関口存男

From Wikipedia
Jump to navigation Jump to search
せきぐち つぎお
関口 存男
関口存男.jpg
生誕 1894年11月21日
兵庫県姫路市
死没 1958年7月25日(64歳没)
東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 上智大学
著名な実績 ドイツ語教授法の革新、意味形態論の研究

関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本ドイツ語学者である。通称ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた[1]。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。

経歴[2][edit]

兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓は陸軍主計大尉大阪陸軍地方幼年学校を経て1913年陸軍中央幼年学校本科を卒業し、士官候補生として千葉県佐倉市歩兵第57連隊に勤務。1915年東京陸軍士官学校を卒業(第27期)。同年12月、陸軍歩兵少尉となるも肋膜炎を患い休務を続ける。

1916年、陸軍を休職して上智大学に入学。1917年、上智大学に籍を置きつつアテネ・フランセに入学。そのわずか1年後の1918年2月、アテネ・フランセ初等科の仏語教授となる。1918年10月、アテネ・フランセ初等科のラテン語教授となる。1918年11月、予備役となる。

1919年、上智大学哲学科を卒業し、外務省翻訳課に勤務。1922年法政大学予科講師となる。1933年、法政大学文学部教授。同年、いわゆる法政騒動で同僚の内田百たちを法政大学から追放。1938年から1941年にかけて現在のNHKの前身である社団法人日本放送協会のラジオ放送でドイツ語講座を担当。1942年、法政大学に在職のまま慶應義塾外国語学校講師となる。1943年、法政大学教授辞職。1944年、法政大学予科教授を辞職し、外務省外国語学校教官となる。1946年公職追放により慶應義塾外国語学校辞職。1950年、高田外国語学校講師となる。1951年、慶應義塾外国語学校に復職。1952年早稲田大学文学部・文学研究科慶應義塾大学文学部の講師となる。1955年からNHKドイツ語初等講座担当(死去まで)。1956年、慶應義塾大学文学部講師辞任。1958年、脳溢血により死去。享年64。

学者としての顔[edit]

留学経験皆無ながら高度なドイツ語能力を身につけ、発音[注 1]も極めて流暢だったと伝えられる[4]

法政大学で同僚だった田中美知太郎京都大学名誉教授)の回想によれば、ナチを逃れて仙台に亡命していたカール・レーヴィットが関口の書いたらしい公式質問書を読み、関口のドイツ語があまりに日本人離れしていたため、ナチス党員の誰かが書いたものではないかと疑い、大変気味悪がったという[4]。ドイツ文学者の小塩節中央大学名誉教授)も、レーヴィットが、関口をして「ドイツ人よりドイツ語が出来る」と評していたと本人から聞いた旨を述懐している[5]

また、元裁判官でローゼンベルクの『証明責任論』の翻訳も手掛けた倉田卓次によれば、東京大学名誉教授であった菊池栄一旧制一高でドイツ語を教えていた際に、関口存男の著作を教科書(『新独逸語文法教程』)に指定し、関口自身を「日本で一番ドイツ語のできる人だと思います」と評していたと伝えられている[6]。倉田自身も関口の『冠詞』を高く評価しており、同書の一部を要約紹介した上で、「日本語に、興味を持つ向きには『ドイツ文法書と敬遠せず、一度図書館で手に取って、私の要約した部分だけでも原文で読んでご覧』と勧めたい」と締めくくっている[7]

ドイツ語との出会い[edit]

関口は、大阪地方幼年学校に在籍していた14,5歳の頃、ドストエフスキーの『罪と罰』の独訳版(Schuld und Sühne)を購入し、読破したことがドイツ語に取り組んだ「最初の苦心」であった。定冠詞を習い、ようやく辞書が引けるくらいのころであったので、最初の一行からして全然意味が取れなかったが、それでも丹念に数百頁を読んでいったと述懐している[8]。。

とにかく「わかろう、わかろう」と思つて、片つぱしから辭書を引いて、辭書に書いてあつた意味を何でもかでもその語の妙な響きに結びつけて、そうして一行か二行を穴の開くほど睨みつけて、十ぺんも二十ぺんも三十ぺんも讀みなおして、そして、ああじやないか、こうじやないかと、とにかく十四歳の少年の知慧が及ぶ最後の限界まで考えつめたのです。 — 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」[9]

関口は、文章を発音してペラペラと読むということを何度繰り返しながら(関口はこれをペラペラ式メトーデと呼んでいる)、2年ほどかけて『罪と罰』を数百頁読んだころ話の筋が分かりだし、2/3を読み終えたころには、「近眼に氣がつかずにいた人が急に度の合つた眼鏡をかけた」かのように文の意味がよく分かるようになり、「おれにはドイツが読める」という最初の自身を得たという[10]。関口はこの方法でフランス語も習得し、アテネ・フランセの教師にまでなっている[11]

ドイツ語だけでなく、様々な言語に通じており、フランス語の翻訳やラテン語の文法に関する著作も残している。田中美知太郎によれば、関口が、あるときデモステネスの文章中の条件文について質問してきたが、それは素人の質問ではなかったという[4]

業績[edit]

接続法[edit]

接続法の二つの形態の名称について、それまで形成元の語形から「接続法現在」「接続法過去」とそれぞれ称していたのを批判し、「接続法第1式」(=従来の「接続法現在」)「接続法第2式」(=同「接続法過去」)という名称を創始した。この用語はドイツに逆輸入されるほど広まったと言われる[12][注 2]

また、接続法の教授方法として、接続法第1式はどんな場合に使われて、接続法第2式にはどういう用法があるのかという形式文法における整理[注 3]を疑問視し、意味から出発して形を問題にする整理法を提唱した[16]。つまり、要求話法、間接話法、約束話法(現在では非現実話法と呼ばれる)という意味・用法から出発して形式を研究するという整理法である。この整理法は現在のほとんどのドイツ語の基本書・参考書・教科書で用いられている。

関口存男による接続法の整理
意味と用法 使用の形式
要求話法 第一式
間接話法 第一式と第二式
約束話法 第二式

意味形態[edit]

関口は「意味形態」という独自の概念を創出し、この視点でまとめられた関口の文法理論は「関口文法」と呼ばれる[17]。 関口がこの意味形態の語を最初に用いたのは、『獨逸語第講座』4巻(関口存男著作集[POD版] ドイツ語学篇6独逸語大講座(3)(4)(三修社、2000年)所収)353頁であると言われる[18]

Ich war kaum draußen, als es zu donnern und zu blitzen anfing.

という独文を「雷鳴し稲光がし始めた時には私は辛うじて戸外に在つた」ではなく、「戸外に出るや否や雷が鳴り稲光がし始めた」と訳すべきだとしている。形式上は主文章である「Ich war kaum draußen」の方が、むしろ「副文章であるかの如き感を與へる」のだという。

人間の頭といふものは、一つの文章形態を用ひる時に、必ずしもその形態通りには考へない事があつて、さ云ふ場合には、時と共に、「形態意識」と「意味意識」との間に或種の喰ひ違ひが生じて來て、おしまひには形態の一部が意味の影響の下にに或種の變化を起すことがあるのです。さうして出來上つた形は、形式の方からのみ考へると、形式の一貫を缺いてゐて一見トンチンカンなやうですが、其處には「語の形態、文の形態」とは混同を許さない「意味の形態」といふものが其の至當なる権利を要求してゐる見る可きではないでせうか。 — 関口存男責任監修『獨逸語第講座』[19]

関口は後年、『冠詞』において、意味形態を3分類にわけ、ここに挙げたような例を、第1意味形態[機構範疇]と呼んでいる[20]

しかし、関口が意味形態として「最も普通に用いる」としているのは、第2意味形態[思想形態]である。

①Deine Krankheit kommt von Müßiggang, jetzt mußt du dich doch endlich einmal gesund arbeiten.

 おまへの病氣はずらから來てゐるんだから、もう好い加減に仕事でもして丈夫になつてはどうかね。

②Ich habe die Nacht durchgawacht und mir die Finger wund und die Augen rot geschrieben.

 私は徹夜して書いたので、指が痛くなつて、眼も眞赤に充血してしまつた。

③Schon bald eine habe Stunde sitze ich mir hier die Beine stumpf und steif und der Hausherr läßt noch immer auf sich warten.

 もうかれこれ半時間も此處に斯うして坐らされて脚がしびれてしまったが、御主人はまだ今だにお出ましがない。
関口存男『独作文教程』[21]

上記の文では、arbeitenは働く、schreibenは書く、sitzenは座っている、という「意味」を持っているが、これらに共通するものとして本来の意味のほかにmachenの機能を発揮している[22]。関口は、「云々した結果、或物が云々となる、と云ふ因果關係を含めた《或物をどうする斯うする》といふ構造」(関口はこのようものを「語局」と呼んでいる)においては、どの動詞であっても、machen型の「意味形態」をとりうる、と述べている[23]

関口は、こうした思想形態としての意味形態は、接続法の用法、冠詞の用法でも重要であり、特に、冠詞には意味はなく意味形態しかない、と主張している[24]。また、『意味形態を中心とするドイツ語前置詞の研究』では、この意味形態の観点から、前置詞を考察している。

第3意味形態[構造]は、innere Sparache、意像、語像とも呼ばれるが、関口は「あまり重要視しない」と言い、「たかだか逐語訳の場合や、語句・文章の分解説明の時や、語源学などで問題となってくるにすぎない意味形態である」という[25]

Faust:

Ja, was man so erkennen heißt!

Wer darf das Kind beim rechten Namen nennen!

Faust:何かというと認識が、どうのこうと云うけれど、いわゆる本地の風光は、曰く一言不可説じゃ。
関口存男『冠詞 第一巻:定冠詞篇』[26]

ここで、事柄を表すのに、人間か生物を想起させるようなdas Kindという比喩が用いられている理由を、関口は、nennenという動詞が持つ意味形態、つまり第3意味形態にあると説明する。

nennenは、初めて顔を見た子をつかまえて,,何とかちゃん!”と名を呼ぶことだと思ってもよし、(中略)…名をつけるのは、なにも子供に限ったことではないが、譬喩というものは凡て具体的な対象を必要とするものであるから、いちばん手っ取り早い、nennenといえば誰もがさしずめ直ぐ考えそうなKindという概念を喩称代名詞として持って来ただけの話である。 — 関口存男『冠詞 第一巻:定冠詞篇[27]

このように、関口の言う「意味形態」は、多様な考え方・概念を含むものであり、定義が厳密ではない、との批判もある[28]。しかし、関口自身は、意味形態を「理論」ではなく「語感」と捉えていたようである。

意味形態(即ち語感のタイプ)は理窟の対象ではなく、眼で物を視るように"語感で視る“ものであるから、定義は不可能で。ただ形容を許すにすぎない… — 関口存男『冠詞 第一巻:定冠詞篇』[29]

実際、関口が自身の文法理論のエッセンスをすべてつぎ込んだとされる遺作『冠詞』[注 4]は語感の分析であると述べている[31][注 5]。関口がよく用いている「形容」としては、意味形態とは、ある言葉を用いる際に「不知不識の間に基礎に置く考え方」とか、意味の輪郭であり「色々な意味を盛るための器」であるといったものが挙げられる[33]

チュービンゲン大学教授であった江沢健之助は、関口文法をして、ある思考内容をその言語で構成し表現するための形式的手段を体系的に示す「総合文法」[注 6]だと評価している[35]

関口が研究のために蒐集していた膨大な「文例集」(A4で24502頁)が残されているが[注 7]、そこでは、ドイツや日本語はもとより、中高ドイツ語、古高ドイツ語フランス語英語米語ギリシャ語ラテン語スペイン語オランダ語イタリア語ロシア語ゴート語サンスクリット語エスペラント語、漢文読みの中国語の文例が、文学作品、大衆小説、新聞、雑誌から蒐集されている[37]

チュービンゲン大学名誉教授であるコセリウが、1983年に来日した際に、関口のこの文例集に強い興味を示し、関口が国際的に評価されるきっかけとなった[38]

関口存男の著作物のデジタル文献が慶應義塾大学三田キャンパス図書館に収蔵されており、孫で同じくドイツ語学者であった関口一郎の長女が知的財産管理および確認を行っている。

評価[edit]

日本のドイツ語学におけるドイツ語学者としての関口の評価は必ずしも高くないようである[注 8]。 他方で、関口の死後も、関口の弟子筋や関係者らによって関口文法は受け継がれ、現在でも関口文法を研究する者がいる。 1990年9月1日には関口の業績をテーマにした「関口シンポジウム」(主催:江沢健之助、佐藤清昭諏訪功)が慶應義塾第大学で開かれ、65名(うち外国人研究者25名)が参加し、コセリウ[注 9]らによって、関口文法を現代の文法理論、機械翻訳などとの関係でいかに評価するべきかをめぐる研究発表がなされた[42]。1995年5月にベルリンで開催された「東西コロキウム」の成果がまとめられたEugenio Coseriu, Kennosuke Ezawa, Wilfried Kürschner(Hrsg. 1996) Sprachwissenschaftsgeschichte und Sprachforschung(言語学史と言語研究)において、関口文法は、フンボルトガーベレンツの言語研究に通じるものだと評価されており、1996年6月15日にはチュービンゲンで「第一回関口ワークショップ」が開かれている[43]。2007年3月22日、23日には「関口文法と現代言語学」というテーマで浜松医科大学でシンポジウムが開催されている。さらに、2010年にワルシャワで開かれたドイツ語学文学国際学会(IVG)では関口文法に関する分科会が開催され、日独の研究者が参加した[44]。2012年5月19日には、日本独文学会2012年度春季研究発表会のシンポジウム「関口文法の射程―主張『冠詞』のダイジェスト版をてがかりにして」が開かれている[45]

1994年には、江沢健之助によって、関口の著書『ドイツ語前置詞の研究』がドイツ語に翻訳され[注 10]、2008年には同じく江沢らによって『独作文教程』がドイツ語訳され、それぞれドイツで出版されている。また、『接続法の詳細』の独訳の企画も進められているという[47]

鈴木一策は、関口の冠詞論から示唆を得て、日本の助詞にも意味形態しかない、と言っている[48]

齋尾鴻一郎は、関口の「意味形態」と時枝誠記の「意味」に類似性を見出し、意味形態論の考察をしている[49]

教育者としての顔[edit]

関口はドイツ語の研究の傍ら、教育者としても精力的に活動を行っていた。 特に初学者向けの教育に力を入れており、初学者向けの教材をいくつか出版し(『初等ドイツ語講座』『やさしいドイツ語』『入門科学者のドイツ語』)、NHKのラジオでのドイツ語講座は最期まで続けていた。

弟子の中村英雄によれば、「関口にとって、白墨の粉にまみれ、冬でも禿頭に湯気をたてながら若い学生にとくに初級文法を講義することは活力の源泉であり、関口はそれを非常に大切にしていた」という[50]

また、『新独逸語文法教程』は、関口独自の体系で難しいドイツ語を解釈するための知識が詳細に書かれたものだが、昭和7年に出版されると「ドイツ語界にセンセーショナルを惹起」し[51]、以後、半世紀ちかくにわたりドイツ語教科書のベストセラーとなった[52]。実際、上述の菊池栄一小塩節[5]もこのテキストを用いていた。

『初等ドイツ語講座』と『新ドイツ語大講座』の「基礎入門編」は孫の関口一郎によって改定され、現代でも書店で流通している。

演劇人としての顔[edit]

語学者、教育者としての顔のほかに、演劇活動も行っていた[注 11]

1917年2月17日、村田実や青山杉作らと新劇の劇団「踏路社」(1917年 - 1920年)を結成、同社の舞台を踏んでいる。

1919年映画理論家帰山教正が設立した「映画芸術協会」に村田や青山らとともに参加した。青山の初監督作『いくら強情でも』や帰山監督の『悲劇になる迄』にメインキャストとして出演し、松竹キネマの配給でそれぞれ、1920年12月24日1921年5月13日に公開されている。いずれもサイレント映画である。同協会は従来の「女形」を排し、日本で初めて「女優」という概念を導入したことで知られている。

1930年に旗揚げした「劇団新東京」の東京劇場(同年3月オープン)での第一回公演(同年6月27日 - 30日上演)のために、カロン・ド・ボーマルシェの『フィガロの結婚』を関口が脚色し、青山が演出した。

曾孫の関口純は、楽劇座芸術監督 [54]。作曲家・演出家・演劇教育者。

著書・翻訳書[edit]

  • 『関口存男著作集 -ドイツ語学篇全13巻-』 三修社 1994年
  • 『関口存男著作集 -別巻ドイツ語論集-』 三修社 1994年
  • 『関口存男著作集 -翻訳・創作篇全10巻-』 三修社 1994年
  • 『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究- 全3巻』 三修社 1960/61/62年
  • 『セレクション関口存男 和文独訳漫談集』 三修社 2019年
  • 『セレクション関口存男 ニイチエと語る』 三修社 2019年
  • 『人間嫌ひ』(モリエール) 岩波文庫 1928年
  • 『阿呆物語』(グリンメルスハオゼン) 東西出版社 1949年

フィルモグラフィ[edit]

出演

脚注[edit]

[ヘルプ]
注釈
  1. ^ 近くに住んでいたオーストリア人(親称で会話する関係)や在京のドイツ人5,60人と会話した際に彼らの発音をまねしたり、同じ映画を3日も4日も見続けたりして会話力や発音を学習していたという[3]
  2. ^ もっとも、東京大学名誉教授であった常木実によれば、接続法を数字で表すようになったのは歴史的には関口存男が初めてではない。つまり、関口存男が第一式接続法、第二式接続法を用いた最初の文献は『(準備本位)独逸語文法』(尚文堂、1928年)であるが、それよりも早くアメリカのゲルマにストProkoschがProkosch and Morgan, An Introduction to German, 1923において、「first subjunctive」「second subjunctive」という表現を用いていた。また常木によれば、ドイツで初めにKonjunktivⅠ, Ⅱの名称を用いたはフランス人のFourquet(Grammarie de l'allemand, 1956)だとされるが、関口の著作を参考にしたかは不明である[13]
  3. ^ たとえば、片山正雄『詳解独逸文典』では、接続法は、「A)現在形の接続法 1)主文章に於て a)願望 b)認容 2)副文章に於て a)願望 b)認容 c)目的 d)引用、過去形の接続法 1)主文章に於て a)願望 b)謙遜なる主張 c)或然、蓋然、可能 d)疑惑 e)仮定的条件の推定的結果 f)仮定的認容の推定的結果 2)副文章に於て a)似而非事実 b)否定的結果 c)仮定的条件 d)仮定的認容」という形で整理されていた[14]。また、接続法の方法を主文章と副文章の場合に分けて、形式から説明する方法は相良守峯の著書でも見られる[15]
  4. ^ 藤田栄によれば、関口は、20以上ものテーマで意味形態を論じる予定であったというが、健康上の問題などから、この冠詞に意味形態の中核的要素をことごとくつぎ込んだという[30]
  5. ^ 「語感という感性的なものを翻訳する論理のわくぐみとしての認識論について曖昧な点が感じられる」との批判もある[32]
  6. ^ 「総合(Sythetisch)」というのは、ガーベレンツがはじめて取り入れた文法概念だとされる[34]
  7. ^ 関口が30歳くらいの頃からノートにまとめだしたもので、「混沌たる鬱蒼たる、ジャングルのごとき」もので「私以外の人には恐らく利用のできない一種異様なノート」だという[36]
  8. ^ 中村英雄によれば、ある日本のゲルマにストが書いたドイツ語史の中で、高名な学者の仕事が高い評価を受けている一方で、「関口存男には終りのほうにほんの二、三行が振りあてられ、その仕事は主として啓蒙的方面における実用語学であるとして片付けられていた。」と述べている[39]。また、池内紀によれば、「『語学の天才』には少なからず反語的なひびきがあった。専門のドイツ語だけではなく、さまざまなことばに通じている語学的ナンデモ屋。『ドイツ語の鬼才』もまたそうだった。伝統あるドイツ語学界の横紙破りといったニュアンスをおびていた」という[40]
  9. ^ コセリウは、関口の意味形態論に不鮮明なところがあったり、これに対する関口の立場がところどころ矛盾しているとしつつも、関口の直感的アプローチをできるだけ客観化し、実際に使える方法論を展開させるという試み、または比較言語や言語外の基準の分析によって、分析と説明のための「枠組みモデル」を作る試みが必要だろう、という[41]
  10. ^ 関口は意味形態をドイツ語で「Sinngebilde」と考えていたようだが[46]、本書では「Bedeutungsform」と訳されている。
  11. ^ 関口は、30歳前後に演劇では食べていけないことを悟り、ドイツ語で食べていく決心をしたという[53]
出典
  1. ^ 荒木茂雄・真鍋良一・藤田栄編『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)表紙
  2. ^ 荒木茂雄・真鍋良一・藤田栄編『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)503-507頁
  3. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)73頁
  4. ^ a b c 田中美知太郎『田中道太郎全集第13巻 時代と私[増補版]』(筑摩書房、1987年)218頁
  5. ^ a b 産経新聞2001年8月6日夕刊4頁
  6. ^ 倉田卓次「冠詞[三修社、全三巻]-関口存男著-」『続々裁判官の書斎』(勁草書房、1992年[初出は1991年])63頁
  7. ^ 倉田卓次「冠詞[三修社、全三巻]-関口存男著-」『続々裁判官の書斎』(勁草書房、1992年[初出は1991年])73頁
  8. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)45-59頁
  9. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)53-54頁
  10. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)55-63頁
  11. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)70頁
  12. ^ 産経新聞1994年5月8日朝刊13頁
  13. ^ 常木実『接続法-その理論と応用』(郁文堂、1960年)122頁以下
  14. ^ 片山正雄『改新独逸文法辞典』(有朋堂、1948年)所収
  15. ^ 相良守峯『ドイツ文法[岩波全書135](岩波書店、1951年)
  16. ^ 関口存男『関口存男著作集[POD版]ドイツ語学篇1-ドイツ文法接続法の詳細-』19-33頁(三修社、2000年)
  17. ^ 佐藤清昭「関口文法の今日的意義」ドイツ文学79号(1987)年176頁
  18. ^ 有田潤「『意味形態』の成立」『ドイツ語学講座Ⅰ』(南江堂、1985年)86頁参照
  19. ^ 関口存男責任監修『獨逸語第講座』4巻(関口存男著作集[POD版] ドイツ語学篇6独逸語大講座(3)(4)(三修社、2000年)所収)347頁
  20. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)28頁
  21. ^ 関口存男『関口存男著作集[POD版]ドイツ語学篇2-独作文教程』454-455頁
  22. ^ 国松孝二「意味形態論の解説の試み」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)508頁
  23. ^ 関口存男『関口存男著作集[POD版]ドイツ語学篇2-独作文教程』453頁
  24. ^ 関口存男『ドイツ語学講話』330頁
  25. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』798頁
  26. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』313頁
  27. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』313頁
  28. ^ 有田潤「『意味形態』批判」『ドイツ語学講座Ⅱ』(南江堂、1987年)39-65頁
  29. ^ >関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』712頁
  30. ^ 藤田栄「まえがき」関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』
  31. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第一巻:定冠詞篇』(三修社、1960年)』9頁
  32. ^ 塩田勉「関口文法の問題点をめぐる若干の批判」ドイツ語研究1号(1979年)50頁
  33. ^ 関口存男『冠詞- 意味形態的背景より見たるドイツ語冠詞の研究-第三巻:無冠詞篇』(三修社、1962年)』382-383頁
  34. ^ 佐藤清昭「「話(わ)Sprechenの文法」としての関口文法-『冠詞』における記述を中心に-」ドイツ語学研究12号(2013年)5頁
  35. ^ 江沢健之助「関口文法と現代言語学」言語26号(1997年)11頁
  36. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)59-61頁)。
  37. ^ 佐藤清昭「関口存男文例集ー分類の観点と利用の可能性ー」浜松医科大学紀要 一般教育 第12号(1998年)58頁
  38. ^ 菅谷泰行「関口文法の可能性―その国際的評価の動きをめぐって―」関西医科大学教養部紀要17号(1997年)11頁
  39. ^ 中村英雄「関口存男の横顔」『池上草堂襍記』(角川書店、1989年)353頁
  40. ^ 池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社、2010年)201頁
  41. ^ Coseriu, Sprachtheorie und Grammatik bei Sekiguchi:in Deutsche Präpositionen. Studien zu ihrer Bedeutungsform, S.64.)。
  42. ^ 毎日新聞1990年10月8日夕刊8頁
  43. ^ 朝日新聞1996年9月10日夕刊7頁
  44. ^ 細谷行輝山下仁内堀大地(責任編集)『冠詞の思想 関口存男著「冠詞」と意味形態論への招待』(三修社 2016年)13頁
  45. ^ 佐藤清昭「「話(わ)Sprechenの文法」としての関口文法-『冠詞』における記述を中心に-」ドイツ語学研究12号(2013年)3頁
  46. ^ 有田潤「『意味形態』批判」『ドイツ語学講座Ⅱ』(南江堂、1987年)64頁
  47. ^ 山下仁(書評)「Kennosuke Ezawa, Kiyoaki Sato, Harald Weydt(Hg.):Sekiguchi Grammatik und die Linguistik von heute」ドイツ文学142号(2011年)210頁
  48. ^ 鈴木一策「関口存男の冠詞論と大野晋の助詞論」環【歴史・環境・文明】4号(2001年)141頁
  49. ^ 齋尾鴻一郎「意味形態的方法論について」ドイツ文学35号(1965年)117頁
  50. ^ 中村英雄「関口存男の横顔」『池上草堂襍記』(角川書店、1989年)353頁
  51. ^ 荒木茂雄「先生の業績と著書」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)518頁
  52. ^ 池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社、2010年)101頁
  53. ^ 関口存男「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか」『関口存男の生涯と業績』(三修社、1959年)59頁)
  54. ^ 人生に深く関わる「哲学」を作品に潜ませる 注目の劇団・楽劇座へインタビュー”. SPICE. 2017年7月17日閲覧。

関連文献[edit]

関連項目[edit]

外部リンク[edit]