青木昆陽

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あおき こんよう
青木昆陽
Aoki Konyo1.jpg
森小湖 筆
生誕 (1698-06-19) 1698年6月19日
武蔵国江戸日本橋
死没 (1769-11-09) 1769年11月9日(71歳没)
武蔵国荏原郡下目黒村
墓地 東京都目黒区下目黒瀧泉寺
国籍 日本の旗 日本
別名 甘藷先生
著名な実績蕃薯考
『諸州古文書』
影響を受けたもの 伊藤東涯
影響を与えたもの 前野良沢
活動拠点 江戸

青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日1698年6月19日) - 明和6年10月12日1769年11月9日[1])は、江戸時代中期の、幕臣御家人書物奉行儒学者蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)[2]、字は厚甫(原甫[2]とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。

生涯[編集]

大岡忠相による抜擢[編集]

江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。

浪人として京都の儒学者である伊藤東涯古義堂に入門して儒学を学ぶ。江戸町奉行所与力加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。

サツマイモの普及[編集]

江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。

元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命し、身分が幕臣となった。

昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘(後述「佐藤信淵による批判」章を参照)に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。

古文書研究[編集]

元文4年(1739年)には御書物御用達を拝命した。昆陽はサツマイモ栽培から離れた。

寺社奉行となっていた大岡忠相の配下に加わり、甲斐山梨県)・信濃長野県)・三河愛知県)など徳川家旧領の古文書を調査し、在野の家蔵文書を収集して由緒書を研究。昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめた。昆陽の研究に使われた原本は所有者に正しく返却され、返却の際には家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。

蘭学[編集]

のち紅葉山火番を経て評定所儒者となった昆陽は、1740年に将軍吉宗から野呂元丈とともに蘭語学習を命じられ、オランダ語の習得に努めた。短期間ではあるがオランダ人や蘭語通詞のいる長崎に修学のために赴いている[3]。「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」などの入門書や辞書を残し、野呂と共に日本の蘭学の先駆者となった。最晩年の弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる[4]

明和4年(1767年書物奉行を命ぜられた。

明和6年(1769年)流行性感冒により死去、享年72。

著書に『蕃薯考』、『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』、『経済纂要』、『昆陽漫録』、『草盧雑談』など。『国家金銀銭譜』は本邦初の金銀古銭の目録である。

薩摩芋の関東への普及[編集]

一般的には、琉球や南西諸島を除けば薩摩藩領内で栽培されるのみであり、藩外への持ち出し禁止であったサツマイモ(薩摩芋)が、青木昆陽のサツマイモ試作の後、全国、特に関東にその栽培が広まった、とされている。しかし、この点については、後述の佐藤信淵の指摘をはじめ、以下のような疑問がある。

  • 加藤枝直の記録によれば、昆陽が馬加村・不動堂に出張したのは年間勤務数117日のうち、わずか7日であり、実際は養生所の作場への出勤が主で、ほとんど現地に出向いていない。
  • 長崎の鉄工・平野良右衛門という昆陽とともに薩摩芋栽培に携わった人物がおり、実際の栽培は平野がおこなったと考えられる。
  • 昆陽はこの数年の試作以後、薩摩芋栽培普及の職務からは離れ、古文書収集・蘭語研究に携わっていること。
  • 昆陽の試作以前に、関東郡代伊奈忠逵(1712年 - 1750年)のもとで、甘藷栽培が試みられていた。
  • 享保期以前に下総銚子経由で薩摩芋の栽培法が、関東にもたらされていたという文献がある[5]
  • そもそも昆陽が『甘藷説』の中で薩摩芋の栽培法を伝えた人物として、幕張の隣村武石村(現千葉市花見川区)の薩摩浪人の話を伝えている。
  • 関東の事例ではないが、享保16年(1731年)、大岡忠相の推挙により、幕府から派遣されて石見銀山大森代官に任ぜられた井戸正明(井戸平左衛門)は、着任当時60歳と高齢で任期も2年ほどの短期にも関わらず、その仕事により管轄の天領おより近隣の領民から後世に「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取県・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。いも代官と呼ばれた彼の主だった功績は、代官所のあった石見国に甘藷導入・普及をもたらし、飢饉の際に大変に役立ったことである。つまり、青木昆陽が推挙される以前の1731年の段階で、幕府は甘藷の対飢饉有効性を認識し、栽培を実験・奨励していたとも考えられる。

上記を挙げて「実は…はなかった」のような陳腐な論説を語るのは容易であるが、上記を考慮した上でもなお昆陽の試作が

  • 幕府(町奉行)が命を下して行った本格的な試作であったこと。
  • 昆陽の「蕃薯考」が出版され、薩摩芋栽培の普及を意図・頒布したこと。
  • (数々の事例を経て、公式な栽培実績もできたことにより)この試作以降、薩摩芋を幕府が救荒作物として本格的に考えるようになった。

であることは否定しようのない確かな史実である。 これにより、幕命により昆陽らが行ったこの試作は、薩摩芋の関東への普及にとって画期的な事件であった、と史学上で位置づけられている。

佐藤信淵による批判[編集]

佐藤信淵はその著書『草木六部耕種法』の中で、昆陽の薩摩芋栽培法を「疎放なる作法」と批判し、昆陽の種芋を直接地面に植える方法に対して、高温多湿な苗代を作り早い時期に収穫する方法を紹介している。この方法は、最近まで関東各地で行われていた方法で、近世後期の関東地方の農書の多くがこの栽培方法を記している。

そもそも佐藤信淵の著書には出典不明の独自の例話が多く、この昆陽の栽培方法話が事実なのかすらも不明である。関東地方に薩摩芋栽培が普及する陰には、昆陽の試作以降、農業指導者や個々の農民らにより多くの試行錯誤が行われ、多くの名もなき甘藷先生がいたと考えるのは容易である。

昆陽神社[編集]

道路工事のために社殿は取り壊され、一時的に子守神社に移転した。2006年11月に新しく作られた現在の社殿に戻った。[6]

青木昆陽墓[編集]

青木昆陽の墓(目黒不動墓地)

昆陽は下目黒・大鳥神社の近くに別邸を持ち[7]、その墓は東京都目黒区下目黒3丁目の瀧泉寺目黒不動尊)飛び地境内の目黒不動墓地にある。毎年10月28日の縁日には、10月12日の命日を偲び、瀧泉寺(目黒不動尊)で甘藷まつりが開かれ多くの参拝客でにぎわう。

  • 交通
    • 東急バス 渋72 目黒不動尊下車
    • JR山手線 目黒駅 下車
    • 東急目黒線 不動前駅 下車

脚注[編集]

  1. ^ 「飲食事典」本山荻舟 平凡社 p2 昭和33年12月25日発行
  2. ^ a b 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館2007年、8頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  3. ^ 行ってない説有。
  4. ^ 昆陽に入門した時期は幾つか説があるが、鳥居裕美子の説に拠れば前後の経過から推測して『蘭学事始』にある「宝暦末、明の初年」が正しいと考えられる。
  5. ^ 島原重夫『甘藷馬鈴薯年譜』
  6. ^ 産経新聞(2010-1-7)「【ここいこ】飢饉救ったサツマイモ 幕張から全国へ 青木昆陽甘藷試作地[1]」 2010年4月24日閲覧
  7. ^ 山本和夫「目黒区史跡散歩」学生社、p80

参考文献[編集]

  • 『青木昆陽伝』、 平野元三郎 著 (隣人社)
  • 『千葉郡幕張町誌』、(家鴨文庫蔵)
  • 『年譜 青木昆陽伝』、 青木七男 著  平成16年。
  • 『青木昆陽 伝記、事蹟』 青木七男 著 平成24年

関連項目[編集]

関連作品[編集]