門司城の戦い

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門司城跡

門司城の戦い(もじじょうのたたかい)は、永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)までに豊前門司城で起こった、大友義鎮毛利元就との数度の合戦[1]

発端[編集]

陶晴賢大内義長を滅ぼし周防長門を平定した安芸の毛利元就は、かつて大内氏がそうしたように、貿易都市博多を支配下におくべく、豊前筑前への侵攻を図る。毛利元就は、周防・長門へ侵攻する(防長経略)にあたり、大友義鎮と和睦して大友氏による筑前・豊前支配を容認していたが、平定に成功した途端、約束を反故にしたのである。しかも、大内氏の家督を継いでいた義鎮の実弟大内義長自刃に追い込んでおり、その対立は決定的なものとなっていた。

第一次門司城の戦い[編集]

永禄元年(1558年)6月上旬、毛利氏は大友氏との盟約を破り、吉川元春小早川隆景の兵2万で大友領の豊前へ侵攻し、大友方の門司城将・怒留湯直方(怒留湯主水正融泉)が僅かな兵で守る門司城を隆景の先鋒隊の貫元助と宍戸大学らの奮戦して落城せしめ、仁保就定を城主にし北九州進出の拠点とした[2]。そして毛利隆元は、筑前、豊前方面の諸将を調略し、筑前・宗像氏、豊前・長野氏を味方とすることに成功、各将は大友に反旗を翻し挙兵する。

大友義鎮は豊前の領土を確保するため、10月13日、田原親宏臼杵鑑速吉弘鑑理斎藤鎮実・戸次鑑連(立花道雪)ら1万5千を門司城へ派軍した。 大友勢前線の親宏・鑑速・鑑理らは毛利勢の元春・隆景らの連携攻勢で苦戦しながら、豊前規矩郡大里津柳ヶ浦村で布陣する鑑連は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜し毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、その矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、元春・隆景ら毛利勢は鑑連・鎭実ら大友勢の挟撃ちで総崩れて門司城に退却し、15日、城から出て毛利領へ帰るが、大友軍の臼杵鎮続の追撃を受けた。こうして大友氏は門司城を奪還して、再び怒留湯直方を城将として務める。この戦は第一次柳ヶ浦の戦いとも伝わる[3]

第二次門司城の戦い[編集]

永禄2年(1559年)8月22日、田原親宏田原親賢佐田隆居ら大友勢豊前方面軍は、毛利元就の調略に応じ挙兵した豊前国人・西郷隆頼野仲鎭兼らの不動岳城、西郷城を攻略した。この元就の調略を響応するように門司城、花尾城、香春岳城も浪人一揆で占拠せれ挙兵した。この頃の怒留湯直方は大友勢の戸次鑑連や立花鑑載麻生鎭氏らと共に宗像領・許斐城、蔦ヶ嶽、白山城などを攻略するため筑前に9月25日まで出陣するので、門司城を易々占拠される。

9月16日、大友義鎮は親宏、親賢、隆居らに命じて門司城を攻撃させる。これに対し、元就は嫡男の毛利隆元・三男の小早川隆景らを門司城へ後詰に向かわせた。隆景は児玉就方に海上封鎖を命じる一方、門司小倉の間に乃美宗勝の軍勢を上陸させて大友勢を攻撃し、さらに水軍を展開して大友軍の退路を断つなどしたため、大友方は退却を余儀なくされた[4]。26日、軍勢を整えた親宏、親賢、隆居ら大友軍は門司城を攻めて奪還し、毛利方の門司城督・波多野興滋や波多野兵庫、須子大蔵丞らを討ち取った[5]

第三次門司城の戦い[編集]

永禄3年(1560年)12月、元就は仁保隆慰を渡海させ、大友の門司城番・怒留湯直方を奇襲して門司城を奪回した。元就は隆慰に規矩一郡の給人領・寺社領の代官職と、門司城近辺の三郷を与え、豊筑の国人との連絡を強めさせ、以後、仁保隆慰は毛利方の門司城督として永く豊前で活躍することになる[6][7]

第四次門司城の戦い[編集]

永禄4年(1561年)7月13日、大友軍が門司城に攻め寄せるが、毛利軍の周防屋代の警固船によって敗れる[8]。15日、4月から豊前出陣の戸次鑑連・田北鑑生田北紹鉄・田原親賢ら大友軍6千はついに毛利勢の原田義種を籠る香春岳城を落す、義種自刃。

8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。こうして吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏・志賀親度朽網鑑康吉弘鎮信・戸次鑑連・田北鑑生ら六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。この時、博多に停泊していたポルトガル船が、大友義鎮の要請を受けて大砲を門司城に撃ち込んだと言われるが、勝敗に寄与しない程度の短期間の参戦だったと思われる。

これに対し、8月21日に毛利元就は、毛利隆元と小早川隆景ら1万8千余の兵に後詰を命じる。そして、隆元が全軍の指揮を執るため長門府中長府)に滞在し、隆景に1万余の兵を割いて渡海させ、門司城に向かった。

9月2日、大友軍は武田志摩守、本城新兵衛、今江土佐守を先鋒に門司城に迫り、門司城を包囲した。 9月13日、門司城には、雲霞の如き大友軍が犇いており、隆景は、堀立壱岐守の手勢や豊後守護代杉氏の一族の軍8百を決死隊として関門海峡を渡らせ、大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入らせた。 隆景は児玉就方・村上元吉らに命じ、安芸河の内水軍数十艘で蓑島辺を襲撃させ、大友軍の背後を撹乱させた。 大友軍は、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃するが大勢に影響せず。

10月9日、門司城中で、稲田弾正、葛原兵庫助は義鎮の調略により内応を仕掛けるが、内通者は発覚。10月10日、調略を逆に利用した隆景は、偽の内通の狼煙により大友軍を誘い出すことに成功、隆景自ら渡海し門司城に入り全軍を指揮し、城外に出て指揮をとり防戦に努めた。 乃美宗勝と児玉就方は、隆元の命を受け、大友軍の側背を衝いて明神尾の敵陣を切り崩し、敵を大里まで追い込めて、大友軍の大将の一人田北鑑生に重傷を負わせた。この時宗勝は、衆人環視の中、敵勇将伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じた。はじめ宗勝は、鑑昌の槍で鼻の辺りを突かれ負傷したが、ひるまず、とうとう槍で相手を突き伏せた。 敵味方が見守る一騎討ちで宗勝が勝つと、毛利軍の指揮は俄かにあがり、敵を縦横に切り立ててこの勝利を勝ち取ったのである。 大友軍に大きな損害を与えたこの戦いは「明神尾の戦い」と呼ばれる。

10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や田原親賢らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して小早川勢に射ち込み大損害を与えたという[9]。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。

大友方は門司城の攻略を諦め、11月5日夜に包囲を解いて撤退を開始し、毛利勢の吉見正頼吉見頼貞らの追撃を受けて[10]も門司浜・沼の江・大里・赤迫を経て、貫(ぬき)山を越え、彦山下を通って、苦難の末、日田にたどり着いた。だが、田原親宏らの一部は、貫山から分かれて、黒田原・天生田・国分寺原・蓑島を通って国東へ向かったため、道待ちしていた毛利勢の杉因幡守隆哉・乃美宗勝・能島村上武吉[11]・因島村上吉充[12]・来島勢数百人の伏撃を受けられ、竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介らの名ある武将が討死し多数の犠牲者を出して帰国した[13]

大友軍が退却したのは、大友軍の背後に位置する豊前松山城や馬ヶ岳城が、毛利軍により攻略されたためとの説がある[14]。大友方志賀鑑隆が守る香春岳城も先に9月頃に攻略したと思われる。

この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号するようになった。

第五次門司城の戦い[編集]

永禄5年(1562年尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と七人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[15]を追い出せて、城将・千手宗元を降伏する。 13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせた[16][17][18][19]ものの、翌14日には門司城を攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言桑原竜秋ら漕渡の防戦により撃退された[20]

さらに毛利軍の手に落ち天野隆重杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前苅田町に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも戸次鑑連ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。 松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・安東常治安東連善ら鑑連に従って奮戦ぶりなので門司城代・冷泉元豊赤川元徳桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた[21][22][23][24][25][26]が、11月26日にも、終日門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[27]

和睦[編集]

大友軍が豊前毛利領を攻撃する一方、毛利元就は出雲の攻略(第二次月山富田城の戦い)に取りかかっていた。そのため、将軍足利義輝の仲介により、毛利・大友の和睦交渉が始まる。和睦条件の合意に難航するが、門司城は毛利氏が確保、松山城は大友氏に引き渡され、香春岳城は破却することとなり、永禄7年(1564年)3月25日、由布惟明ら家臣を率いて戸次鑑連らの大友軍と毛利軍と第四次柳ヶ浦の戦い[28]後、7月、大友宗麟と毛利元就との間に和睦「豊芸講和」が成立した。また、大友宗麟の娘が毛利輝元(隆元の子)に嫁ぐことにもなっていたが、最終的には毛利元就の八男末次元康に嫁ぐことが決まった。だが、この婚約も実行しなかった。

この和睦は、尼子氏討伐に集中したい毛利氏にとっても、豊前の毛利方の国人等に度々反乱を起され、その支配体制が不安定となっていた大友氏にとっても都合の良いものであった。これにより、毛利氏と大友氏との争いは収束するかのように見えた。しかしながら、永禄8年6月(1565年7月)、大友氏が豊前の毛利方の国人・長野筑後守吉辰の拠る長野城を攻撃したことで、再び両氏の間に緊張が高まる。長野氏は同年8月に大友氏に降伏し、朝廷が仲介した講和もわずか1年足らずで形骸化していくのである[29]

なお、永禄9年(1566年)に月山富田城が陥落して尼子氏が降伏すると、毛利氏と大友氏は再び争い始めている(多々良浜の戦い)。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 1558年に毛利家が門司城を攻め落とした戦いから一連の経過を門司城の戦いとする。(歴史群像シリーズ 決定版・図説 戦国合戦地図集 2008年 学習研究社
  2. ^ 萩藩閥閲録』、『新裁軍記』による 貫助八元助六月十二日感状。
  3. ^ 『九州軍記』・『九州治乱記』・『九州諸将軍記』・『歴代鎮西要略』・ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』などによるが、信憑性に疑問符を付く軍記物で諸書記載の合戦年月日の差異があるにして、記述の戦闘過程は永祿五年(1562年)10月13日柳ヶ浦の戦いを混同する可能性があるかもしれません。
  4. ^ 『小早川隆景のすべて』(新人物往来社)・『芸陽記』・『毛利元就軍記』・『江氏系譜』・『吉田物語』
  5. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 一 大友義鎮の豊前入国  西郷隆頼の挙兵 [1]
  6. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  門司城争奪戦 [2]
  7. ^ 萩藩閥閲録』元就・隆元御判 十二月十九日 仁保右衛門太夫殿(仁保常陸介隆慰)書状
  8. ^ だが、この戦は下記の永祿5年7月13日・14日漕渡の防戦の誤記かもしれない。
  9. ^ 『陰徳太平記』・『吉田物語』
  10. ^ 萩藩閥閲録』卷百四十三 吉見文書 吉見正頼感状 永祿四年十一月五日門司表敗軍の大友勢を追撃し、規矩郡沼の入江で敵討ち取りの戦功を賞する。
  11. ^ 萩藩閥閲録』卷二十二 村上文書 毛利隆元書状 永祿四年十一月六日豊前蓑島の海戦で敵船切り取りの戦功を賞する。
  12. ^ 萩藩閥閲録』卷百三十二 村上文書 小早川隆景書状 永祿四年十一月九日門司表敗軍の大友勢(田原親宏)を待つ受け、討ち取りの戦功を賞する。
  13. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  門司城争奪戦 [3]
  14. ^ 北九州戦国史余話 毛利元就と門司城(八木田謙 著)[4]
  15. ^ 豊前原田氏・香春社の大宮司職原田五郎義種一族の出身、筑前高祖山の原田親種とは別人。
  16. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書(10)戸次鑑連感状写 永祿五年七月十三日大里津柳浦合戦の戦功を賞す 由布源五兵衛尉殿雪下(惟信)339頁
  17. ^ 『福岡県史資料. 第9輯』[5]
  18. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 862頁
  19. ^ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・253頁
  20. ^ 萩藩閥閲録』卷六十一 桑原文書 小原隆言書状 永祿五年七月十四日門司表に於いて大友勢撃退の戦功。
  21. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  22. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏文書 (7)戸次鑑連感状写 永祿五年十月十三日大里津柳浦合戦の戦功を賞す 安東市允殿(常治)229頁
  23. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1安東家史料 (29)戸次鑑連感状写 永祿五年十月十三日大里津柳浦合戦の戦功を賞す 安東舍人允殿(連善)17頁
  24. ^ 『立花文書』永祿五年十月十七日大友宗麟書状(大友宗麟資料集)十三日戸次鑑連大里合戦の戦功を賞す。
  25. ^ 『吉弘文書』永祿五年十月二十日大友宗麟書状(大友宗麟資料集)戸次鑑連・吉弘鑑理十三日大里合戦の戦功や苦労を賞す。
  26. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』
  27. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  松山城の攻防(『浦文書』・『萩藩閥閲録』) [6]
  28. ^ 『筑後国史・筑後将士軍談』由布大炊助惟時(惟明)家譜 [7]
  29. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  大坂山の戦い [8]

関連項目[編集]