難波国勝

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難波 国勝(なにわ の くにかつ)、あるいは難波吉士 国勝(なにわ の きし くにかつ、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族

記録[編集]

日本書紀』巻第二十四によると、皇極天皇元年(642年)に、百済および高麗(高句麗)における政変が相次いで起こったことが記述されている[1]。この事態に大和政権は、朝鮮半島に使者を送ることを決定し、高麗には津守連大海(つもり の むらじ おおあま)、百済には国勝吉士水鷄(くにかつ の きし くいな)を派遣することになった[2]

それから14年後、『書紀』巻第二十六によると、斉明天皇2年(656年)、

西海使(にしのみちのつかひ)佐伯連栲縄(さへき の むらじ たくなは)小山下(せうせんげ)難波吉士国勝(なには の きし くにかつ)(ら)、百済より還りて、鸚鵡(あうむ)一隻(ひとつ)(たてまつ)れり[3]

と記されている。この難波吉士国勝と、吉士国勝水鶏が同一人物ではないか、と考えられており、あるいは前者は「国勝」と「水鶏」という別々の2人の人物のことではないか、と見ることもできる。

皇極元年に派遣された使いの中には、新羅に派遣された草壁吉士真跡(くさかべ の きし まと)・任那に派遣された坂本吉士長兄(さかもと の きし ながえ)の名前もあり[3]、吉士集団が外交面で大きく活躍していたことが窺われる。

なお、鸚鵡については、『書紀』巻第二十五に、大化3年(647年)、新羅が日本への人質の金春秋と共に孔雀1羽と合わせて献上した記事が日本最古のものとされている[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年正月29日条、2月2日条、2月21日条
  2. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年2月22日条
  3. ^ a b 『日本書紀』斉明天皇2年是歳条
  4. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 大化3年是歳条

参考文献[編集]

関連項目[編集]