静田錦波

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しずた きんぱ
静田 錦波
本名 高岸 匠治
生年月日 1900年
没年月日 1976年8月10日
出生地 日本の旗 日本 群馬県
職業 活動弁士
ジャンル サイレント映画
テンプレートを表示

静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸匠治、1900年 - 1976年8月10日)は、活動弁士

来歴[編集]

群馬県出身[1]大正時代に石井春波の弟子となり、弁士の技術を学ぶ。

デビュー後は、浅草電気館帝国館といった松竹系の直営館に出演。帝国館では現代劇の主席弁士を勤めている。主に松竹蒲田撮影所の作品を解説し、美声と名調子で観客(特に女性)を魅了した。

映画がトーキーの時代を迎えた昭和10年(1935年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、争議委員長として交渉するも決裂[2]3月19日から28日にかけてストライキを指揮した[注釈 1]。その後は、主に歌謡曲のナレーションを務めた。

昭和51年(1976年)8月10日、喉頭癌のため死亡[1]。満76歳没。

逸話[編集]

  • 西村小楽天によると、背が低く容姿もあまりよくなかった。美声とのギャップからか、「闇の業平」と揶揄する同業者もいたという[4]
  • 上記ストライキ中の3月27日には、ストの支援をしていた活動家2名が松竹専務城戸四郎の邸宅へ日本刀を持って乱入する事件が起きた。この時、静田は「乱入を使嗾した」容疑で、他の争議委員17名とともに警察に一時身柄を拘束されている[5]

静田のナレーションが収録されている主な作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 28日の交渉で、退職手当などについて労使双方が合意に達し、ストは終結[3]。松竹に在籍する弁士・楽士の全員解雇はそのまま実施されることとなり、結果的には会社側の勝利で終わった。

出典[編集]

  1. ^ a b 無声映画鑑賞会 & 2001年, p. 135.
  2. ^ 「松竹争議団遂に総罷業に入る 会社はトーキーで対抗」、読売新聞1935年3月20日付夕刊(19日発行)、2頁
  3. ^ 「松竹争議 円満解決」、読売新聞1935年3月29日付朝刊、7頁
  4. ^ 西村小楽天 & 1978年, p. 112.
  5. ^ 「城戸松竹専務邸で抜刀二壮士暴る トーキー争議テロ化」、読売新聞1935年3月28日付夕刊(27日発行)、2頁

参考文献[編集]

  • 西村小楽天著『私は昭和の語り職人』エイプリル・ミュージック、1978年。 
  • 無声映画鑑賞会編・マツダ映画社監修 編『活動弁士 無声映画と珠玉の話芸』アーバン・コネクションズ、2001年。ISBN 4900849502