長井淳子

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獲得メダル
日本の旗 日本
女子 柔道
アジア柔道選手権
1995 ニューデリー 48kg級
2000 大阪 48kg級
1993 マカオ 48kg級
1996 ホーチミン 48kg級
1997 マニラ 48kg級

長井 淳子(ながい あつこ、1974年1月14日 - )は、日本の元柔道選手。

埼玉県上尾市出身。

身長155cm。

階級は48kg級。

現姓は中村。

なお、66kg級と70kg級で活躍していた佐野奈津子とはいとこにあたる[1][2][3]

経歴[編集]

柔道は早稲田大学時代に全日本学生柔道優勝大会などで活躍していた父親が指導員を務めていた上尾市柔道教室で、2歳上の姉の亮子に次いで始めた。

小学校2年の時だった[1][2]

上尾市立東中学校時代は軟式テニスに夢中になった[4]

高校では、柔道テニスのどちらを選択するか迷ったものの、姉が全国大会で活躍していた事などにも触発されて柔道を選んだ[2]

その他にも、「オリンピックで金メダルを取るのが自分の夢だったけれど、柔道テニスのどちらを選ぶか悩んでいた時、父から、『オリンピックの種目には、軟式テニスは無いぞ。』と言われた事で柔道の道を進む事を決めました。」とも語っている。

柔道の強豪校として知られる埼玉栄高校から熱心に勧誘されたものの、上尾高校に進学することを決めた。

受験勉強をして高校に入りたいと思ったことや、柔道部を指導していた駒井清民の熱心な指導振りに感心したことなどが理由だという[2]

上尾高校に進学して本格的に柔道に打ち込むと[5]、高校2年の時には高校選手権の48kg級で優勝を飾った[1]

1992年には鈴木若葉に誘われたこともあって埼玉大学教育学部に入学すると、全日本女子代表監督をも務めていた野瀬清喜の指導を受けることになった[2]

1年の時にはバルセロナオリンピックの最終選考会となる選抜体重別の準決勝で優勝候補の一角であった筑波大学3年の江崎史子を破って決勝へ進むと、福岡工大付属高校2年の田村亮子と初めて対戦することになった。

この試合では先に小内刈で有効を取るも、掬投で有効を取り返されて0-3の判定で敗れるが2位になった[1]

世界ジュニアでは2位に終わった。

大学2年の時には選抜体重別の決勝で田村と再戦するも0-3の判定で敗れた[2]

正力杯では優勝した。

さらに、フランス国際でも優勝を飾った。

3年の時には選抜体重別の準決勝でミキハウス衛藤由佳に敗れて3位に終わった[2]。正力杯では2連覇を遂げた。

強化選手選考会では決勝で帝京大学1年の田村に効果で敗れた[2]

続く福岡国際でも決勝で田村に有効2つを取られて敗れた。

4年の時には選抜体重別で2年ぶりに決勝まで進むが、田村に有効で敗れて2位だった。

その後、正力杯で3連覇を達成すると、全国女子体重別アジア選手権でも優勝を飾った[2]

1996年には埼玉大学大学院へ進むと、アトランタオリンピックの最終選考会となる選抜体重別決勝では田村に効果を取られて敗れた[2]

全国女子体重別では2連覇を果たした。

ワールドカップ国別団体戦では3位だったが、フランス国際ではキューバのアマリリス・サボン大外刈の技ありで破って3年ぶり2度目の優勝を飾った[6]

1997年の選抜体重別では決勝で田村に有効で敗れたが、東アジア大会では優勝した。

福岡国際では、決勝で田村に指導で敗れた[2]

1998年には大学院修士課程を終了すると、ロサンゼルスオリンピック65kg級金メダリストである松岡義之の指導を受けたいがために、松岡が監督を務めるコマツに入社した[2]

選抜体重別では、準決勝で住友海上真壁友枝に敗れて、決勝には進めなかった。

全国女子体重別では、決勝でトヨタ自動車の田村に警告で敗れた[2]

1999年の選抜体重別では、準決勝で、前回、敗れた真壁友枝に田村戦の切り札としてマスターした内股でリベンジを果たし、決勝で田村と10度目の戦いに挑む。

試合中に右足を痛めながらも、積極的に内股を仕掛けて行ったが、旗判定で田村に0-3の判定で敗れた[2]

ユニバーシアードでは優勝を飾った。

2000年のフランス国際では地元フランスのフレデリク・ジョシネ内股で破り、3年ぶり3度目の優勝を果たした[7]

しかしながら、シドニーオリンピックの最終選考会となる選抜体重別では初戦で東和大学4年の濱野千穂に判定で敗れた。

アジア選手権では、5年ぶり2度目の優勝を飾った。

その後、12月には現役引退を表明した。

以前は、田村が勝つ姿など決して見たくないと思っていたが、シドニーオリンピックの会場で田村が優勝するのを目撃しても淡々とした心境だったことから、これ以上現役を続けても仕方ないと考えての決断だった[2][8]

2001年4月よりコマツ柔道部のコーチに就任した。

一方で、2001年9月から2002年9月までJOC在外派遣研修員としてイギリスに留学した[6][9]。2004年から2008年までは全日本女子ジュニアコーチに就任した[4]

所属先のコマツでは谷本歩実渡邉美奈杉本美香などを指導した[10]

なお、2007年11月にはアトランタオリンピック柔道71kg級金メダリストの中村兼三と結婚した[4]

現在はコマツ人事部の女子柔道部担当課長・全日本柔道連盟の強化委員会の女子強化部の委員と務めている[11]

田村亮子について[編集]

田村亮子とは10度対戦して全て敗れるも、一度も一本負けしたことはない。

現役時代は、「オリンピックを目指して、ひたすら田村に挑み続けてきたが、田村がオリンピック代表になるのは、既定事実のように思えたことや、田村を破っても誰も喜ばず、むしろ迷惑になるのではないか?」といった葛藤を抱えていた。

さらに、シドニーオリンピックの直前には、「このまま、自分がどんなに頑張っても、誰にも認めてもらえず、オリンピックに出られないのであれば、いっその事、階級を変えた方がいいのではないか?」とも考えていたが、この当時、全日本監督も務めていた野瀬清喜にその事を相談した時、野瀬から、「長井、確かに今、田村に挑むのは辛いだろう。今や田村はオリンピックで金メダルを取る(取れる)程の実力を持っている。だが、それは言い方を変えれば、オリンピックで金メダルを取るのと同じ位、田村に挑み続ける事に価値があるんじゃないか?」と、言われた事で階級を変えずに踏みとどまった。

その一方で、田村に関しては引退後のインタビューで次のように語っている。

「左右すべての技についても完璧で、色んな技で「一本を取る」という柔道スタイルは、人々を魅了していたし、当時人気だった漫画のYAWARAちゃんそのものでした」「どこかやりきれなく、悔しさが残った柔道人生ではありましたが、同じ階級で谷亮子選手を追いかけ続けているうちに、「自分の柔道をもっと良くしよう」と思った結果、色々覚えた技術など、得たものは大きかったと思います。」[2][8][12]

得意技[編集]

得意技は、内股大外刈

軟式テニスで鍛えていた事もあり、足が速く、スピードと技の切れがズバ抜けていたため、「切れ味の長井」と呼ばれた。

元々、高校までは、背負投大内刈を中心に、一般的な軽量級の戦い方をしていた。

長井は腕力は強かったものの、下半身が安定していなかった事もあり、それまでは上半身の力だけで、背負投を投げていたという。

しかし、大学に進むと、思う様に技が掛からなくなり、野瀬清喜から、(小柄と言っても、身長155cmは、軽量級、特に、48kg級では長身な方であるという事もあり、)「大外刈を覚えたらどうか?」と言われて、大外刈をマスターした。

そして、谷亮子の反射神経に対抗する為に、内股をマスターした。

長井にとって内股は、それから一番の必殺技となるが、後に、谷本歩実に伝授した。

そして、谷本が北京オリンピックで2連覇を達成した時、決勝で一本を取った時の技が内股だった。

また、積極的に仕掛けていく割には、影を潜めているが、寝技のバリエーションも多い。

主な戦績[編集]

「*」田村に敗れた大会

関連番組[編集]

  • 『青春探検 それでも柔の道を行く〜48キロ級 長井淳子(24)〜』NHK総合テレビ 1998年5月21日放送[13]

論文[編集]

  • 「女子柔道選手の競技成績とPOMSテストの関係」『講道館柔道科学研究会紀要』野瀬清喜らと共著
  • 「女子柔道選手の心理的変化と競技成績の関係」『埼玉武道学研究』(野瀬清喜らと共著、埼玉武道学会)

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]