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陶片追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オストラシズムに実際に使われた陶片。「ネオクレスの子テミストクレス」を意味するギリシャ語が刻まれている。

陶片追放(とうへんついほう、ギリシア語: ὀστρακισμόςオストラキスモス)は、古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。英語オストラシズム (ostracism) という名称でも知られる。

沿革

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アリストテレス「アテナイ人の国制」によれば、クレイステネスがこの制度を導入したといい、これはスパルタのクレオメネス1世によるアテナイ侵攻、およびヒッピアスの追放、民主政への回帰という一連の事件を契機に採用されたという[1]。この「追放」を最初のものと措定すると紀元前508年(or 506?)が最初の追放と考えられる。しかしヒッピアスのアテナイ(アッテカ)からの退去は降伏条件として受諾したものであり、陶片による最初の追放は紀元前487年のヒッパルコスに対するものであり、ヒッピアスの「追放」からほぼ20年間は実施されていなかった。

陶片追放の制度は、僭主の再出現を防止するため[2]というのが教科書的な解釈であるが、この制度は実際には様々な政治的意図、あるいは目的で使用されたと考えられており、英国作家ジョナサン・スウィフトは弾劾裁判の一種と捉えている[3]。すなわち貴族たちの激しい抗争を平和的に解決するための手段であり、ヒッピアスの例がそうであったように、前古典期のアテナイ史は貴族達の内部抗争と集団亡命、外部勢力を引き入れたクーデターの連続であり、ライバルの一族郎党をアテナイから排除して実権を握った貴族は、国外で力を蓄えて復讐に燃えるライバルに再び追い落とされるという権力闘争があとを絶たなかった。僭主ヒッピアスに514年にアテナイを追放されていたクレイステネスはアテナイの僭主制は崩れるという神託を受けることに成功し、これを元にスパルタ王クレオメネスを説得してアテナイを攻略し(511-510年)、ヒッピアスを亡命に追い込み(510-509年)、一方で政敵のイサゴーラスはやはりスパルタ王クレオメネスの支持を求め、アッティカへの進軍を招き、クレイステネスもまた一度亡命するが(508-507年)、アテナイ市民が蜂起して彼を呼び戻すという事態が生じていた[4]

陶片追放の制度は、こうした状況に終止符を打つため、一族全員の追放ではなく一人だけを追放に処すという緩やかな方式で、集団亡命とクーデターの憎しみの連鎖を断ち切るものであった。アテナイの政体はソロンの改革と僭主制の時代を通じ、貴族制から平民民主政へと推移しており、貴族による反動革命を阻止し、僭主の登場を阻止する「人民投票」の性格があり、その当初の目的はアルコーン制度の維持と民主政の維持であり、実力者の貴族を排除することにあった[5]。一方でスウィフトに言わせればこれは貴族と平民の抗争の終局点であり、ソロン以降に勢力を格段に伸長させた平民が権利意識を肥大化させ、本来ならば感謝すべき将軍(貴族)を弾劾という手段で攻撃し、妬みや気まぐれから、結果として「多数派の専制」を招き、均衡していたアテナイの国制が内部から崩壊する原因となったとする[6]

陶片追放は、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されており、たとえばペルシア戦争における優秀な指揮官であったアリステイデスは陶片追放により一時であれアテナイを追放され、またサラミスの海戦で活躍したテミストクレスも後に陶片追放によってその地位を追われている。そのため、陶片追放に古代アテナイが衰退する一因を見いだす見解もあるが、立法目的に照らせば、貴族たちの激しい政争を防いで民主制の安定に貢献したといえる。ともあれ、理性的な弾劾裁判制度が整備されるにしたがって弊害だけが目立つようになり、前5世紀末には廃れた。対比列伝には「候補者の事は何も知らないが、皆が騒いでいて気に入らないので陶片を投じる」などといった濫用例が記されている。

方法

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毎年1回、陶片追放を行うかどうかの予備投票が民会で開かれ、実施が決まるとその二ヶ月後に陶片追放の投票が行われる。市民が僭主になる恐れのある者の名を陶片(オストラコン)に記し(なお代筆が認められていたので字が書けなくとも投票できた)、得票数が6000票を超えた場合、或いは投票総数が6000票を超えた時の最多得票者に10年間の国外追放が言い渡されたとされる(どちらが正しいかは定かで無い)。追放中にアテナイに戻れば死刑が宣告されるものとされた。

ただし、追放された者が犯罪者のように扱われたわけではなく、家族・親族を連座で追放することはなく、市民権剥奪や財産没収などの付加刑を課せられず、10年の追放期間を過ぎた後には政治の主導権を握ることも可能であった。また、アテナイと友好的な関係にある都市から財産を換金して引き出し、生活にあてることも可能であるため、十分な財産があれば生活に困ることもなかった。有事の際には10年経っていなくても本国へ呼び戻されることもあった。実際に陶片追放が行使されたのは10件余りに過ぎない。

陶片追放の対象者

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いくつかについては学術的に不明確なものを含む。

ヒュペルボロスの追放については、前年のマンティネイアの戦い (紀元前418年)におけるアテナイとその同盟者たちの敗北の後、アテナイでは政治的な綱引きが行なわれており、アルキビアデスは平民の代表者として政治家クレオンの後を継いだデマゴーグ(煽動的民衆指導者)ヒュペルボロス に反対する立場から、ニキアス (Nicias) に加勢しており、ヒュペルボロスは、ニキアスかアルキビアデスのいずれかを陶片追放しようと試みたが、ニキアスとアルキビアデスは協力して影響力を行使し、結局アテナイ市民たちはヒュペルボロスを陶片追放にしたとされる。この経緯により同年以降「陶片追放」は廃止ないし実施されなくなったが、代わりに「違法提案に対する公訴(グラフェ・パラノモン)」の制度が採用され、従来からの法令に抵触する法の提案者に対して公訴を提起し、違反者には罰金を科すとする制度が採用されることとなった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ Aristotle, Athenian Constitution H. Rackham,Ed.[1]
  2. ^ 山川出版社 山川世界史小辞典 改訂新版「陶片追放」[2]
  3. ^ 岸本広司「諷刺作家の誕生(三)」(岡山大学法学会雑誌、2020.2)[3]、脚注66
  4. ^ Herodot. 5,6,7、直接の引用は鈴木一郎「紀元前五百年頃までのアテナイの支配体制」(恵泉女学園大学人文学部紀要、1992.01)[4][5]P.P.72-73(P.P.88-89)
  5. ^ 鈴木一郎(1992.01)P.71(P.90)
  6. ^ 岸本広司「諷刺作家の誕生(三)」(岡山大学法学会雑誌、2020.2)[6]、P.P.232-233

参考資料

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  • 澤田典子『アテネ民主政 命をかけた八人の政治家講談社選書メチエ、2010年、61-64頁。ISBN 978-4-06-258465-4