金学順

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金 学順
各種表記
ハングル 김학순
漢字 金學順
発音: キム・ハクスン
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金 学順(キム・ハクスン、김학순1924年 - 1997年12月16日)は、韓国人の女性。1991年に自ら元慰安婦として名乗り出て多く発言した。各々の発言の真偽については議論がある。

略歴[編集]

韓国遺族会裁判(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)で、裁判所に提出された略歴には「金秦元の養女となり」と書かれている[1][2] 。(下記のとおり40円で売られたと本人が証言しているため、身売りされたという解釈もある[3]。)

以下は1993年の韓国挺身隊問題対策協議会の調査によるものである[4]

  • 1924年:中国の吉林省(当時の満州)に生まれる。生後すぐに父が死没。
  • 1926年(2歳):母と共に平壌(現在の北朝鮮)へ移住 。
  • 1935年(11歳):母子家庭で貧困のため小学校を中退。
  • 1938年(14歳):母が再婚、継父とは不仲。
  • 1939年(15歳):40円で売られて妓生巻番の養女になり、そこから妓生を養成する学校(妓生養成学校)に通う。
  • 1941年(17歳):卒業するが年齢が足りず妓生になれず、養父に中国ならお金が稼げるだろうと、養父に連れられ平壌から中国へ汽車で行く。北京に到着町中で日本軍将校に呼び止められ「朝鮮人だろ、スパイではないか?」と姉さんとトラックに乗せられる。夜中ついた空き家で将校に犯される。翌日、お姉さん共々慰安所に。場所はテッペキチン(鉄壁鎮?)村の中の慰安所で女は朝鮮人5人で経営者はいないが歩哨が隣の部屋にいる。ただし、前述の1991年の韓国遺族会裁判の訴状[2]では北京で軍人に拉致されたのではなく、鉄壁鎮まで養父に連れて行かれ、養父とはそこで別れたと異なる証言をしている。

    「軍人達は自分たちでサックを持ってきました。1週間に1回後方で軍医が兵士を連れてきて検査をしましたが軍医が忙しいと来ない週もありました。軍医が来て少しでも異常があれば黄色く光る606号の注射を打たれるのです。」

    「私たちのところに来る軍人は部隊の許可を得ているようでした。始めは軍人達が金を出しているのかどうかまったく分からなかったのですが、しばらくしてシズエから兵士達は1円50銭、将校達が泊まりの時は8円出さねばならないのだという話を聞いたことがあります。けれど私は慰安婦生活の間中軍人達からお金を受け取ったことはありません。」

  • (2ヶ月後)近傍のより前線に近い慰安所に移動。
  • (1ヶ月後)歩哨の目を盗んできた朝鮮人の男が寝に来る、無理に頼んで夜中に脱出。男と中国で暮らす。
  • 1942年(18歳):妊娠を機会に上海のフランス租界に定住
  • 1943年(19歳):出産
  • 1945年(21歳):2人目を出産、松井洋行という質屋を経営
  • 1946年6月:上海から船で韓国に帰る。
  • 1991年8月:慰安婦であったとする記者会見を行う。
  • 1991年12月:日本国を提訴。
  • 1997年12月16日:死去。享年73。

報道について[編集]

1991年8月11日に挺対協が提供した証言テープ(この時は匿名だった)を元に朝日新聞の植村隆が書いた記事が出た[注釈 1]。1991年8月14日には北海道新聞ソウル特派員だった喜多義憲の独占インタビュー記事が出た[注釈 2][5]

植村隆記者は「連行された」との報道を行ったが、1991年8月15日「ハンギョレ新聞」では、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」という彼女の証言を報道している[6][7]

証言履歴[編集]

  • 最初に報道された朝日新聞の1991年8月11日の植村隆記者による記事では「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」「慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられ、毎日3、4人の相手をさせられた」と経歴が説明された。金学順が軍令により強制連行されたと判断できるのはこの記事のみであるが、後に朝日新聞が「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。」として訂正記事を出している[8]
  • 同年8月15日のハンギョレ新聞で、この報道に関連して本人が行った記者会見の内容が報じられたが、金学順は「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」と証言している[9][10]
  • 同年12月6日に提訴されたアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の訴状では、「一四歳からキーセン学校に三年間通った」「「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。」と述べている[2]
  • 同年12月25日の朝日新聞に掲載された植村隆記者による金学順の取材記事では「貧しくて学校は、普通学校4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」「「そこへ行けば金もうけができる。」こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。」「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。」となっており、直前に本人が証言していたキーセン学校や慰安所に連れて行った養父の存在に触れていないため、市中で普通に暮らしていた少女が役人・軍人の手によって連れて行かれたかのような印象を与える内容になっていた。これについて朝日新聞は慰安婦報道第三者委員会の報告書を元に「キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。」と検証している[8]
  • 1993年11月刊行の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」によると挺隊協の調査に対して金学順は「母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。」「券番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。」「国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました。」「北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。」「姉さんと私は別の軍人に連行されました」と、挺身隊としての徴用ではないものの軍人に拉致・強制連行されたと、これまでとは異なる証言をしている[11]
  • 秦郁彦は、金学順の3つの証言記録と訴状を比較し「重要なポイントでいくつかの差異があるのは問題」とし、戦前の日本でも身売りされた娘は業者の養女との体裁をとることが多かったことから「彼女の場合も典型的な身売りケース」としている。朝日新聞は彼女が韓国で娼婦予備軍と見られているキーセン出身であることは問題と考えたのか当初は伏せて報道していたと指摘している[12]
  • 地裁への訴状では『翌日から毎日軍人、少ないときで10人、多いときは30人くらいの相手をさせられた。朝の8時から30分おきに兵隊がきた』となっている。これについて研究者の調査では多くの朝鮮人慰安婦が多いときは数十人の相手をしたと証言している[13]
  • 尹明淑は自著「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」で金学順のケースを拉致として、これを強制連行の一種に分類している[14]。秦郁彦は著書「慰安婦と戦場の性」で証言からは養父(実質的にはキーセンの元締め)が商売のために金学順を北京に連れて行ったのは明らかに見え、養父により慰安所に売られたとものであるとし、人身売買であろうと判断している。吉見義明は強制連行とはしていないながらも、著書『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』で彼女がキーセンに売られた可能性を認めつつもその意志によったものではない点から、これを「強制」のケースと定義している[15]
  • 池田信夫は金学順が後年になって証言内容を変えた理由について、当初は「軍票が紙切れになったので賠償して欲しい」という話だったが、戦時賠償の話では裁判で却下されて終わる可能性が高かったので、彼女の弁護士が裁判を有利に進めるために、朝日新聞の誤報を利用し、国の責任を強調する目的で強制連行の話を付け加えさせたのではないかと指摘している[16]

裁判記録[編集]

慰安婦について1991年12月に補償を請求して提訴提訴。1次原告35人うち慰安婦は3名、他は元日本国軍人、2次原告は元慰安婦6人。

  • 2001年に3月に東京地方裁判所は請求を棄却。この時点で金学順は死亡している。
  • 2004年11月 最高裁も棄却。

証言の信頼性について[編集]

  • 韓国挺身隊問題対策協議会と共同で調査をおこなった安秉直は、慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいたとした上で、金学順についての調査結果ではそうした事はなく証言の信頼性が高いことを以下のように書いている[17]

    「調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した」

    • その後2006年に安は、「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、日本のケースでの「自発性」を強調し、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきであり、共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している[18]
  • 西岡力は「40人を対象に始められたこの調査で、19人が聞き取りを終えた。この19名のうちで強制連行を主張している証言者は4名、そのうちの2名は日本における裁判では人身売買と証言を変えており、さらに残りの2名は終戦まで戦地とはならなかった釜山富山にそれぞれ日本軍によって強制連行されたと証言している」と書いている[19]
  • 吉見義明秦郁彦の批判に答え、3回の彼女の証言の中で安秉直教授による韓国挺身隊問題対策協議会による調査結果が最も信頼できるとしている[20]生年は戸籍で確認され、ヒアリングは何回も行われており、本人に不利な証言もしているためである。彼女の証言では秦郁彦と同じように、中国にいくまでの経緯についてまず養父に40円で売られた可能性があることを指摘している。吉見は証言の中で何が誇張され何がほぼ事実かを判断するのが歴史学での実証的研究であり、漠然と証言間に差異があるとするのではなく、信頼できる事実を判断しくみ取ることを述べている。その結果彼女が中国で人身売買の結果、慰安婦になった点では証言間で差異はなく信用できるとしている[要出典]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大阪本社版で配信された植村記事は東京本社版での扱いは小さく一日遅れて12日に配信され韓国へ転電もされなかった。
  2. ^ この記事は1992年度の新聞協会賞の選考対象になった

出典[編集]

  1. ^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p179、1999、新潮選書
  2. ^ a b c 訴状p51 http://www.awf.or.jp/pdf/195-k1.pdf
  3. ^ 放置できない北朝鮮のウソ【従軍慰安婦】 確認しておくべき「従軍慰安婦」と「強制連行」に関する基本的事実、「河野談話」の読み方”. 『明日への選択』平成18年4月号. 日本政策研究センター (2006年6月14日). 2010年3月10日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 韓国挺身隊問題対策協議会 1993 [要ページ番号]
  5. ^ 植村裁判取材チーム 2018, pp. 6–17.
  6. ^ 1991年5月15日 ハンギョレ新聞
  7. ^ 西野 伊勢 1993 pp.32-33 [要検証]
  8. ^ a b Company, The Asahi Shimbun. “朝日新聞社インフォメーション | 記事を訂正、おわびしご説明します 慰安婦報道、第三者委報告書 朝日新聞社” (日本語). www.asahi.com. 2019年6月1日閲覧。
  9. ^ 1991年5月15日 ハンギョレ新聞
  10. ^ 西野 伊勢 1993 pp.32-33 「家は貧しくて、私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いにいくことになったんだ。 そのうち、金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌やおどりなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通ったけれど、十七歳になった春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性といっしょに養父に連れられて中国にいったのさ。平城から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗りかえてね。中国北部の『鉄壁鎮』という小さな部落に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。それから私たちは日本軍の将校に連れられて、中国人の家に案内された。そして部屋に入るなり、いきなりカギをかけられてしまったんだ。となりの部屋にはすでに、私と同じ朝鮮人の女性が三人とじこめられていたよ。そのとき私は『しまった』とおもったけれどもうおそく、逃げ出すことはできなかった。」
  11. ^ 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集 P42~45. 明石書店. (1993年11月). 
  12. ^ 秦 1999, pp. 179–182.
  13. ^ 吉見 1995 [要ページ番号]
  14. ^ 尹 2003 [要ページ番号]
  15. ^ 吉見 川田 1997 [要ページ番号]
  16. ^ Voice”. 平成26年10月号閲覧。
  17. ^ 韓国挺身隊問題対策協議会 1993 [要ページ番号]
  18. ^ (朝鮮語)教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋”. デイリー・サプライズ (2006年12月6日). 2008年12月9日閲覧。
  19. ^ 西岡力諸君!』平成9年5月号 [要ページ番号]
  20. ^ 吉見 川田 1997 [要ページ番号]

参考文献[編集]

  • 西野瑠美子伊勢英子『従軍慰安婦のはなし』明石書店、1993年。ISBN 978-4750305349
  • 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳、明石書店、1993年。ISBN 978-4750305486
  • 吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店岩波新書〉、1995年。ISBN 978-4004303848
  • 吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』大月書店、1997年。ISBN 978-4272520503
  • 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社新潮選書〉、1999年。ISBN 978-4106005657
  • 尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』明石書店、2003年。ISBN 978-4750316895
  • 『慰安婦報道「捏造」の真実 検証・植村裁判』植村裁判取材チーム、花伝社、2018年。ISBN 9784763408730

関連項目[編集]