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関口夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関口夫人(せきぐちふじん、生年不詳 - 1562年?)は、戦国時代の女性。関口親永(氏純)の正室で、今川義元の妹(または養妹)とされるが、事実ではないとする否定説もある(後述)。築山殿の母。実名は不詳。

略歴

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一般的には義元の妹として知られるが『井伊年譜』『系図纂要』『井家粗覧』などによると井伊氏今川氏へ人質として送ったところ、義元に惚れられとなり、義元は彼女を養妹とした後に家臣の関口親永に嫁がせたとされる[1]

また、今川義元の姉である瑞渓院北条氏康の正室)の伝記を執筆した黒田基樹は、義元や瑞渓院の兄弟の出生順位を整理した結果、関口氏純(親永)の妻が義元の姉妹であることは考えにくく[注 1]、氏純の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのと混同したものであると結論付けている[2]。更に黒田は別の論文で今川氏の御一家衆である関口氏の系譜を研究し、関口氏純(親永)は関口氏兼の子・刑部少輔(幼名は慶王であったことは知られているが、元服後の実名は不明)の養子として関口氏を継いだ経緯を明らかにし、その養子縁組が婿養子である可能性を指摘している。黒田説が正しければ、関口夫人の父は関口刑部少輔ということになる[3][4]。なお、関口氏兼の妻は瀬名一秀(氏純の父方祖父)・堀越貞基(氏純の母方祖父)と兄弟関係にあったとされているため、この推測が正しければ、氏純と夫人ははとこ同士であったことになる[5]

彼女と思われる女性については、天文11年(1542年)9月以前[注 2]浅間神社に父から譲り受けた土地を寄進した「関口刑部娘」[6][注 3]や天文13年(1544年)8月に存在が確認される「関口御新造」が該当するとみられる[7]

永禄5年(1562年)、駿府の屋敷にて切腹を命じられた夫と共に自害した[8]。ただし、親永(氏純)が永禄9年(1566年)までは健在であったことを示す史料も存在していることから切腹は事実ではないと考えられるようになっており[4]、彼女も健在であった可能性が高い。

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 黒田の研究によれば、同時代の史料や江戸時代初期までの今川氏の系譜から実在が確認できる今川氏親の娘(義元の姉妹)は4名で、それぞれ吉良義堯中御門宣綱・北条氏康・瀬名氏俊に嫁いでいる[2]
  2. ^ 天文11年9月に今川義元から浅間神社に安堵の判物が出されているため。
  3. ^ 『戦国人名辞典』は関口氏純の娘である築山殿に比定するが、天文11年は彼女の夫・徳川家康の生年であり、同年もしくは数歳上と言われる築山殿が土地の譲渡・寄進を受けるとは考えにくく、結論を留保している。

出典

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  1. ^ 小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』洋泉社〈歴史新書y〉、2016年9月3日、78-80頁。ISBN 978-4-8003-1038-5 
  2. ^ a b 黒田 2017, pp. 40–63.
  3. ^ 「今川氏親の新研究」『今川氏親』黒田基樹 編著、戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第26巻〉、2019年3月30日、27-31頁。ISBN 978-4-86403-318-3 
  4. ^ a b 黒田 2023, pp. 38–40.
  5. ^ 黒田 2022, pp. 27–30.
  6. ^ 長谷川弘道「関口刑部娘」『戦国人名辞典』(吉川弘文館 2006年) ISBN 978-4-642-01348-2 P563.
  7. ^ 黒田 2022, p. 30.
  8. ^ 佐名と関口親永(築山殿の両親) 井伊直平の娘・佐名はなぜ井伊家を恨んだか?”. BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) (2019年12月3日). 2022年9月8日閲覧。

参考文献

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  • 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚からみる戦国大名』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月18日。ISBN 978-4-582-47736-8 
  • 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社〈平凡社新書 1014〉、2022年10月16日。ISBN 978-4-5828-6014-6 
  • 「総論 今川氏真の研究」『今川氏真』黒田基樹 編著、戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第35巻〉、2023年9月25日、38-40頁。ISBN 978-4-86403-485-2 

外部リンク

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