釣鐘町

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釣鐘町
大阪市立中央高等学校
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 大阪府
市町村 大阪市
中央区
人口
2010年(平成22年)10月1日現在)
 • 合計 513人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
540-0035

釣鐘町(つりがねちょう)は、大阪府大阪市中央区町名。現行行政地名は釣鐘町一丁目から二丁目まで。2010年10月1日現在の人口は513人、世帯数は370世帯[1]郵便番号は〒540-0035。

地理[編集]

大阪市中央区の北部に位置。北は島町、南は船越町、東は谷町一丁目、西は松屋町筋を挟んで東高麗橋にそれぞれ接する。

歴史[編集]

1872年明治5年)に釣鐘上之町、近江町を釣鐘町に編入し、釣鐘町1 - 2丁目となった。

町名の由来[編集]

1634年寛永11年)に徳川家光二条城から船で大坂城へ入った際、三郷惣年寄などが将軍を今市に招き、祝賀の意を表したところ、将軍より大坂町中の地子銀の永久免除を約束された。それに感謝して三郷惣年寄が協議し釣鐘を造らせて町中に時報を知らせたことに由来する[2]。この鐘を、大坂町中時報鐘といい[3]、釣鐘屋敷が建てられた[4]

大坂町中時報鐘[編集]

大坂町中時報鐘(おおさかまちじゅうじほうしょう)は、重さ3トン、高さ1,9mの鐘である[4]。江戸時代には2時間おきに鐘をつき、時を知らせた[3]。『曽根崎心中』に登場する「暁の鐘」は、この鐘の音とされる[4]。鐘楼はたびたび火災に遭って焼失したが、鐘は残った[3]。明治に入り、市中に時を知らせる役割が号砲に変わると、1870年に撤去された[3]。以後寺や小学校などに預けられ、1926年に大阪府庁舎が新設された際に屋上の鐘楼にかけられた[3]。しかしその後は存在を忘れられ、戦時期の金属回収も免れた[3]

1970年代に郷土史家らによって鐘が「再発見」される[3]。1970年、大阪府有形文化財指定[3]。かつての釣鐘屋敷跡[2](釣鐘町二丁目)に企業家らが資金を提供して[3]鐘楼を築き[3][5]、1985年6月10日(時の記念日)をもって鐘を「里帰り」させた[3][5]。なおこの際、鐘楼部分の土地(17坪)については地主(住友生命[5])が「大坂町中時報鐘顕彰保存会」に「永代貸与」する協定が結ばれた[3]。なお、釣鐘の所有者は大阪府である[5]

その後土地はマンション用地として転売されたが、無償で貸与する協定は引き継がれた[5]。2015年当時はマンションの一角に鐘楼が所在し[3]、平素は午前8時、正午、日没の3回、コンピュータ制御によって撞木が動き、鐘を鳴らしていた[3](6月10日と大みそかは手動で鳴らしていた)[3]

しかし、マンションの地主である不動産会社が土地を売却する際に、17坪部分の無償貸出協定がネックとなった[5]。17坪部分の土地を分筆し、それ以外の土地は売却できたものの、17坪についてはこの不動産会社所有のまま残った[5]。不動産会社は、固定資産税の負担が大きいとして、2015年12月以降、保存会および府に対し、協定解除・土地明け渡し(ないしは土地の時価での買い取り)を求め、訴訟となっている[5]

施設[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

道路[編集]

主要地方道

脚注[編集]

  1. ^ 人口統計ラボ
  2. ^ a b 44.釣鐘(つりがね)屋敷跡”. 大阪市 (2009年3月16日). 2018年10月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o “大阪中心部、寺もないのに鐘楼?(謎解きクルーズ)町人の時報 平成の街に響く 「釣鐘町」の由来に”. 日本経済新聞. (2015年8月29日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH19H04_Q5A820C1AA1P00/ 2018年10月7日閲覧。 
  4. ^ a b c 大坂町中時報鐘”. 大阪市中央区. 2018年10月7日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 紛糾!三代将軍家光ゆかりの釣鐘が存亡の危機に…この騒動誰のせい?”. 毎日放送(MBS) (2017年8月16日). 2018年10月7日閲覧。

外部リンク[編集]