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陳玄礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 玄礼(ちん げんれい、生没年不詳)は、玄宗朝の武将。玄宗の即位以前から従い、楊国忠を殺し、玄宗に楊貴妃の死を迫った。

経歴

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中宗の時、左右羽林の『万騎』の果毅(営長)となっており、韋后一族の横暴を、万騎と親交を結んでいた李隆基(後の玄宗)に訴え、韋后討伐に加わり手柄を立てた[1]。純朴で謙虚な性格だったという。

天宝年間に、玄宗が虢国夫人の屋敷を訪ねようとした時、「まだ臣下に勅命を告げていないのに、天子が軽々と出るものではありません」と諫めて引き返させた話や、玄宗が華清宮に在したおり夜遊びしようとした時に、「宮廷の外は荒野で警護が万全にできません。夜遊びは宮中で行ってください」と言ってあきらめさせた話が残っている。

天宝14載(755年)に安史の乱の勃発後、左龍武大将軍であった陳玄礼は長安で楊国忠を殺そうとしたが、果たせなかったという[2]

至徳元載(756年)、玄宗の長安出奔に同行し、馬嵬で李輔国を介して太子李亨に楊国忠の誅殺を迫った。しかし許可がおりず、兵士たちと楊国忠を殺した。さらに、軍隊が動かないことを理由に、玄宗に迫って楊貴妃に自殺を命じさせた。

玄宗に従いに同行し、ともに長安に帰り、蔡国公に封じられる。その後、玄宗の侍衛を行っていたが、李輔国によって玄宗と引き離され、上元元年(760年)に致仕した。

脚注

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  1. ^ ただし、史書に見える昇進者に名前が見えず、特別目立つ存在でなかったことは推測される。
  2. ^ 具体的な時期は不明。

伝記資料

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  • 旧唐書』巻百六 列伝第五十六「王毛仲伝」
  • 新唐書』巻百二十一 列伝第四十六「王毛仲伝」