鈴木愛之助

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鈴木 愛之助(すずき あいのすけ、1861年7月24日文久元年6月17日) - 1928年4月8日)は、明治期から大正期の産婦人科医、宮内省侍医相模国出身

生涯[編集]

1861年7月24日((旧暦)文久元年6月17日)、相模の鈴木良輔の長男として生まれる[1][2]東京大学帝国大学となった1886年(明治19年)度に首席で卒業し直後に大学のスクリッパ博士の助手となり外科学を研究、同期には伊東重岡田国太郎桂秀馬佐藤恒久高畑挺蔵三輪徳寛等がいた[1][2][3]

1887年(明治20年)5月ドイツオーストリアへの留学を命じられ産婦人科学を専攻、1890年(明治23年)12月6日帰国した[4]。直後に宮内省侍医となる。侍医寮産婦人科専門家として天皇・皇后の信頼厚く国内行幸に際しては、多く随行した。1919年(大正8年)度印刷局『職員録』まで侍医職であることが確認できる。1928年(昭和 3年)4月8日午後4時30分、病気により死去(享年66歳)[5]

栄典[編集]

エピソード[編集]

  • 歴史の証言者
鈴木愛之助は明治天皇の側近として、皇太后崩御に際し日頃感情をあらわされない天皇が悲嘆にくれられるご様子[9]や、日露戦争開戦前夜食事が進まれないご様子[10]の重要な証言者となっている。

論文・著作[編集]

  • 「中外医事新報(261)」 P5「子宮後轉後屈症ニ就テ 鈴木愛之助」(日本医史学会 1891年2月)
  • 「中外医事新報(262)」 P14「子宮後轉後屈症ニ就テ 鈴木愛之助」(日本医史学会 1891年2月)
  • 「中外医事新報(263)」 P20「子宮後轉後屈症ニ就テ 鈴木愛之助」(日本医史学会 1891年3月)
  • 「中外医事新報(264)」 P15「子宮後轉後屈症ニ就テ(續) 鈴木愛之助」(日本医史学会 1891年3月)
  • 「中外医事新報(316)」 P1「初生兒ノ黄疸 鈴木愛之助」(日本医史学会 1893年5月)

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「現代人名辞典」 Pス14「「鈴木愛之助」の項(古林亀治郎編 中央通信社 1912年)
  2. ^ a b 「大正人名辞典」 P1659「鈴木愛之助」の項(東洋新報社 1917年)
  3. ^ 「東京帝国大学一覧 従明治21年至22年」(東京帝国大学 1889年)
  4. ^ 「幕末明治海外渡航者総覧 第1巻」 P306「保利真直」の項(手塚晃・国立教育会館編 柏書房 1992年)
  5. ^ 東京朝日新聞』1928年4月10日付け朝刊8頁「死亡広告」
  6. ^ 『官報』第7989号「叙任及辞令」1910年2月12日。
  7. ^ 『官報』第765号「叙任及辞令」1915年2月22日。
  8. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
  9. ^ 「明治天皇の聖徳」(渡辺幾治郎著 千倉書房 1942年)
  10. ^ 「明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて」(伊藤之雄著 ミネルヴァ書房 2006年)