関ヶ原本戦の配置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
関ヶ原本戦広域配置図。『朝野旧聞裒藁』記述内容より推定。
関ヶ原本戦(関ヶ原方面)配置図。『朝野旧聞裒藁』記述内容より推定

関ヶ原本戦の配置(せきがはらほんせんのはいち)では9月15日1600年10月21日)に行われた関ヶ原の戦い本戦の部隊配置と交戦相手を示す。

  • 出典について
関ヶ原の戦いの項では明治時代旧陸軍参謀本部が作成した『日本戦史 関原役』を基にしているが、本項では江戸時代幕府の命により林述斎らが作成した徳川家康に関する史料集『朝野旧聞裒藁』を基にする。そのため、いくつかの点で差異が生じている場合がある。
また記載内容は基本的に綱文を参考にしているが、中には本文史料を参考にした箇所もある。別途、脚注で表示する。

配置[編集]

関ヶ原方面[編集]

  • 地図
関ヶ原北部関ヶ原南部[1]

東軍[編集]

  • 関ヶ原本道南…後方に関明神(南二不破関址)の森、山中村への街道を断ち切る形[2]
福島正則平野長重大野治長は正則に属す)・正之
  • 正則備左手
藤堂高虎高吉京極高知落合新八は高知に属す)、蜂須賀豊雄
松平忠吉井伊直政菅沼次郎右衛門松倉重政関一政坪内利定家定定吉正定安定の士等は直政に属する)、寺沢広高[2]
  • 北の山手沿い
田中吉政吉次生駒一正加藤嘉明堀田一継細川忠興忠隆興元金森法印黒田長政伊丹正親赤井忠家は長政に属する)、竹中重門筒井定次
  • 忠吉備東方(寄合衆)
織田有楽長孝津田高勝石川貞政佐々行政前田五左衛門古田重然猪子一時船越景直佐久間安政勝之亀井茲矩加藤光通戸川達安宇喜多直盛岡田善同野々村三十郎川村助左衛門村越三光小坂雄長生駒利豊兼松正吉安孫子善十郎稲熊市左衛門澤井左衛門尉森勘解由林大学
その他、三好一任可正房一長通宗可政池田重成光重佐久間定頼正房長谷川重成柘植正俊多羅尾光利野門乙長

西軍[編集]

石田三成…先手(島左近蒲生頼郷)は小関村西南の小池村に前進
  • 北の山手沿い…三成先手に続く
織田信高長次伊藤長実[3]中島種長滝川忠継服部土佐守寺田播磨守岸田伯耆守高田薩摩守[3]秋田助右衛門矢部豊後守三渕大和守[3]及び大坂弓鉄砲衆等
  • 三成陣南東
島津義弘豊久(先手)…梨木川東岸[2]
小西行長…島津陣南西、梨木川西岸と北天満山の間[2]
  • 南天満山麓
宇喜多秀家赤松則房糟屋武則は秀家に属する)
河尻直次石川貞清布施屋飛騨守森豊前守太田飛騨守池田一氏等…秀家陣右手[2]
  • 本道山中村
大谷吉隆…先手吉勝木下頼継藤川手前、藤下村に前進[2]
吉隆先手に続き平塚為広左馬助庄兵衛戸田重政内記
  • 松尾山麓…藤下村南[2]
脇坂安治安元小川祐忠祐滋朽木元綱赤座直保
  • 松尾山
小早川秀秋

桃配山[編集]

徳川家康本隊[4]

村串与三左衛門酒井重勝(兼使番
荻原昌友窪田忠知等八人
松平重勝松平康安水野重央
石川忠総
成瀬正成(兼使番)、伊奈令成
安藤直次加藤正次高山盛聡(与力十騎、同心百人、二百人扶持)、水野清久嶋田直時(五十人頭)、柘植彦広(二十人頭)、蜂屋定頼依田信次
  • 玉薬奉行
榊原直貞
八田森右衛門
  • 遣奉行
河野盛利
渡辺守綱
近藤季用
間宮信盛元重
米津親勝(兼軍奉行)、小栗忠政(兼軍奉行)、牧長勝山本重成横田尹松初鹿昌久犬塚忠次服部政信阿部八右衛門城昌成小笠原次右衛門鈴木信光山上久忠島田重次西尾利氏保坂金右衛門真田信昌間宮伊治中沢吉政小栗久次戸田直頼土屋昌吉石野義利奥山冶右衛門山城忠久米倉信継牧原正次
  • 馬前
本多正純(床机代わり、神谷清次従う)[12] 
西郷忠員(仮の武者奉行)
  • 腰物番
久留正次
  • 膳番
加藤正重近藤正成
  • 旗本備
松平忠良永井白元大島光義丹羽氏次(前備)、渡辺重綱加藤成之曲渕正吉水野忠清永井直勝(右備)・尚政伴重盛内藤信正(近習)、由良貞繁(直勝組下)、松平忠明松平勝政松平正久正次本多康俊戸田氏鉄鳥居成次山口直友西尾吉次(左備)、北条氏盛(吉次組下)等
本多正重…諸軍指揮する
  • 後備  
奥平信昌大須賀忠政本多成重戸田尊次忠能遠藤慶隆金森可重
久世広宣坂部広勝…後列指揮する

南宮山・赤坂方面[編集]

  • 地図
垂井長松赤坂曽根金谷河原本田[1]
南宮山栗原山・岡ヶ鼻(象鼻山)大垣[1]

東軍[編集]

池田輝政利隆長吉(長吉は多芸郡小名に陣)、浅野幸長及び駿三国の士
徳永寿昌昌重市橋長勝横井時泰時朝時久
  • 牧田口十九女池…南宮山西、関ヶ原近くの池
本多忠勝忠朝桑山一直はこれに属す)
  • 大垣城寄手
水野勝成戸田康長西尾光教津軽為信大藪新八郎小倉正次等…曽根城
中村一氏陣代中村一栄及び一氏家臣志村資良…赤坂陣
  • 後詰
山内一豊堀尾忠氏有馬豊氏佐々長成は豊氏に属す)、松下重綱等…赤坂
一柳直盛長松塁
加藤貞泰本巣郡本田

西軍[編集]

  • 南宮山、栗原山
毛利秀元(先手吉川広家)…南宮山陣
安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親及び大坂弓鉄砲衆…栗原山から岡ヶ鼻に陣[2]
垣見一直福原直高木村宗左衛門高橋元種秋月種長相良長毎

交戦相手[編集]

関ヶ原の戦いは基本的に西軍へ東軍が攻めかかる構図となっている。そのため、転戦が多い東軍ではなく、固定された西軍を基準として記述する。 なお、小早川秀秋が内応する刻を基準としてその前後に分け、参戦順を記す。

南天満山麓方面[編集]

西軍

宇喜多秀家、河尻直次、石川貞清、布施屋飛騨守、森豊前守、太田飛騨守、池田一氏等

東軍

  • 午刻前
  1. 福島正則
  2. 井伊直政先手(木俣守勝鈴木重好)、直政付属衆
  • 午刻後
  1. 本多忠勝、脇坂安治父子、小川祐忠父子、寺沢広高、戸川達安(安治、祐忠、達安は行長隊壊乱後転戦)…横撃
その他…細川忠興一族、黒田長政、加藤嘉明、田中吉政父子、織田有楽父子、金森法印父子、小栗忠政、赤井忠家、小坂雄長、生駒利長、坪内利定父子、兼松忠吉、森忠胤、安孫子善十郎、稲熊市左衛門、澤井左衛門尉、林大学

小関村方面[編集]

西軍

石田三成、織田信高父子、伊藤長実、滝川忠継、服部土佐守、寺田播磨守、岸田伯耆守、高田薩摩守、秋田助右衛門、矢部豊後守、三渕大和守及び大坂弓鉄砲衆等

東軍

  • 午刻前
  1. 田中吉政、生駒一正(先陣を切るも島左近と大筒により撃退される)、石川貞政、佐々行政
  2. 加藤嘉明、細川忠興一族
  3. 金森法印、戸川達安
  4. 黒田長政、竹中重門
その他…堀田一継、筒井定次、宇喜多直盛
  • 午刻後
  1. 本多忠勝、織田有楽父子、古田重然、猪子一時、佐久間定頼兄弟…忠勝の指揮下に一時的に入り、三成隊横撃を迎撃
  2. 藤堂高虎、京極高知、織田有楽親子、村越三光…吉継隊壊乱後転戦
  3. 大須賀忠政、本多成重等…家康本隊
その他…前田五左衛門、川村助左衛門、岡田善同、澤井左衛門尉、野々村三十郎、亀井茲矩等

藤下村方面[編集]

西軍

大谷吉継父子、平塚為広父子、戸田重政父子

東軍

  • 午刻前
  1. 藤堂高虎父子、京極高知、蜂須賀豊雄
  2. 織田有楽父子、津田高勝、寺沢広高[2]
  • 午刻後
  1. 小早川秀秋…内応
  2. 脇坂安治父子、小川祐忠父子、朽木元綱、赤座直保…内応
  3. 細川忠興一族、加藤嘉明、黒田長政、田中吉政、生駒一正、桑山一直等

北天満山麓方面[編集]

義弘隊[編集]

西軍

島津義弘一族

東軍

  • 午刻前
  1. 井伊直政本隊、松平忠吉(忠吉負傷)
  2. 米津親勝、小栗忠政…家康本隊からの物見中に一時援護する
  • 午刻後
  1. 本多忠勝…銃撃で馬を撃たれる
  2. 田中吉政、金森法印…横撃するも反撃され後退、義弘隊後退路を開く
  3. 黒田長政、細川忠興、加藤嘉明…吉政・法印隊後退を援護
その他…筒井定次、竹中重門、戸川達安、寺沢広高、福島正之、久野宗成等
  • 義弘隊撤退時
  1. 小早川秀秋
  2. 井伊直政(直政負傷)、松平忠吉、松倉重政等
  3. 筒井定次

行長隊[編集]

西軍

小西行長

東軍

  • 午刻前
小戦のみ
  • 午刻後
脇坂安治父子、朽木元綱、寺沢広高(安治、元綱、広高は吉継隊壊乱後転戦)、戸川達安、筒井定次

南宮山方面[編集]

西軍

長束正家、長宗我部盛親等

東軍

池田輝政、浅野幸長…正家・盛親隊が後退するのを追撃、秀元・広家・恵瓊隊への追撃はせず

備考[編集]

  • 本多忠勝・寄合衆一部について
彼らは前線後方にいた為に遊撃隊として各方面を転戦していた。
各将の動向を例として挙げると
  • 本多忠勝
井伊直政隣(開戦前)― 十九女池(開戦時) ― 宇喜多秀家 ― 島津義弘 ― 石田三成
  • 戸川達安
松平忠吉東方(開戦時) ― 石田三成 ― 小西行長 ― 宇喜多秀家 ― 島津義弘
となる
  • 小西行長について[2]
小西行長は後詰として島津義弘よりも奥まった場所に陣を構えていた。午刻前に義弘より出馬を要請されるも、小早川秀秋の旗色が不鮮明なことを理由として断っている。午刻後、吉継隊の壊滅や秀家・三成隊先手の後退に行長隊の先手が動揺し、行長が先手を後退させて動揺を鎮めようとしたところ、それに乗じた東軍の攻撃により、全軍が壊乱した。

兵数[編集]

兵数に関しては史料によって違いが大きい。そのため、綱文に記載されているのは総数のみである。

東軍[編集]

  • 総数…75,300人[13]

以下は本文史料を参考

  • 徳川家康本隊(江戸出陣時)…32,730人、他に15,000
  • 南宮山押え…13,700人、他に10,000、12,760、13,760
  • 福島正則…8,000人
  • 田中吉政…3,000人
  • 筒井定次…2,000人(大和郡山城受取時)
  • 生駒一正…20騎+雑兵300人
  • 蜂須賀豊雄…18騎、他に7騎
  • 井伊直政先手…2,000人
  • 本多忠勝…400人
  • 大垣城寄手…3,000人
  • 津軽為信…50騎、他に2,000

参考…岐阜城攻撃時の兵数

  • 福島正則・細川忠興・加藤嘉明・黒田長政・藤堂高虎・京極高知・田中吉政・生駒一正・寺沢広高・蜂須賀豊雄・井伊直政・本多忠勝等…16,730人、他に20,000、32,000
  • 池田輝政・浅野幸長・山内一豊・堀尾忠氏・有馬豊氏・一柳直盛・戸川遠安等…18,254人、他に15,000
  • 黒田長政…6,000人
  • 池田輝政…7,000人
  • 浅野幸長…5,000人
  • 黒田・藤堂…6,000人

西軍[編集]

  • 総数…108,700人[14]

以下は本文史料を参考

  • 宇喜多秀家…15,000人、他に8,000(旗本3,000)、20,000(先手12,000)
  • 石田三成…6,000人、他に7,000、島左近3,000
  • 北の山手沿い諸隊…28,800人
  • 大谷吉継…吉継600人、大谷吉勝2,500人、木下頼継1,000人、平塚為広・戸田重政500人以上
  • 大谷父子・戸田・脇坂父子・小川父子・赤座直保等…15,000
  • 小川・朽木…2,000人
  • 小早川秀秋…8000人(旗本3,000)、他に10,000、20,000、先手(稲葉正成平岡頼勝松野重元)6,700
  • 小早川・脇坂・朽木・小川…20,000人
  • 島津義弘…3000人、他に4,000、1,000(撤退時)、800(大垣入城時)
  • 小西行長…5,000(旗本2000)、他に7,000、1000(大垣入城時)
  • 南宮山諸隊…23,800人、他に18,680、20,000、28,000、30,000
  • 長束正家…1,100人
  • 大垣城守備…7,500人、他に13,760

参考…三成書状より

  • 宇喜多秀家…18,000人
  • 太田一吉…1,020人
  • 石田三成…6,700人
  • 大谷吉継…1,200人
  • 木下頼継…700人
  • 戸田勝成…500人
  • 小早川秀秋…8,000人
  • 脇坂安治…1,200人
  • 小川祐忠…2,500人
  • 島津義弘…5000人
  • 小西行長…2900人+与力4000人
  • 毛利輝元・毛利秀就・毛利秀元・毛利元康・吉川広家・安国寺恵瓊…41,500人
  • 長宗我部盛親…2,100人
  • 長束正家…1,000人

死者[編集]

  • 東軍…3,700人
  • 西軍…28,000人、他に4,000(首実検に出された数)、30,000、32,600、35,270

脚注[編集]

  1. ^ a b c 地図閲覧サービス
  2. ^ a b c d e f g h i j 本文史料を参考
  3. ^ a b c 伊藤長実は伊東長実の、高田薩摩守は豊後守の高田治忠の可能性が、三淵大和守は三淵藤英は既に死去、子の三淵光行や他の子息は細川藤孝の一族かつ、家臣なので疑問がある。
  4. ^ 本陣桃配山陣形魚麟鶴翼
  5. ^ 桃配山一二町先に旗を立てる 金扇馬印一本、旗七本、白旗二十本
  6. ^ 八王子甲州者長柄二百本 二人ずつ交替して家康の側に従う
  7. ^ 根来同心百人ずつ率いる
  8. ^ 足軽百人
  9. ^ 甲賀侍三十人斗
  10. ^ 鷹師同心二十人自分具足鉄砲持
  11. ^ 五の字の指物を差す
  12. ^ 家康は本多忠勝陣二町後方に馬印、小姓衆、使番衆のみ連れて指揮する
  13. ^ 本文史料には75,320、75,330とある
  14. ^ 本文史料には92,000(関ヶ原へ進出した軍勢のみ)、108,760(内、80,000は内応・傍観)、118,680、120,000、128,600とある

参考資料[編集]

  • 史籍研究会編 『朝野旧聞裒藁』 汲古書院 1983-1984年 第十巻ISBN 9784762941108、第二十巻ISBN 9784762941207、第二十一巻ISBN 9784762941214