雪下熊之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
雪下 熊之助
Japanese Naval Academy Graduates.jpg
前列左端雪下、隣上村彦之丞、後列左5人目山本権兵衛、9人目片岡七郎(於サンフランシスコ)
生誕 1854年4月9日
陸奥国会津藩
死没 (1877-03-11) 1877年3月11日(22歳没)
長崎県
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1876年9月6日 - 1877年3月11日
最終階級 海軍少尉補
テンプレートを表示

雪下 熊之助(ゆきした くまのすけ、1854年4月9日嘉永7年3月12日) - 1877年明治10年)3月11日)は、幕末会津藩士。明治期の海軍軍人海軍兵学校出身者として最初の戦死者となった海軍少尉補である[1]

生涯[編集]

父は会津藩士雪下熊蔵。斗南から1871年明治4年)8月に海軍生徒兵学校に進んだ。1874年(明治7年)7月「雲揚艦」乗組みとして実地訓練を受け、翌1875年(明治8年)4月に「筑波艦」乗組みとして日本海一周航海を行った後、12月6日アメリカへの航海に出発。1876年(明治9年)4月14日帰国した。この航海は日本の最初の練習航海である[2]。その後「清輝艦」乗組みとなり、9月6日、海軍少尉補に任じられた。雪下は兵学校(兵学寮)3期生の一人である。同艦乗組みとして西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)3月9日熊本県船津沖にて小汽艇に乗り込み測量に従事中、銃撃を受け被弾。11日、長崎の海軍仮病院にて死去した。

母のサダ子[3]、兄の豊治は戊辰戦争において若松城中で戦死し、父は前年に死去しており祖母と継母が遺された。後年雪下家の養子となった雪下勝美は、海軍兵学校(36期)へ進み戦艦長門艦長海軍大学校教官等を務め、海軍少将へ進んだ。

関連する人物[編集]

  • 井上良馨:「清輝艦」艦長。
  • 仁礼景範:雪下の戦死を公式報告。
  • 山吉盛典福島県令。雪下の遺族へ扶助料が早期に支給されるよう尽力。
  • 角田秀松:「清輝艦」乗組海軍少尉。雪下と角田は同藩出身で、雪下戦死の際遺品等の世話をした。
  • 深尾弘:雪下とは同藩出身で、ともに斗南から兵学校に進みイギリスに留学。少尉補で病没した。

出典[編集]

  1. ^ 『海軍兵学校物語』187頁。なお同書の記述は谷口尚真著『大海軍発展秘史』に基づいている。
  2. ^ 松下芳男『日本軍事史叢話』土屋書店、354-355頁
  3. ^ 『会津史談会報 』第9号「会津藩殉難婦人名鑑」

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター
    1. 『往入156 故雪下少尉補遺族扶助の義軍務局上申』(C09101667900)
    2. 『履入239 雪下少尉補実父病死の件東海鎮守府届』(C09112245500)
    3. 『雪下少尉補戦死の件在長崎仁礼大佐届出』(C09112419900)
  • 会津郷土資料研究所『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
  • 会津史談会編『会津史談 創刊号-第24号』会津史談復刻刊行会
    1. 「会津史談会報 」第9号(昭和9年7月号)
  • 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
  • 松野良寅『会津の英学』歴史春秋社

外部リンク[編集]