコトゝ信スルヲ以テ幸ニ右ノ趣旨以テ御處理アランコトヲ乞フ寺內手書ス”
  16. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (46) [一進會의 善後策에 대한 總理大臣의 의견 조회 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “今回ノ事件ハ一面ハ陸軍大臣ヨリ請願提出ノ豫報モアリ兼ネテヨリ內容ニ於テ間接ニ御承知アリシ樣ニモ推察セラルゝモ”
  17. ^ 統監府文書 8、警秘第4106号の1
  18. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、281-282頁。「宋秉畯(引用者注:韓国の政治家で当時日本にいて内田と親しかった)は合邦提議の方法を決定する必要あるより、頻りに李容九と書信を往復して内容の説明を為したるに、李容九の主張と頗る懸隔を生じたるを以て、著者は『合邦の内容は日本天皇陛下の叡慮に依って決すべきものにして、韓人の上るべき合邦建議書中には之を記載すべきものに非ず』となし……断然説明を廃し、単に合邦の大標題のみを立て置き、之を連邦と解し、或は政権委任と釈くものあるべきも、それは総て各自の解釈に任せ、彼等を統率し節制して進行せば、結局統治権全部の授受を完成するを得べしとなし、此の旨を以て李容九を同意せしめた。」
  19. ^ 海野福寿編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、646頁。「警秘第四〇四九号ノ一…宋秉畯ト一進会長李容九トノ間ニ於テ屡々交渉ヲ重ネツヽアリシハ事実ニシテ…」
  20. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (2) 韓日合邦 문제에 관한 件”. db.history.go.kr. 2021年9月3日閲覧。
  21. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (23) [韓國合邦에 대한 李·宋 會見內容 報告 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “石塚 曾禰統監 李·宋會見ノ內容龜山ニ取調ヘシメタルニ昨夜左ノ返電アリ 宋·李ノ會見ハ十數日以前山縣侯カラ首相寺內陸相トノ協議ニ依リ愈韓國合倂ノコト決セラレ一進會從來ノ行動ヲ是認シ將來ハ帝國政府ニ於テ引受ケ之ヲ遂行スヘシトノ覺書ノ交付ヲ受ケ且ツ之レカ實行ハ議會閉會後ナルヲ以テ之レニ關シ互ニ硏究シ置クシトノ口達アリタルニ就キ親シク相談ノ必要起リタルカ爲メト小官幷ニ警察署長ニ對シ明言セリ以上ノ覺書等ノコトハ杉山茂丸馬關ニ於テ宋ニ告知シタルモノゝ如ク宋ハ之ヲ携ヘテ來釜シ宋·李ノ兩人ハ數日ニ亘リ協議セル事項ハ凡ソ (一) 合倂ノ形式卽チ王室ノ存續如何之レニ對シテハ當分王室ノ存置ヲ欲スルモノゝ如ク (二) 合倂決行ノ當局者ハ李完用內閣ニ强ヒテ屈服スルナレハ之ヲシテ續行セシムルモ否ラサレハ相當ノ內閣ヲ組織セントシ尙統監ノ身上ニ關シテモ云爲スル處アルモノゝ如ク (三) 合倂後ノ統治機關ハ寧ロ統監府ヲ廢シ從來ノ如ク韓內閣ノミトシ之レニ日韓シナノヲ混用センコトヲ欲シ (四) 大臣兩班等ノ處分ニ關シテハ大臣等ハ兎ニ角兩班ニ族祿ヲ與フルカ如キハ絶對ニ反對スルコト (五) 一般人民ノ幸福ヲ增進シ之ヲシテ悅服セシムル方法ハ殖産工業ニ力ヲ用ヰントスルコト且ツ之ヲ以テ合倂ニ對スル人心ノ鎭撫方法トナスコト (六) 合倂ニ對スル人心ノ動搖ヲ防ク方法ハ一方地方有力者ヲ丸メルノミナラス兩班ニハ何等救濟ヲ與ヘサルモ一般人民ニハ大ニ殖産上ノ保護ヲ與フルコトヲ聲言シ且ツ之ヲ實行スルコト (七) 外國宣敎師ノ件其ノ他外務ニ關スル事項ニアルモノゝ如シ”
  22. ^ 韓国警察報告資料巻の3(443・444画像目)”. アジア歴史資料センター. 2021年8月28日閲覧。 “一進会ハ一時地方ニ勢力ヲ有シタリシモ光武九年(明治三十八年)日韓保護条約締結当時進テ日本ノ保護ヲ仰クノ可ナルヲ宣言シテヨリ大ニ勢力ヲ失墜シ隆熙元年(明治四十年)日韓新協約発布セラレ軍隊解散ト共ニ各地ニ暴徒蜂起スルヤ日本官憲ニ反抗的態度ヲ執ルト共ニ売国奴一進会員ヲ殺スヘシト唱ヘ会員中其毒刃ニ斃レタル者多ク殆ント一進会員タルノ甚危険ナルヲ感スルニ至ラシメタリ昨隆熙三年十二月日韓合邦論ヲ提唱シテヨリ世論益売国奴ヲ以テ之ヲ目シ攻撃一層甚シキニ至レリ只一進会カ今日尚相当勢力ヲ保チツヽアル所以ハ宋秉畯ハ親日派トシテ常ニ日本官憲ニ接近シ其後援ヲ有セリト称セラルヽト勢力盛ナル当時種々ノ口実ノ下ニ獲得シタル利権アルニ依リ尚日韓合邦ハ近キ将来ニ実行セラルヘク其暁ニハ再ヒ我党ノ天下タルヘシト夢想シ会員ノ離散ヲ防キツヽアリ”
  23. ^ (133) [韓日合邦問題에 대한 綜合報告 件 機密統發第二○九五號]”. 2021年9月3日閲覧。 “憲機第二四七五號 一. 當地方人民ノ大部ハ今回一進會カ日韓合邦ノ意見書ヲ皇帝幷ニ政府ニ提出シ且ツ之ヲ世間ニ發表スルヲ聞知スルヤ大ニ恐怖ノ念ヲ抱キ中ニハ切齒扼腕密ニ一進會ヲ怨嗟シツゝアリ”
  24. ^ 伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件 3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日(42画像目)”. アジア歴史資料センター. 2021年8月28日閲覧。 “始メ日韓合邦論ノ起ルヤ一時韓国ノ政界ヲ賑ハシタルモ事予期ト齟齬シ今ヤ頗ル窮状ニ陥リ殊ニ近ク合邦ノ成功ヲ期スルノ見込ナク今ヤ一進会ハ土崩瓦解ノ悲境ニ瀕シ此侭推移セバ一進会ハ遂ニ暴徒ニ変ズルノ虞ナキニアラズ”
  25. ^ (59) 合邦論ニ關スル其後ノ狀況 憲機第二三九四號”. 2021年9月3日閲覧。 “憲機第二三九四號 一. 西北學會評議員鄭雲復或ハ一兩日中ニ公然一進會ニ入會ヲ發表スルヤモ知レスト云フ 二. 日本人側ノ新聞記者通信員等ハ本問題ニ關シテハ頗ル不快ニ感シ居ルノ狀況ナリ其原因ハ合邦素ヨリ是ナルコトハ何人モ異存ナシト雖トモ之レヲ一進會カ突然上奏又ハ請願ヲスルハ頗ル輕擧妄動ノ行爲ナリ事一進會ノ行爲ナリト雖トモ其實ハ內田良平ノ指揮命令ニ依リテ爲シタルモノナリ內田カ我々 (新聞記者等ナリ) ニ何等謀ルコトナク斯ル重大事件ヲ一個ノ考ヲ以テ爲スハ卽チ功名心ニ驅ラレタル結果ニアラサレハ利益問題ノ爲メニシテ決シテ愛國心ヨリ出テタルモノニアラスト云ヒ居レリ 三. 新聞社員等ハ本問題ニ關シ別ニ何等カノ策ヲ講セント寄リ々々內議中ナルヲ以テ對韓同志者ノ渡韓ヲ機トシ或ハ別ニ本問題ノ處分ニ對スル決議ヲ爲スヤモ知レスト 四. 內田良平カ今回ノ合邦論ヲ一進會ニ爲サシメタルノ內容ハ日本官憲或ハ元老等ノ內命ヲ含ミ居ルカ如キ意味テ在韓新聞記者等ニ吹聽シタル趣キニテ或ハ新聞記者等ハ其筋ニ之レカ實否ヲ尋ネタルモノゝ如シ然ルニ其筋ニテハ何等ノ關係ナキコトヲ言明セラレタリトカニテ二三新聞記者ハ內田ニ對シ取締リヲ嚴ニセラレタシト其筋ヘ警告スルト云ヒ居ルモノアリト云フ五. 大韓協會モ現內閣員モ合邦論ナルモノハ早晩起リ又現實セラルゝコトハ免レサル問題ナルコトヲ承知シ居ルト雖モ之レヲ一進會ノ手ニ依リテ左右セラルゝヲ不快ニ感シ居ルモノナリト韓國大官ハ語リ居レリ 以上 明治四十二年十二月九日”
  26. ^ a b 『日韓合邦秘史』
  27. ^ キム・サムン『親日政治100年史』p.58およびp.80

参考文献[編集]

  • 黒竜会編『日韓合邦秘史』(上下巻)原書房、1966年(初刊は1930年。復刊)。
  • 竹内好「日本のアジア主義」『竹内好全集第8巻』筑摩書房、1980年10月。
  • キム・サムン『親日政治100年史』ドンプン、1995年。

外部リンク[編集]