陶磁の国の姫君

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『陶磁の国の姫君』
James McNeill Whistler - La Princesse du pays de la porcelaine - brighter.jpg
作者 ジェームズ・マクニール・ホイッスラー
製作年 1863年 - 1865年
種類 カンバスに油彩
寸法 201.5 cm × 116.1 cm (79.3 in × 45.7 in)
所蔵 フリーア美術館、ワシントンD.C.

バラと銀:陶磁の国の姫君』(ばらとぎん:とうじのくにのひめぎみ、Rose and Silver: The Princess from the Land of Porcelain)は、アメリカ生まれの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの絵である[1]1863年から1865年の間に描かれた。絵は現在、ワシントンD.C.フリーア美術館のピーコック・ルーム(Peacock Room)の暖炉の上方に掛かっている。

説明[編集]

『姫君』は、着物(kimono)を着て、そして無数のアジアの物のなかに立っている西洋の美しい女性をえがいているが[2]、そのなかにはいくつかの陶磁器のみならず敷物および屏風もふくまれている[3]。彼女は、団扇(hand fan)を持っていて、そして絵を見る者を「もの思わしげに」("wistfully")見ている[4]

全体は、印象主義的な方法で描かれている[3]。『姫君』の額は、円を無数の矩形と組み合わせている、絵と同様のモチーフでかざられている[5]

アイコ・オカモト=マックフェール(Aiko Okamoto-MacPhall)は、ホイッスラーは、『姫君』を描いたときに、同様なテーマの『紫色と金色の安らぎ 第2番:金屏風』(Caprice in Purple and Gold No.2: The Gold Screen)のように、大量の金色をしばしばつかったことに注意している。絵そのものは、金をすこしもふくんでいないけれども、英国の船舶界の大物フレデリック・レーランド(Frederick Leyland)の自宅に展示されていたあいだは、金と青の内装のなかにあった[6]

製作[編集]

ホイッスラーによるスケッチ のちに除かれた花々をしめす

『姫君』は、1863年と1865年のあいだに、ホイッスラーによって、マリー・スパルタリ・スティルマン(Marie Spartali Stillman)をモデルにして、描かれた[2]。スミソニアンのオーエン・エドワーズ(Owen Edwards)は、スパルタリを「当時の美術家全員が描かせろとしつこく要求していた英国系ギリシア人の美人」と特徴づけている[7]

『姫君』は、アジアの環境でアジアの衣裳を着た西洋の女性を描く期間のあいだに描かれたホイッスラーの複数の作品のひとつである[8]

いくつかの彼のほかの作品の場合とおなじく、ホイッスラーは、この作品の全体的なレイアウトを準備するためにスケッチを利用した。別の複数のディテールはのちに付け加えられた。残っているあるスケッチは花々を描いていて、そしてそれらはのちに作品から除去された[2]。背景の白い屏風は、ホイッスラー所有のものであったかもしれない[9]

沿革[編集]

ピーコック・ルームの暖炉の上方にかかる『陶磁の国の姫君』 フリーア美術館
『姫君』が飾られた孔雀の間。ホイッスラーは部屋全体を紺と金に塗り替え、壁に孔雀を描き足した

肖像が完成したとき、スパルタリの父親はこれを購入することをこばんだ。ホイッスラーの大きな署名は、別の買い手になりたい人を引き下がらせた。これが、ホイッスラーに、蝶型の署名を発達させたかもしれない[2]

絵の初期の沿革は、その後、かなりさだかでない。1865年に『姫君』はパリ・サロン(Paris Salon)に展示された。翌年、これはロンドンのギャンバートのフレンチ・ギャラリー(Gambart's French Gallery)で展示された。ホイッスラーが南アフリカに居たとき、展示が終了したので、彼の友人ダンテ・ガブリエル・ロセッティが絵を受け取った。ロセッティかまたはホイッスラーの詩神で恋人のジョアンナ・ヒファーナンのいずれかによって、フレデリック・フス(Frederick Huth)であると考えられる未知の美術収集家に売られたのは、そのときであった。『姫君』は、1867年にホイッスラーにもどされた[8]

数年後、肖像画は、レーランド(Leyland)によって買われた[8]。彼は、『姫君』を、康熙帝の陶磁器(Kangxi ceramics)でいっぱいのダイニング・ルームで展示したが、しかしトマス・ジキル(Thomas Jeckyll)によるその装飾を不快におもっていた[10]。ホイッスラーは、あらたな入手物を強調するようにレーランドが部屋の着色を変更してはどうかと提案した。ジキルが病気であったので、再デザインは、のちにホイッスラー自身によってなされた[8][7]。その結果が、ピーコック・ルームであった[8]。しかしながら、ホイッスラーの変更は、レーランドが希望した以上に徹底的であったので、結果として2人は諍いを起こした[10]

1892年、レーランドの死後、『姫君』はロンドンのクリスティーズでアレクサンダー・リード(Alexander Reid)に売られた。さらに数年後には、ウィリアム・バレル(William Burrel)に売られた[8][10]1903年8月20日、『姫君』は『陶磁の姫君』(The Princess of Porcelain)という題で3,750ポンド(18,240米ドル)で、[8]チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer)によってロンドンのボンド・ストリートで、買い取られた[4]。彼は、それをミシガン州デトロイトの自宅に保管した。翌年、彼は、ピーコック・ルームを入手した。1906年、彼は、両者をスミソニアン学術協会(Smithsonian Institution)に寄贈した[7]

1919年のフリーアの死の後、『姫君』とピーコック・ルームの両者は、ワシントンD.C.フリーア美術館にうつされたが、これはフリーアによって設立されたスミソニアン学術協会の美術館である。『姫君』は、フリーア・ギャラリーのピーコック・ルームに収蔵され、アジアの陶磁器の回転するストックのなか、暖炉の上方に掛けられつづけている[8][10]2011年、『姫君』はグーグル・アート・プロジェクト(Google Art Project)によって1ギガピクセルを超える解像度でデジタル化された[11]。これは、無数のより小さなデジタル・モザイクを集合させることによって遂げられた[12]

影響[編集]

批評家らは、絵において、18世紀フランスシノワズリのスタイリングのみならず、絵における日本の浮世絵師喜多川歌麿の影響をみている[2]

受容[編集]

1865年のパリのサロンの時評において、ギュスターヴ・ヴァティエ(Gustave Vattier)は、「子供の息でさえこれを吹きたおすことができよう」("a child's breath could blow it over")と言って、絵は展示の準備ができていないと書いた[注釈 1]。彼はまた、絵は「思いつきときまぐれ」("whim and fantasy")にすぎないと書いて、ホイッスラーは現実を表現しているという信念に異議を唱えた[注釈 2][13]

その学位論文において、キャロライン・ドスウェル・オールダー(Caroline Doswell Older)は、『姫君』は、額に入れないで見ると、ピーコック・ルームによって呑み込まれようとしているかのようにおもわれる、不注意に撮られ、縁を詰めて切り取られた写真という印象があると書いた。しかしながら、額にいれると、彼女は、これは「持ちこたえるだけのプレゼンスをそなえた審美的な物」("aesthetic object with enough presence to hold its own")とわかる[14]

脚註[編集]

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注釈
  1. ^ Original: "... un soufle〔ママ〕 d'enfant la renverserait."
  2. ^ Original: "... que du caprice et de la fantaisie."
出典
  1. ^ 池上英洋『西洋美術史入門 実践編』筑摩書房、2014年、口絵11。ISBN 978-4-480-68913-9
  2. ^ a b Older 2007, p. 35.
  3. ^ a b Goswamy 2011, The Peacock Room.
  4. ^ Older 2007, p. 36.
  5. ^ Okamoto-MacPhall 2005, p. 91.
  6. ^ a b c Edwards 2011, The Story Behind.
  7. ^ a b c d e f g h Google Art Project, The Princess.
  8. ^ Okamoto-MacPhall 2005, p. 90.
  9. ^ The Telegraph 2011, Google Art Project.
  10. ^ Kennicott 2011, Google Art Project.
  11. ^ Vattier 1865, p. 33.
  12. ^ Older 2007, pp. 35–36.
文献