閻若キョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「閻若璩」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

閻 若璩(えん じゃくきょ、1636年11月1日(崇禎9年10月14日) - 1704年7月9日(康熙43年6月8日))は、中国代初期の考証学者。字は百詩、号は潜邱。諱の若璩と字の百詩は、三国時代応璩が百一詩を作ったことにちなむ。

略伝[編集]

祖先は太原の人だが五代目の祖先から淮安に住み始めたという。祖父の世科は万暦年間の進士で参議となり、若璩を非常にかわいがり「一代の文人となり、我が家をおおいにせよ」と励ました。6歳から書を読んだが理解力が弱く病気がちであったところ、母が暗記を命じ声を出して読むことをやめさせ、10年たった15歳の冬、厳寒の中で我慢して読書していると、突然滞りなく理解できるようになったという。この年に学官に列せられ、弟子(ていし)となり経史を研究した。1662年(康熙元年)に北京に出て龔鼎孳と相知り有名になる。1678年(康熙17年)にふたたび上京し、博学鴻詞科を受験したが落第。後に北京にとどまり諸学者と交流した。この間、顧炎武の『日知録』を改訂したり、汪琬の『五服攷異』の誤謬を正した。また徐乾学が詔により『大清一統志』を編修したときに、胡渭らとともに従事した。

1703年12月(康熙42年11月)、皇四子胤禛(のちの清世宗)の招聘を応し、1704年3月(康熙43年2月)上京。同年7月(康熙43年6月)北京にて逝去、享年69。

学問[編集]

尚書古文疏証』は、古文25編が偽作であることを立証するために30余年を費やしたという、畢生の著作である。もう一つの主著として『四書釈地』があり、これは四書にある地理に関する考証などである。また『孟子生卒年月考』『潜邱剳記』があり、後者は『日知録』と並び称せられる。朱熹を尊重する学者ではあるが、漢儒の方法によって書を読むことを主張し、顧炎武・黄宗羲の博識を模範とした。構想や規模では顧・黄に及ばないが、博学で細密な点に特長があり、清朝考証学の始祖の一人とされている。

参考文献[編集]