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陶隆満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
陶隆満
時代 戦国時代
生誕 明応6年 (1497年
死没 不詳
改名 持長→隆満
別名 九郎、散位
官位 従五位下 兵庫頭、安房守
主君 大内義興義隆毛利元就
氏族 多々良姓大内氏庶流陶氏
父母 父:陶弘詮
兄弟 陶興就隆満観室永喜陶興房室)
隆秋
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陶 持長/隆満(すえ もちなが/たかみつ)は、戦国時代武将周防国戦国大名・大内氏の庶流陶氏の一族で、後に毛利氏の家臣。前名は持長(もちなが)。 大内氏の奉行人及び評定衆として活躍した。

生涯

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誕生

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明応6年(1497年)に陶弘詮の息子[1]として生まれた[2]。兄に興就、妹に観室永喜がいる。

このころ、大内氏当主・大内義興肥前国少弐政資を自害に追い込んだものの、合戦は翌年まで続くなど、戦乱は続いていた。持長はそのさなかに生まれたのだった。

義興期の動向

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永正4年(1507年)、義興は前将軍足利義尹を擁して上洛、兄・陶興就は本国留守居役となった父・弘詮の代わりに上洛に供奉し、上洛中は三条西実隆に海産物を贈るなどの活動をしていた。

しかしながら、興就は永正8年9月(1511年)ごろに消息を絶ち、持長が家督継承者として活動することとなった。

そんな持長が史料上に現れるのは、大内義興の当主在任期である大永3年(1523年10月4日付の連署奉書である。このときから大永4年8月までは「散位」と名乗っている。杉興重(兵庫助)と共に、長崎弥八郎元康に「海上搦」について、毎日夜に馳走していることを弘中武長(越後守)が注進したため義隆へ披露した旨を伝えている[3]

同月24日には弘詮が死去し、持長が家督を継いだ。

大永4年、持長は寺社奉行を兼任し[4]、また、同年8月には大内氏の宿老らと共に連署禁制を発給している。

また、大永6年(1526年)までには兵庫頭を称している[5]

大永末期~享禄初期には伊予国中途島へ渡海し、現地の警固衆を統率する。

だが、享禄元年(1528年)12月には義興が薨去し、義隆の治世が始まる。

義隆期の動向

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享禄2年(1529年3月24日、隆満は大内氏宿老と共に、代替わり徳政の実施を公布する[6]

享禄3年(1530年)10月、松崎天満宮の上棟に際し、結縁衆に名を連ね、また被官らと同様神馬1匹を寄進する[7]

しかし、享禄5年(1532年4月23日、陶持長の被官伊香賀就為(「就」字は興就からの偏諱)稲田長輔(「長」字は持長からの偏諱)・仁保真次が周防国衙候人の得富雅楽助竹屋重孝上司資和に対し、抱えている正税米を納めたいため請取人数を把握したく、商人らと話してほしいと申し出たものの、同月29日には同候人らが大内氏へ、持長の抱える国衙領7カ所が、徳政が発布されたのに対して返還されていないことを訴えたため、持長はすぐに返還している[8]

同年には、大友義鑑が大内義隆によって上洛を妨げられているなど理由から、少弐資元と共に筑前・豊前へ侵攻を開始した。義隆はこれに対して大内軍を派遣した。

そして天文4年には持長は周防国吉敷郡氷上山興隆寺修二月会の大頭役を務めた。[9]

天文6年(1537年)、従五位下に叙任[10]。この年頃には安房守を称している。また、光井兼種を引き連れ安芸へ出陣した[11]

天文7年(1538年)、大内氏・大友氏間の和平にて、大内氏側の正使として持長が出向き[12]、和平を成立させた。

このころ、安芸国の国衆毛利元就の嫡男・毛利隆元が下向してきており、持長も隆元と対面している[13]

そして、同年~10年(1541年)までの間に隆満へと改名する[14]

天文10年には安芸銀山城の城督に就任する[15]

出雲遠征以降の隆満

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天文11年(1542年)、義隆は安芸・備後国の処理を終え、出雲に出陣する。隆満もこれに従っており、龍崎隆輔とともに、義隆の意を分国内外に伝える役割も果たしている。

だが、天文12年には尼子氏に敗退し、隆満も撤退することになる。

その後も隆満は活動を絶やさず、天文13年1544年には、陶隆房・多々良(詳細不明)・杉重矩内藤興盛・杉宗長(興重の法名)・飯田興秀弘中興勝相良武任と共に分国の法度を公布している[16]

天文16年(1547年)、遣明船派遣の条々を公布する[17]

天文18年(1549年)、地下官人真継久直の鋳物師活動に対して、鋳物師公事役を徴収するよう弘中隆兼・陶隆房・問田隆盛杉興運に義隆の命を奉じた[18]

大寧寺の変以降の隆満

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天文20年(1551年)、陶隆房(のち晴賢に改名)の謀反に協力し、山口へ乱入して長門国に逃亡した大内義隆主従を死に追い込んだ(大寧寺の変)。変後も積極的に協力して、周辺の益田氏周布氏に書状を送っている(『周布家文書』)。

翌21年(1552年)、大友義鎮の弟・大友晴英を新当主として擁立、翌22年(1553年)正月には、足利義輝より白傘袋・毛氈鞍覆を免許される[19]

その後、天文24年(1555年)の厳島の戦いで、晴賢は毛利元就に敗北し自害する。その後、隆満は周防に侵入してきた毛利氏に降伏し、その家臣となった。

その後の消息は絶えたため死去または隠居した可能性もある。没年不詳。跡は隆秋が継いだ。

源氏物語の収集

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大内氏の一族らしく教養豊かであった。文化人としての活動も行っており、特に『源氏物語』を収集したことで著名である。大内家伝来の『源氏物語』は、隆満が公家三条西実隆に依頼して書写したものである。

陶隆房謀反の際に主力として活動しながらも、毛利氏への降伏が許され助命されたことは、この教養の高さが影響していると思われる。

出典

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  • 藤井崇『大内義隆 類用武徳の家を称し、大名の器に載る』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、1989年10月(原著2019年)。ISBN 978-4-623-08678-8NCID BB29031266全国書誌番号:23282508 
  • 和田秀作「萩藩士宇野家と陶氏の系譜 ー「宇野与一右衛門家文書」の再検討-」『史学研究』254号、広島史学研究会、2006年10月、1-20頁、ISSN 0386-9342全国書誌番号:00009701 
  • 和田秀作「大内義隆と陶隆房」『山口県史 通史編中世』、山口県、2012年10月、519-521頁、全国書誌番号:22197113 
  • 和田秀作「陶氏の奉書署判者について」『山口県文書館研究紀要』第50号、山口県文書館、2023年、51-68頁、ISSN 0286-9047全国書誌番号:00023577 

脚注

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  1. ^ 和田秀作は、隆満は弘詮の子であると推察している。また、弘詮は「右田」とは名乗っていないこと、弘詮の子とされてきた隆康、そして隆康の子・隆弘は架空の人物である可能性を指摘している。
  2. ^ 歴名土代』の記載年齢から逆算したもの。
  3. ^ 「譜録」長崎首兵衛高亮4号
  4. ^ 日置八幡宮文書
  5. ^ 大内氏掟書、5月6日付連署奉書写
  6. ^ 明法寺榊文書
  7. ^ 「防府天満宮文書」
  8. ^ 「上司家文書」
  9. ^ 「興隆寺文書」161号
  10. ^ 歴名土代群書類従22巻416頁収録、内外書籍
  11. ^ 「大内家御判物幷奉書写 安富恕兵衛」24号
  12. ^ 藤井崇 2019.
  13. ^ 「毛利隆元山口滞留日記」
  14. ^ 「天野毛利文書」、天文10年8月18日付天野興定宛連署奉書
  15. ^ 房顕覚書
  16. ^ 「広崎文書」
  17. ^ 檜垣文庫資料
  18. ^ 「真継文書」
  19. ^ 『大日本古文書 家わけ第21』蜷川家文書3 668号

関連項目

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