野坂寛治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
野坂 寛治
Nosaka Kanzi.jpg
野坂寛治(青年の頃)
生年月日 1889年5月2日
出生地 日本の旗鳥取県米子市法勝寺町
没年月日 (1965-04-01) 1965年4月1日(75歳没)
死没地 日本の旗東京都
出身校 早稲田大学中退
前職 呉服
山陰日日新聞支配人
所属政党 民政党
称号 米子市名誉市民
配偶者 妻・野坂のぶ
親族 父・野坂茂三郎衆議院議員

在任期間 1931年9月 - 1947年4月

在任期間 1934年3月 - 1935年9月

在任期間 1945年11月 - 1963年4月
テンプレートを表示

野坂 寛治(のさか かんじ、明治22年(1889年5月2日 - 昭和40年(1965年4月1日)は、日本政治家。元米子市長境町長。元鳥取県議会議員米子市名誉市民

衆議院議員野坂茂三郎の長男。米子市長野坂康夫、康夫の祖父野坂康久などは姻戚関係にある[1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

米子・法勝寺町商家呉服商)野坂家の長男として生まれた。父は茂三郎、母はたみの[2]

幼い頃は乳母の手で育てられ“野坂のぼんち”で大きくなった[2]

野坂家が繁栄したのは父・茂三郎の代で、およそ明治20年代から大正の半ば頃に及んでいる[3]

学生時代[編集]

明治35年(1902年)、角盤高等小学校から米子中学(現在の米子東高校)に進んだ[2]

明治40年(1907年)に米子中学を卒業[4]。上京して早稲田大学に籍を置くが、中退安田光昭(元米子市教育長)によれば「おそらく学校を捨てたでもなく捨てられたでもなく、家業の傾きが彼にそれを強いたと見るべきだろう[5]」という。

家運傾く[編集]

父共々朝鮮満州で新事業を始めるが、思うにまかせず帰郷する。家業の呉服商は破産織田収(のち山陰放送相談役)の斡旋で山陰日日新聞支配人となる。

政治家として[編集]

昭和6年(1931年)9月、民政党から県議会に打って出て当選する。以来昭和22年(1947年)4月まで県政に貢献した。その間約1年半、境町長をつとめた。

終戦を迎え、昭和20年(1945年)11月、米子市長に就任、斎藤干城の後をうけ、昭和38年(1963年)4月まで17年7ヵ月の長きに亘って市政を担当した。

昭和40年(1965年)4月1日、急性肺炎のため東京にて急逝[4]戒名掃雲院大道是寛居士[4]米子市寺町瑞仙寺に眠る[4]

人物像[編集]

右から野坂康久2代目坂口平兵衛青砥喜三郎高松宮宣仁親王青砥昇織田収、野坂一郎、伊坂定吉、野坂寛治1954年ラジオ山陰開局)

交友関係[編集]

安田光昭(元米子市教育長)著『「あの人この人」私の交友録』によると、

「米子法勝寺町老舗(しにせ)野坂呉服店の総領として生まれ育った寛治旦那江戸に遊学して早稲田に籍を置いたけど、まことに気ままな青春時代を歩み出し、どうした弾みか漫画の泰斗岡本一平先生の門に出入りするようになり、奥さんの岡本かの子さんにも目をかけられて、家族同様の扱いを受けたらしい。この岡本家の一人息子がご承知の、大阪千里山で開かれた万博に、大変かわったシンボルタワーを作ったアブストラクト画家岡本太郎さんである。
(中略)さて岡本の太郎さんだが、昭和何年ごろか記憶がシャンとしないけど、出雲の国に旅をした帰りだといってヒョッコリ米子へやって来て、野坂のおじさんとしばらくぶりに語りたいという。“ヤッちゃんお前も付き合わさいやい”と皆生のひさご家で晩めしということになった。
岡本太郎という人は、独身主義だと聞いていたが、チョッとした婦人が一人付き添って、離れようとはしないので“ありゃ何でしょう”と市長に言うと“詮索無用”と一喝され、あれなら私も独身通せば良かったと思った。太郎さんは市長を市長さんとも野坂さんとも言わず“小父さん、小父さん”と呼びながら、おやじさんの追憶談に花を咲かせていたが、御母堂かの子さんの話となると、まゆに八の字寄せたようになる。“失礼ながら太郎さんよ、かの子夫人はお父さんも、ずいぶん持て余されたように見受けたな。あれが正に悪妻というものであろう”ひどい事をじいさん言うと思ったところ、令息岡本太郎さんが“子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました”そういう述懐を聞くにおよび、巷間いささかその性格が、尋常ではないなどといわれる岡本画伯の生い立ちを、チラリとのぞき得たような感がした。」という。

家族・親族[編集]

野坂家[編集]

鳥取県米子市法勝寺町
  • 家系
米子で油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、屋(野坂)などが有名であった[6]
文久元年(1861年)2月生 - 大正12年(1923年)5月没
父茂三郎は、明治期における米子商人を代表するひとりだが、商売で才腕をふるう一方道楽に凝り、政治や事業に私財を投じた[9]。明治24年(1891年米子商工会議所が設立されると副会頭に就任、初代坂口平兵衛などと組んで各種事業の近代化に画策した[9]。明治29年(1896年)9月郡会議員に選出され、明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した[10][11]
『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) のノ十によると、「君は鳥取縣の人にしてと稱し人參製造代辧業兼呉服太物商を營み方今株式會社米子銀行及び同中國貯蓄銀行取締役、同米子米綿取引所理事等の任に在り(所六六圓餘、營一三七圓餘伯耆國西伯郡米子町法勝寺町)」。
野坂寛治によると、「ころは明治三十一年、衆議院総選挙に父が立候補して、美事かどうかわからぬがともかく当選した[12]。所属政党は政友会の前身自由党であった[12]。拙宅の記録によると買収も併せておよそ三千余百円を要し、更に私事に渡るが、その費用を祖父が出さないので、外祖父の村上常三翁が祖父から借金して、それをの父に回してやる実に美しい間柄で、その金が倅の選挙費であることを百も承知の上で、父に当らず母に当り散らしたから、時々母はチクチク皮肉られる祖父の言葉に、目を泣きはらしたのを何の事やら知らずに、祖父は変な奴と思った事も一再でなかった[12]。とにかく祖父の野暮に比べて、外祖父鹿島家の出である故もあって風雅人であり、特に村上に行く度にうまい菓子をくれた嬉しさは、七十近くになってなお忘れぬ[12]。」という[12]
明治元年(1868年8月[7] - 没
三郎文筆業
明治32年(1899年)8月生[13] - 没
米中を経て慶應義塾大学経済学部卒業[14]時事新報入社[14]。昭和11年(1936年)退社[14]。翌12年(1937年)東宝映画会社入社[14]。戦後の23年(1948年)ごろ同社をやめて東宝教育映画に移ったが、この会社は2年くらいでつぶれ、以後定職につかず[14]
淳蔵
明治25年(1892年)2月生[13] - 没
明治28年(1895年)9月生[13] - 没
野坂寛治によると、「野坂人參会社の松は、井田医院の近くにヨゼンをたもつ[15]。わびすけ椿のいいのは、遠の昔に枯れにけった[15]。拙家で営業した薬用人參は、池田藩の業を引継いだのか、今一代あってそれを続けたのか、判然しないが時期になると荒くれ男、美しいのやそれ程でない娘や古娘が、昼夜入り乱れて洗ってヒゲを落して、蒸して乾して、歌って騒いだ[15]。(中略)人參畑は東伯西伯日野能義八束の各郡に及んでいて、栽培後四年目毎に掘って製造にかかり、ここで干しあげたのを法勝寺町の宅に持帰って、磨いて袋に詰めて箱にして、神戸で取引した[16]。」という。

略系図[編集]

 
 
 
 
 
 
野坂與八郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野坂康二
 
 
 
野坂吉五郎
 
 
 
野坂茂三郎
 
 
 
 
 
たみの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野坂康久
 
 
 
幹代
 
野坂淳蔵
 
 
 
野坂三郎
 
 
野坂寛治
 
 
 
のぶ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野坂陞三
 
野坂一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野坂康夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

村上家[編集]

鳥取県米子市尾高町
  • 家系
村上氏の尾高町居住はいつごろからであるかよく分からない[17]。新小路に製座が開設され、の産物方は村上安右衛門を藍製座の元方に任命しているから、そのころ現地に居を構えて、元方のことに当たったようである[17]明治初年尾高町表通りに移り、書籍文房具などの商いをした[17]。米子で最初の郵便局(駅逓行局)を引き受けたのが明治7年(1874年)である[17]
明治22年(1889年)に西倉吉町郵便局が開設されるまで村上氏が郵便事務を続け、明治中期以後は、営業活版印刷銀行代理店、度量衡店、茶道具店と変わった[17]。村上家は近世以来学問文学への素養があり、幕末期には遠近の文人墨客の来游者と交歓を重ねた[17]
村上家は、昔ながらの家柄で、家号は大屋、家業は書籍販売から活版印刷度量衡と割合に進んだ商売をした[18]。元祖・新左衛門は一言一言に“けれども、けれども”というので、“けれどもじいさん”という愛称だった[19]。祖父寧静院常三は鹿島家[20]の出であるため、風雅人であり、第二代米子町長三好八次郎とは特に親交が深かった[19]
かつの伯母は、第五代米子町長杵村源次郎小雅)の[21]。杵村について、野坂によれば、「杵村町長は、学に凝って立派な分家の家産を傾け、漢詩に委(くわ)しく唐聖人が撫したアノに堪能で、に秀でていた。」という[22]
辰三郎叔父は無愛嬌で、いつも苦虫を噛みつぶしたよう[21]は恐ろしく強かった[21]
斎治郎叔父は道楽が強くて、文化事業を担当して分家し、その業を三度位つぶしたから、度毎に活版所の叔父さん、茶店の叔父さんと呼称をかえて可愛がられ、八十年の安楽な生涯であった[21]
龔三叔父は松江の松本家を継ぎ、山陰貯蓄銀行頭取松江市議長などをつとめた[21]
吉五郎叔父は明治20年頃に油絵を京都で習得し、三に六尺大の大作『龍頭観音』を寺町法蔵寺に残した[21]
医療法人同愛会・博愛病院理事長村上一平従兄常三の息子である。
  • 評価
野坂寛治によると、「村上一家は文化的にも先鞭をつけたり、道楽の血も相当に濃厚であり、芸術的にもチョッピリ理解があって、テコ変な家[23]葬式また村上かという程、一時よく次から次と斃れたかと思うと、斎・龔八十に近くまで生き、かつの伯母や母に至ると八十三・四年過ぎる程、人の世の生をムサボッて、ここにも凸凹がある[23]。要するに珍品の家だ[23]。」という。

史料[編集]

明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町の地価1万円以上の大地主をみる。彼等は当時の経済的実力者で、その多くは、質屋を営み、銀行に投資し、商業に従事し、あるいは各種会社役員を兼ねるなど多面的な経済活動をしていた。初代坂口平兵衛(七万二千八百一円)を筆頭に、三好栄太郎(五万六千二百六円)、名島嘉吉郎(四万七千六百七十七円)、益尾吉太郎(四万七千七百五十四円)、松村吉太郎(三万六千百四十六円)、木村吉兵衛(二万四千五百九十六円)が続き、第7位に野坂茂三郎(一万五千七十八円)がある。次に『郡勢一斑』から見積り所得額三千円以上の人々の名を掲げる。年度は大正4年(1915年)である。坂口平兵衛 (初代)(三万四千五百五十九円)、名島嘉吉郎(二万千九百二十八円)、三好栄次郎(一万二千五百十四円)、第4位に野坂茂三郎(一万二千二円)がある。[24]

著書[編集]

  • 『米子界隈』 1969年

参考文献[編集]

  • 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 ネ・ノ215頁
  • 『鳥取県百傑伝』 1970年 421-426頁
  • 安田光昭 『「あの人この人」 私の交友録』 1980年
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 127-132頁)

関連[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 野坂康夫祖母と野坂寛治はいとこの関係にある(野坂康夫 経歴(私が歩んだ道)…「米子市ホームページ」
  2. ^ a b c 『鳥取県百傑伝』421頁
  3. ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』127頁
  4. ^ a b c d 『米子界隈』(著者紹介)
  5. ^ 『鳥取県百傑伝』422頁
  6. ^ 『米子商業史』 23頁
  7. ^ a b c 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二〇
  8. ^ 『島根鳥取名士列伝、上』七十八
  9. ^ a b 『勝田ヶ丘の人物誌』 128頁
  10. ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』 129頁
  11. ^ 鳥取県全体では第一区から石谷伝四郎、第二区から西谷金蔵が当選した。しかし同年8月第6回選挙が行われ、彼に代わって門脇重雄(維新政府で神祇少輔教部大丞等を歴任した門脇重綾の二男)が当選したから代議士生活も束の間の喜びに終わった(『勝田ヶ丘の人物誌』129頁)
  12. ^ a b c d e 野坂寛治著『米子界隈』294頁
  13. ^ a b c d 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二一
  14. ^ a b c d e 『勝田ヶ丘の人物誌』 325頁
  15. ^ a b c 野坂寛治著『米子界隈』168頁
  16. ^ 野坂寛治著『米子界隈』169頁
  17. ^ a b c d e f 『米子商業史』411頁
  18. ^ 野坂寛治著『米子界隈』200頁
  19. ^ a b 野坂寛治著『米子界隈』201頁
  20. ^ 鹿島家江戸時代中期以降、米子の代表的な豪商だった。初代の常吉が岡山から米子に移り住んだ。小売業や米商売、醤油屋などで財を築いた。
  21. ^ a b c d e f 野坂寛治著『米子界隈』202頁
  22. ^ 野坂寛治著『米子界隈』283頁
  23. ^ a b c 野坂寛治著『米子界隈』204頁
  24. ^ 『米子商業史』118、165頁

外部リンク[編集]