金ユ信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
本来の表記は「」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
金庾信像
金庾信
Silla Gaya co-marriage.png
各種表記
ハングル 김유신
漢字 金庾信
発音 キム・ユシン
日本語読み: きん ゆしん
ローマ字 Kim Yusin , Kim Yushin
テンプレートを表示

(きん ゆしん、595年 - 673年)は、三国時代新羅の将軍。新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。

家系[編集]

532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており[1]、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。

三国統一への貢献[編集]

647年善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。新羅は648年高句麗百済麗済同盟に対抗するためにに救援を求める。660年、唐と共同で百済へ進軍し(唐・新羅の同盟)、黄山伐の戦い英語版で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。663年白村江の戦いと百済の残党勢力を排除した後、668年に高句麗に出兵し(唐の高句麗出兵)、高句麗も滅ぼした。

668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたものである。673年7月1日に79歳で死去したとき、文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。のちに興徳王(在位:826年 - 836年)の時代になって、<興武大王>に封じられた[2]

金庾信の死後、676年に百済に熊津都督府、高句麗に安東都護府、新羅に鶏林州都督府を設置して着々と朝鮮半島支配を進める唐を唐・新羅戦争で破り、ついに三国を統一した。

評価[編集]

南韓首爾南山的金庾信將軍像

三国史記』においては金庾信に伝記3巻(巻41~巻43)を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。


金庾信を演じた人物[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 532年に新羅に投降した金官伽倻の最後の仇衡王を金仇亥といい、その末子の金武力は角干(1等官)の位に上った。金武力の子の金舒玄が金庾信の父であり、金舒玄もまた角干の位にまで上った。
  2. ^ 追封については『三国史記』43金庾信伝・下による。ただし対応する記事は新羅本紀・興徳王紀には見られない。