雀部重政

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雀部 重政
Sasabe Awaji-no-kami.jpg
豊臣秀次に殉死した際の姿を描いたもの。
(絹本著色「豊臣秀次像」の一部、京都・瑞泉寺収蔵。)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年
死没 文禄4年7月15日1595年8月20日
別名 玄蕃充, 蒔田淡路守
戒名 大雄誓義居士
官位 従五位下淡路守
主君 三好康長豊臣秀次
父母 雀部伊豆守
兄弟 六左衛門、重政
妻は佐野綱正の娘
重良

雀部 重政(ささべ しげまさ、永禄2年(1559年) - 文禄4年7月15日1595年8月20日)は、安土桃山時代の武将。雀部伊豆守の子。玄蕃充、のちに従五位下淡路守。雀部 淡路守(ささべ あわじのかみ)、蒔田 淡路守(まいた あわじのかみ)としても知られる。妻は佐野綱正の娘。

略歴[編集]

はじめ三好康長に仕える。のちに(三好康長の養子となった)豊臣秀次に仕え、その馬廻組頭となり尾張国内に2,000石を賜った。天正18年(1590年)10月に従五位下淡路守に叙任され[1]、豊臣姓を賜った。

天正19年(1591年)2月28日、千利休茶湯の弟子だった重政は、利休の切腹の際に見届け役の一人を務めた。一説には介錯は重政が行ったともされる。

文禄4年(1595年)7月15日、主君である豊臣秀次が改易された際、高野山で秀次の介錯をしたのちに殉死した。享年37。知恩院塔頭如意庵に葬られる。介錯の際に使用された刀とされる銘・南都住金房兵衛尉政次の太刀は兄の雀部六左衛門の手に渡ったとされ、これを子孫が伝承し現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている。

子の雀部重良は外祖父・佐野綱正に養育され、徳川家康に小姓として召し出されて旗本となり、近江国内に800石を賜った。


脚注[編集]

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  1. ^ 寛政重修諸家譜には天正19年10月28日に叙任とある。

参考文献[編集]

  • 日本史大辞典(講談社)
  • 戦国人名辞典(新人物往来社)
  • 寛政重修諸家譜

関連項目[編集]