金子繁治 (海軍軍人)
金子 繁治 | |
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第二艦隊参謀時代 | |
生誕 |
1894年4月20日 日本 長野県 |
死没 | 1981年2月19日 |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1914年 - 1946年 |
最終階級 | 海軍中将 |
金子 繁治(かねこ しげじ、1894年(明治27年)4月20日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]長野県出身。長野中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。また海軍通信学校高等科学生を優等で卒業。第3戦隊司令部付兼参謀、「磐手」分隊長、「夕張」通信長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。
1926年12月、海軍少佐に昇進し第2艦隊参謀に就任。軍令部出仕兼海軍省出仕を経て、1928年(昭和3年)2月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介海軍大臣に仕えた。1930年(昭和5年)6月、イギリス駐在となり、同年12月、在英国大使館附武官補佐官兼艦政本部造兵監督官に就任。1931年(昭和6年)12月、海軍中佐に進級し、翌年帰国。
1932年(昭和7年)10月、軍令部出仕となり、第5戦隊・第6戦隊の各参謀、軍令部部員兼海大教官兼参謀本部員などを歴任し、1935年(昭和10年)11月、海軍大佐に昇進した。
1937年(昭和12年)11月、「多摩」艦長に就任。以後、軍令部課長(第4部第9課長) 兼大本営海軍通信部課長、第三遣支艦隊参謀長、青島方面特別根拠地隊司令官、軍令部出仕などを経て、1941年(昭和16年)7月、軍令部第4部長兼大本営海軍通信部部長に就任。同年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1943年(昭和18年)1月、連合艦隊司令部付となり、第1連合通信隊司令官、軍令部出仕、佐世保鎮守府参謀長、兼補給長を歴任。1945年(昭和20年)1月、青島方面特別根拠地隊司令官に就任し、同年5月、海軍中将に進み終戦を迎えた。1946年(昭和21年)5月、予備役に編入された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
親族
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 石井稔編著『異色の提督 百武源吾』、同刊行会、1979年。