阿彌神社 (阿見町中郷)

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阿彌神社
Main shrine of Ami-jinja Shrine (Nakago, Ami town, Ibaraki prefecture).jpg
本殿
所在地 茨城県稲敷郡阿見町中郷二丁目25番
位置 北緯36度2分31.7秒
東経140度12分44秒
座標: 北緯36度2分31.7秒 東経140度12分44秒
主祭神 豊城入彦命
社格 式内社(小)
郷社
創建 和銅元年(708年
本殿の様式 一間社流造
別名 (鹿島)明神
例祭 10月1日
地図
阿彌神社の位置(茨城県内)
阿彌神社
阿彌神社
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境内入口
鳥居

阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)は、茨城県稲敷郡阿見町中郷二丁目25番[1](旧信太郡阿見村)にある神社。古名は(鹿島)明神。式内社論社(常陸国信太郡、小社)。旧郷社。阿見町竹来にも同名の阿彌神社がある。

概要[編集]

霞ヶ浦、清明川、花室川支流に挟まれた台地にある。かつて周辺は田畑だったが、社地を取り囲むように国道125号阿見美浦バイパス茨城県道203号荒川沖阿見線が敷設され、区画整理が行われた。それに伴い、所在地は中郷二丁目25番になった。現在は石杭が神域の境界を画している。

旧海軍航空殉難者を祀っていた霞ヶ浦神社の旧本殿が保存されている。

11月下旬に酉の市が開かれる。

由緒[編集]

創建は和銅元年(708年)。

崇神天皇18年(紀元前80年)、豊城入彦命が崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、「皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや」と常陸国風土記に記された普都大神の事蹟を偲ばれた。この御言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという[2]。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、阿彌神社と称した。豊城入彦命の後裔一族に大網公があり、その氏神かという推測がある[3]

別伝として、「式内社調査報告」には、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したという伝承がある[4]。曰く、持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖に光が出るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残し、波底に沈んだ。すると雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった。

ただし、この二つの伝承にも関わらず、近世の祭神は武甕槌命だった。明暦3年(1657年)の棟札写では本地十一面観音(武甕槌命の本地)、享保明和年間(1716-1771年)の資料では鹿島明神で、文献上、阿彌神社を称し始めたのは天明元年(1781年)以降という[5]

式内社論争[編集]

阿見町には旧阿見村の阿彌神社(中郷)と、旧竹来村の阿彌神社(竹来)があり、式内阿彌神社の論社となっている。近世、村内の熊野権現と合わせて、三社で激しく式内社を争い、文政12年(1829年)に寺社奉行の勅許を仰ぐに至った[5]。明治以後も論争は諸説紛々で、社格的に上である竹来が有力視されているが、大日本地名辞典、郡郷考、式社考等は中郷を比定社としている。

祭神[編集]

境内にある稲荷神社
主祭神
豊城入彦命
配祀神
応神天皇天鈿女命熊野神魯岐櫛御気命倉稲魂命速玉之男命経津主神高皇産霊神菊理姫命迦具土命伊邪那美命事解男命天照大御神武甕槌命[3]
  • 配祀神13柱は神社整理による合祀神[3]
    • 明治40年(1907年)、阿見の熊野神社、香取神社、天照大神、皇産霊神社合祀。
    • 明治41年3月(1908年)、大室の鹿島神社、愛宕神社、八坂神社、八幡神社、熊野神社、及び烏山の鹿島神社、鈴神社、八幡神社、稲荷神社合併。
    • 明治41年4月(1908年)、廻戸の十握神社合併。
  • 境内社には青麻神社、道祖神社、八幡神社二座、稲荷神社、日枝神社、諏訪神社がある。

旧霞ヶ浦神社[編集]

参道の西側にあるトタン葺神明造の社殿は、旧霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内にあった旧霞ヶ浦神社である。かつては海軍航空隊創設以来の航空殉職者を祀っていた[6]。終戦までに霊名録は16巻、合祀された戦没者は5,537柱であった。

創祀は大正14年(1925年)、山本五十六海軍航空隊副長兼教頭(当時)の発案によるもの。隊員の協賛、寄付、奉仕を得て社殿等を造立、翌年4月に竣工。占領軍により強制廃絶となったが、社殿は阿彌神社境内に移され、霊名録は民家に秘匿された。鳥居や玉垣は廃棄、拝殿は未竣工だった。ちなみに土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校)にも同旨の土浦航空隊神社があり、社殿と大鳥居が有志により民家やつくば市小白硲の鹿島神社に移築され現存している[7]

隊員の尽力により建立された霞ヶ浦神社ではあったが、主権回復までに社殿の損傷が著しくなったという経緯もあり、維持管理等の問題が重視され、再建されることはなかった。昭和30年12月、旧海軍関係者は旧海軍航空殉難者慰霊塔を建立し、その基部に霊名録を収めた。しかしその後、慰霊塔も廃絶となり[8]、昭和47年5月(1972年)、霊名録は霞ヶ浦沿岸から離れ、東郷神社境内霊社海の宮[9]に移された。

このため、現在の阿彌神社境内にある旧霞ヶ浦神社は、社殿が保存されてはいるが廃絶している。由緒書きにも境内社として記載はない。

周辺の神社[編集]

鹿島神社
茨城県稲敷郡阿見町青宿882番地(旧信太郡青宿村)
祭神・建御雷之男命
  • 創建不詳。旧無格社。6世紀頃築造の青宿古墳群がある。
  • 戦争遺構としての側面も持つ神社で、社地の島状台地は、旧土浦海軍航空隊の最寄りの高台であったため、戦時中は防空壕が掘られていた。しかし昭和20年6月10日(1945年)の空襲で防空壕の入口が爆撃され、避難中の航空隊員や教官が生き埋めとなり、戦死者281名、重軽傷者119名という多大な犠牲が出た。青宿集落でも住民6名が犠牲となった。現在、境内に阿見町名所百選の解説板と「第二次世界大戦被爆跡記念之碑」が建立されている[5]

脚注[編集]

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  1. ^ 以前の住所は、茨城県稲敷郡阿見町阿見2353番地。
  2. ^ 境内案内板、明治神社誌料、茨城県神社庁稲敷支部等。
  3. ^ a b c 明治神社誌料。
  4. ^ 以下の概略は「神のやしろを想う」による。
  5. ^ a b c 身近な名所事典。
  6. ^ 以下の概略は「大日本帝國陸海軍資料館」による。
  7. ^ 常陽リビング:茨城歴史散歩。
  8. ^ 阿見町立中郷保育所付近に現存している。
  9. ^ 東郷神社御祭神関連施設。2013年11月5日閲覧。経緯に関する説明はない。

参考文献[編集]

中山信名, 栗田寛編「新編常陸国誌 巻下」。積善館。明治32-34年(1899-1901年)
吉田東伍「大日本地名辞典 下巻 二版」。冨山房。明治40年10月17日(1907年)。
明治神社誌料編纂所編「明治神社誌料 府県郷社(上)」。明治神社誌料編纂所。明治45年(1912年)
いはらき新聞「茨城県神社写真帳」。いはらき新聞社。昭和16年(1942年)。