長谷部照俉

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長谷部照俉

長谷部 照俉(はせべ しょうご、1881年明治14年)9月28日[1][2] - 1953年昭和28年)4月29日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴[編集]

埼玉県出身[1][2][3]。祖父・長谷部十七吉(1819(文政2年)-1899(明治32年))は、埼玉県児玉郡本庄町(現在の本庄市)に住んでいた刀鍛冶だったが、明治維新の際、廃刀令が出されて刀の需要がなくなったので、廃業して一人娘のはん(実母)と、養子としてきた実父・万作(坂本家)は養蚕業を始めた[4]。照俉は養蚕業の長男として生まれた[4]東京陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][5]。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第2連隊付となる[1][5]。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業した[1][2][3]。 1911年(明治44年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第2連隊中隊長となる[1]。陸士教官を務め、1913年(大正2年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校露西亜語専修科を修了した[6]。同年12月、ロシアに留学し、1914年(大正3年)9月、ロシア軍に従軍[1]。1917年(大正6年)4月、参謀本部員に転じ、1918年(大正7年)6月、歩兵少佐に進み1919年(大正8年)3月まで浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に出動[1]。1920年(大正9年)5月、歩兵第41連隊大隊長に就任し、1922年(大正11年)8月、歩兵中佐に昇進し第5師団参謀となる[1]支那駐屯軍参謀を経て、1925年(大正14年)8月、第16師団司令部付として京都帝国大学服務(配属将校)となる[1][3]。1926年(大正15年)3月、歩兵大佐に進んだ[1][3]

1927年(昭和2年)5月、歩兵第37連隊長に就任[1][3]。1931年(昭和6年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第3旅団長となり満州事変に出動した[1][2][3]。1934年(昭和9年)3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、南満州鉄道嘱託となる[1]

著書[編集]

  • 『旬刊 講演集 NO.455、第15巻、第5号、ソ連邦を中心とする国際情勢』東京講演同好会、1937年。
  • 『四股をふむロシヤの今昔』改造社、1939年。
  • 『動乱欧州を衝く : 独乙の欧洲新秩序建設』誠文堂新光社、1941年。

親族[編集]

生家(長谷部家)[7]
  • 実父 : 万作(坂本家 1852-1933)、墓所 : 埼玉県本庄市本庄 大正院
  • 実母 : はん(1859-1933)、大正院
坂本家 [7]
  • 祖父 : 坂本徳三郎(1820-1889)
  • 祖母 : 茂登(1824-1898)
  • 長男 : 藤太郎
  • 長女 : ぬい
長谷部家 [7]
  • 祖父 : 長谷部十七吉(1819-1899)
  • 祖母 : ヨネ(1829-1892)
  • 本人 : 照俉、墓所 : 東京都府中市 多磨霊園
  • 妻 : 喜代(関谷家 1890-1983)、多磨霊園
  • 長男 : 照正(1910-2006)、多磨霊園
  • 長男妻 : 米子(馬場家 1914-2008)、多磨霊園
  • 長女 : 操(1912-1945)、多磨霊園
  • 義父 関谷銘二郎(陸軍大佐)[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、152頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』577頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』199頁。
  4. ^ a b 『わが家の小史』増補版、3頁。
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194、199頁。
  6. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。152、615頁。
  7. ^ a b c 長谷部照正著『わが家の小史』「吉田・長谷部・両家系譜」増補版、45頁。

参考文献[編集]

  • 長谷部照正『わが家の小史』増補版、1997年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。