鈴木千秋
鈴木 千秋(すずきちあき、1925年〈大正14年〉生 - 2006年〈平成18年〉10月19日)は元ラジオ東京(現:TBS)アナウンサー、ナレーター、ラジオパーソナリティ[1]。東京府(1943年7月以後の東京都)文京区出身。
略歴[編集]
- 1925年(大正14年):東京府下谷区(現:台東区)に生まれ、文京区に育つ。
- 1951年(昭和26年):同大学文学部大学院(日本建築史、特に茶室)進学後、中退。
- 1952年(昭和27年):ラジオ東京(現:TBS)に入社。考査部を経て、アナウンス部に異動。
- 1959年(昭和34年):ラジオ東京退社後、フリーアナウンサー第1号となる[注 1]。
(出典:本人による「東京放送社史」への加筆メモに基づく)
主な担当番組[編集]
ラジオ東京 時代[編集]
ラジオ奥様午前十時です - パーソナリティ (月曜 - 日曜の全曜日に放送していた生番組。10年以上にわたって放送)[編集]
フリー転向後[編集]
テレビ[編集]
- 美をもとめて(ナレーター)
- これが世界だ(後に「CBSドキュメント」へ改題 / 吹き替えチーフナレーター)
- ガルブレイス 不確実性の時代(唯一のテレビ顔出し出演、夏期特別編成 一週連続シリーズ番組の進行役。この時だけは髭を剃った)
- (以上、TBS)
- 黎明の群像(鹿児島テレビ放送、ナレーター) - シリーズ番組作品(全5時間)
- ザ 日本100景(テレビ朝日、同番組内の「黒部峡谷」でナレーター。1984年元日放送)
- ウィークエンダー(日本テレビ、"シルバーマン"というハンドルネームを使って匿名で顔出し:本人の口述によるが、未確認)
- Ist登場(テレビ大阪、ナレーター?)
ラジオ[編集]
- TBS「コロムビア アワー」 - パーソナリティ(売り出し中のジュディ・オングとコンビで進行)
- FM東京「FMモーニングエコー」 - パーソナリティ(朝の帯生ワイド番組(2時間枠))
- 文化放送「おはよう 鈴木千秋です」 - パーソナリティ(朝の帯生番組(1時間枠))
映画[編集]
※上記の他、テレビ・ラジオの各CM、全日空機内BGM用番組、学校向け教育映画などで多くのナレーションを務めた。
受賞歴[編集]
著書[編集]
- 平眠 ーわが母の願った「安楽死」ー[3](新潮社) - TBSテレビでもドキュメンタリーとして放送された。番組中では一部、本人自身が廻した16ミリも使われている。前後して、朝日新聞 朝刊紙面でも大きく取り上げられた。テーマが論争を生む性格のものであったので、主に批判を受ける形で活字メディアで俎上に上がった。なお、当該の母親(喜久世)は「安楽死協会 (現:日本尊厳死協会) 第1号会員」。TBS制作/著作権所有の当該番組をベースにした映像は、同社からVHS化され市販されていたもようである。
エピソード[編集]
- 1970年代、六本木の旧防衛庁近くに、ベルウッドという名の「反戦喫茶」と称したバーを持っていて、今田勝、日野皓正、石川昌ら、本邦ジャズ草創期のジャズマンも常連だった。
- 同時期、ベルウッドコレクションとして小規模ながらも、オリジナルの革・彫金装飾品ラインナップも手掛けていた。TBS (番組内で紹介) や、つながりのあった「ヒデとロザンナ」からもPRに協力を得た。その過程で、ピースシンボル(当時も今も国際的な平和のシンボルマーク)を商標登録したことが、知名度があった事もあり紙上で批判を受けた。
- (最初の)配偶者は同局社内関係者で、その第一子である息子は障害者。
- 二人兄弟の兄は興銀出身で、系列の和光証券(後に合併”新光→みずほ”)会長を務めた経済人。
- 本人の遺志に基づき、遺骨は死去の翌春5月、親族・友人数名が船上参列のもとで東京湾沖に散骨された。
その他[編集]
- 本人画像(当時54歳):画像(『これが世界だ』 の顔出し起用審査用VTRより抜粋) - SONY αcafe
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “安田善彦 (初版) - 『人事興信録』データベース”. 2022年5月27日閲覧。
- ^ “美をもとめて 壬生狂言”. 京都の歴史と文化 映像ライブラリー. 京都市文化観光資源保護財団 (1954年7月). 2023年3月10日閲覧。
- ^ “平眠 : わが母の願った「安楽死」 - Webcat Plus”. webcatplus.nii.ac.jp. 2022年6月5日閲覧。