鈴木重泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鈴木 重泰
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正8年(1580年
別名 義明[1]、勝重[2]
官位 出羽守
主君 本願寺顕如
氏族 雑賀党鈴木氏?
右京進[1]、次郎右衛門[1]、采女[1]、太郎[1]、幸信[3][4]
テンプレートを表示

鈴木 重泰(すずき しげやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将加賀鳥越城主。鈴木出羽守[注釈 1]

生涯[編集]

重泰は加賀国白山麓の一向一揆の軍事拠点となる鳥越城(石川県白山市[10])を築いた[11][12]、この地の一向一揆の首領である[1]

元亀元年(1570年)に始まった本願寺織田信長の戦いは、天正8年(1580年)3月に本願寺法主・顕如が織田信長に降伏することで終わったが(石山合戦)、重泰はその後も織田軍への抵抗を続けた[11]。同年4月には織田信長の部将・柴田勝家により金沢御坊が落ち、同年11月に鳥越城も落城し、重泰は子らと共に討たれた[11]。この時、柴田勝家は降伏を受け入れるためとして重泰を呼び寄せて殺害したともいわれる[1]。『信長公記』によると、同年11月17日、柴田勝家は調略によって加賀の一揆の歴々の者を生害させて、その者たち19人の首を安土に送っており、その中に鈴木出羽守とその子である右京進、次郎右衛門、太郎、釆女の名があった[6][7]

重泰の出自については、山内惣庄(白山麓の門徒組織[11])4組のうちの1つである西谷組の旗本・二曲右京進が領主として発展したもの[12](または右京進の子孫[13])という説や、元亀元年(1570年)以降に加賀に派遣された本願寺の武将とする説がある[12][13][注釈 2]

天正6年(1578年)に顕如が発給した軍忠を賞する書状では、宛名として山内惣庄と鈴木出羽守が併記されており、重泰が西谷組の旗本という立場を超えている様子が分かる[11][12]。また、安土に首を送られた19人のうち、子と共に首をはねられたのは本願寺より派遣された武将に限られており、これらのことから、重泰も本願寺から派遣された武将で、石山合戦で本願寺方として戦った紀伊雑賀の鈴木重秀の一族とする説が有力になっている[11][12]1977年昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて行われた鳥越城の発掘調査では、鉄砲団鉛やフイゴの羽口が見つかっており、このことも鉄砲隊を指揮した鈴木重秀との関係をうかがわせている[13]

重泰の子には、重泰と共に死去した右京進ら4人のほか、林西寺(白山市[16])の6代目住職となった幸信(15681616年)がいたという(「林西寺系図」)[3][4]。幸信は元和2年(1616年)に49歳で死去し、5代目・明忍の子である浄心が跡を継いだ[4]

後世の一族・子孫[編集]

加賀・能登越中の奇談を集めた[17]『三州奇談』には、重泰の子孫が登場している[8]。それによると、重泰の子孫で今枝氏の家士である鈴木唯右衛門は、一目見るだけで狂乱の類が治る霊刀「四つ替り」を所持していたという[8]。同じく重泰の子孫である鈴木次助も霊刀を持ち、手取川で大蛇を切ったところ、その血で川の水が秋の木の葉のようになったため、その刀は「紅葉の賀」と呼ばれるようになったとされる[8]

また、前田利常の時に釜清水で十村役に命じられた鈴木氏の一族がいた[9]。その子孫は大正期の時点で存続している[9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 確かな呼称は「鈴木出羽守」。宛名に「鈴木出羽守」が含まれる顕如発給の書状が複数あり[5]、『信長公記』にも「鈴木出羽守」と記されている[6][7]。「重泰」は堀麦水が著した『三州奇談』[8]に記載されるだが、典拠は不明[1]。「松任本誓寺文書」には「義明」とあるが(天正8年2月19日付鈴木出羽守義明書状など[9])、この文書自体不確実であるとされる[1]
  2. ^ このほか、富樫氏の一族という説(『緩帯編』[9]、『越賀雑記』[14])や、源義経の武将として北陸を平定した鈴木重家の子孫とする説があり[9]、鈴木氏は17代にわたり鳥越城に在城していたともいわれる[9][15]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 日置 1942, p. 450.
  2. ^ 石川県 編『石川県史蹟名勝調査報告 第二輯 加賀能登社寺旧跡・古城址・殖産遺跡』石川県、1924年、69頁。全国書誌番号:43053071https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983858/46 
  3. ^ a b 白峰村史編集委員会 編『白峰村史 上巻』白峰村役場、1962年、317、630頁。全国書誌番号:62003247 
  4. ^ a b c 白峰村史編集委員会 編『白峰村史 下巻』白峰村役場、1959年、404頁。全国書誌番号:59009638 
  5. ^ 石川県 1938, pp. 481–482, 808–809, 813.
  6. ^ a b 近藤瓶城 編『改訂 史籍集覧 第十九冊』近藤出版部、1921年、202頁。全国書誌番号:50001537https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/161 
  7. ^ a b 石川県 1938, p. 817.
  8. ^ a b c d 日置謙 校「三州奇談 巻之三」『三州奇談』石川県図書館協会、1933年、70–72頁。全国書誌番号:46091368https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442922/44 
  9. ^ a b c d e f 石川県能美郡役所 編『石川県能美郡誌』石川県能美郡役所、1923年、1092–1096頁。全国書誌番号:43043068https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978711/573 
  10. ^ 史跡鳥越城跡附二曲城跡(しせきとりごえじょうあとつけたりふとげじょうあと)”. 白山市公式ホームページ. 白山市 (2023年8月28日). 2023年11月24日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 平井聖; 村井益男; 村田修三 編「鳥越城」『日本城郭大系 第7巻 新潟・富山・石川』新人物往来社、1980年、475–479頁。全国書誌番号:81009200 
  12. ^ a b c d e 波佐谷聡「鳥越城と一向一揆」『はくさん』第12巻、第4号、8–11頁、1985年。ISSN 0388-4732https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8331894/1 
  13. ^ a b c 高沢裕一 編『改訂郷土史事典 石川県』昌平社、1982年、76–77頁。全国書誌番号:83024713 
  14. ^ 日置謙 校「越賀雑記抄」『一向一揆と富樫氏』石川県図書館協会、1934年、24頁。全国書誌番号:46077831https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258460/19 
  15. ^ 和田文次郎 編『能美誌』宇都宮書店〈加賀誌 第貳編〉、1900年、54頁。全国書誌番号:40008482https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764729/35 
  16. ^ 林西寺 白山下山仏”. 白山市公式ホームページ. 白山市 (2023年8月28日). 2023年11月24日閲覧。
  17. ^ 日置 1942, p. 352.

参考文献[編集]