門司城の戦い

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門司城跡

門司城の戦い(もじじょうのたたかい)は、天文23年(1554年)から永禄4年(1561年)までに豊前門司城で起こった、大友義鎮毛利元就との数度の合戦[1]

発端[編集]

陶晴賢大内義長を滅ぼし周防長門を平定した安芸の毛利元就は、かつて大内氏がそうしたように、貿易都市博多を支配下におくべく、豊前筑前への侵攻を図る。毛利元就は、周防・長門へ侵攻する(防長経略)にあたり、大友義鎮と和睦して大友氏による筑前・豊前支配を容認していたが、平定に成功した途端、約束を反故にしたのである。しかも、大内氏の家督を継いでいた義鎮の実弟大内義長を自刃に追い込んでおり、その対立は決定的なものとなっていた。

第一次門司城の戦い[編集]

天文23年(1554年)、毛利氏は大友氏との盟約を破り、吉川元春小早川隆景の兵2万で大友領へ侵攻した。毛利軍は怒留湯主水が僅かな兵で守る門司城を奇襲し落城せしめ、仁保就定を城主にし北九州進出の拠点とした。大友氏は豊前の領土を確保するため、10月13日から15日まで戸次鑑連(立花道雪)・田原親宏臼杵鑑速吉弘鑑理斎藤鎮実ら1万5千を派遣し、豊前柳ヶ浦で毛利元就小早川隆景を大敗させ、門司城を奪還した。この合戦において、鑑連は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜し毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、その矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、毛利勢は総崩れとなった。この戦は第一次柳ヶ浦の戦いとも伝わる。

第二次門司城の戦い[編集]

永禄元年(1558年)6月、小早川隆景が門司城を攻め落とした。大友方の城将・怒留湯主水を追い、仁保隆慰を城番とし3千の兵力を配属し、関門海峡を扼す北九州随一の要衝であったここを拠点に、九州進出を図った。そして毛利隆元は、筑前、豊前方面の諸将を調略し、筑前・宗像氏、豊前・長野氏を味方とすることに成功、各将は大友に反旗を翻し挙兵する。

第三次門司城の戦い[編集]

永禄2年(1559年)9月、大友義鎮は田原親宏田原親賢らに命じて門司城を攻撃させる。これに対し、毛利元就は毛利隆元、小早川隆景らを門司城へ後詰に向かわせた。小早川隆景は児玉就方に海上封鎖を命じる一方、門司小倉の間に乃美宗勝の軍勢を上陸させて大友勢を攻撃し、さらに水軍を展開して大友軍の退路を断つなどしたため、大友方は退却を余儀なくされた[2]。こののち、毛利氏と大友氏との間で、門司城をめぐる争奪戦が繰り広げられることになる。

第四次門司城の戦い[編集]

永禄4年(1561年)8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。こうして田原親宏・吉弘鎮信らは15,000余の兵を率いて豊後大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。この時、博多に停泊していたポルトガル船が、大友義鎮の要請を受けて大砲を門司城に撃ち込んだと言われるが、勝敗に寄与しない程度の短期間の参戦だったと思われる。

これに対し、8月21日に毛利元就は、嫡男の毛利隆元・三男の小早川隆景に後詰を命じる。そして、毛利隆元が全軍の指揮を執るため長門府中長府)に滞在し、小早川隆景が門司城に向かった。

9月2日、大友軍は武田志摩守、本城新兵衛、今江土佐守を先鋒に門司城に迫り、門司城を包囲した。 9月13日、門司城には、雲霞の如き大友軍が犇いており、隆景は、堀立壱岐守の手勢や豊後守護代杉氏の一族の軍800を決死隊として関門海峡を渡らせ、大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入らせた。 隆景は児玉就方に命じ、安芸河の内水軍数十艘で豊筑沿岸を襲撃させ、大友軍の背後を撹乱させた。 大友軍は、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃するが大勢に影響せず。

10月9日、門司城中で、稲田弾正、葛原兵庫助は大友義鎮の調略により内応を仕掛けるが、内通者は発覚。10月10日、調略を逆に利用した小早川隆景は、偽の内通の狼煙により大友軍を誘い出すことに成功、隆景自ら渡海し門司城に入り全軍を指揮し、城外に出て指揮をとり防戦に努めた。 乃美宗勝と児玉就方は、毛利隆元の命を受け、大友軍の側背を衝いて明神尾の敵陣を切り崩し、敵を大里まで追い込めて、大友軍の大将の一人田北鑑生に重傷を負わせた。この時宗勝は、衆人環視の中、敵将伊美弾正左衛門と一騎討ちを演じた。はじめ宗勝は、弾正左衛門の槍で鼻の辺りを突かれ負傷したが、ひるまず、とうとう槍で相手を突き伏せた。 敵味方が見守る一騎討ちで宗勝が勝つと、毛利軍の指揮は俄かにあがり、敵を縦横に切り立ててこの勝利を勝ち取ったのである。 大友軍に大きな損害を与えたこの戦いは「明神尾の戦い」と呼ばれる。

10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速田原親賢らの鉄砲隊が小早川勢に射ち込み損害を与えたという。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。

大友方は門司城の攻略を諦め、11月5日に包囲を解いて撤退を開始する。大友軍が退却したのは、大友軍の背後に位置する豊前松山城や馬ヶ岳城が、毛利軍により攻略されたためとの説がある[3]。毛利軍は、退却する大友軍を待ち伏せてさらに打撃を与えており、大友方志賀鑑隆が守る香春岳城も先に9月頃に攻略したと思われる。

この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号するようになった。

和睦[編集]

永禄5年(1562年)9月13日、毛利軍の手に落ちた松山城の奪還を目指す、10月13日に第二次柳浦合戦や11月19日幾度の松山城攻めにも、攻略には成功しなかった。一方、毛利元就は出雲の攻略(第二次月山富田城の戦い)に取りかかっていた。そのため、将軍足利義輝の仲介により、毛利・大友の和睦交渉が始まる。和睦条件の合意に難航するが、門司城は毛利氏が確保、松山城は大友氏に引き渡され、香春岳城は破却することとなり、永禄7年(1564年)3月25日に第三次柳浦合戦後、7月、大友宗麟と毛利元就との間に和睦が成立した。また、大友宗麟の娘が毛利輝元(隆元の子)に嫁ぐことにもなっていたが、最終的には毛利元就の八男末次元康に嫁ぐことが決まった。だが、この婚約も実行しなかった。

なお、永禄9年(1566年)に月山富田城が陥落して尼子氏が降伏すると、毛利氏と大友氏は再び争い始めている(多々良浜の戦い)。

脚注[編集]

  1. ^ 1558年に毛利家が門司城を攻め落とした戦いから一連の経過を門司城の戦いとする場合もある(歴史群像シリーズ 決定版・図説 戦国合戦地図集 2008年 学習研究社
  2. ^ 小早川隆景のすべて(新人物往来社
  3. ^ 北九州戦国史余話 毛利元就と門司城(八木田謙 著)[1]

関連項目[編集]