野坂参三

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野坂 参三
のさか さんぞう
1964年
生年月日 1892年3月30日
出生地 日本の旗 日本 山口県萩市
没年月日 (1993-11-14) 1993年11月14日(101歳没)
出身校 慶應義塾大学部理財科卒業
所属政党グレートブリテン共産党→)
日本共産党→)
中国共産党→)
日本共産党→)
無所属
称号 永年在職議員(在職25年)
配偶者 妻・野坂龍

在任期間 1958年8月1日 - 1982年7月31日

選挙区 東京都選挙区
当選回数 4回
在任期間 1956年7月8日 - 1977年7月3日

在任期間 1955年 - 1958年

選挙区 東京都第1区
当選回数 3回
在任期間 1946年4月11日 - 1950年6月6日
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野坂 参三(のさか さんぞう、1892年明治25年〉3月30日 - 1993年平成5年〉11月14日)は、日本政治家共産主義者衆議院議員(3期)、参議院議員(4期)。コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党第一書記議長名誉議長などを務めたが[1]大粛清時代に同志の山本懸蔵らをNKVDに讒言密告して死刑に追いやっていたことが最晩年になって発覚し、日本共産党から除名された[2]。初名は小野 参弎(おの さんぞう)。中国では岡野 進林 哲とも称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。

生涯[編集]

生誕から延安入りまで[編集]

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎江口定条の娘と結婚し、野坂参三の龍夫人の義兄(姉婿)になる。

明治31年、萩市の明倫尋常小学校入学。山口県立萩中学(現・山口県立萩高等学校)、兵庫県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学部理財科に入学し、在学中に友愛会新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、グレートブリテン共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。

日本労働総同盟産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂榮太郎に影響を与える。のち三・一五事件検挙されたが、昭和5年3月、「目の病気」を理由に釈放された。この釈放後、野坂は1931年昭和6年)に妻の野坂龍とともに秘かにソ連に入国するが、その経緯には謎が多い。外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン内務人民委員部(NKVD)のスパイになったという。その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係を持つ。また、1940年(昭和15年)、中華民国延安中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行ったり前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本に帰れるようにしてあげます。共産党第八路軍、日本人岡野進」という内容のビラを配布する[3]など、日本帝国主義打倒を目指した活動をおこなった。 野坂は一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった。

帰国と戦後の活動[編集]

左から徳田球一、野坂、志賀義雄(1945年 - 1946年)
「野坂参三歓迎国民大会」で壇上に立つ野坂(1946年1月26日、日比谷公園
1949年、新聞を読む野坂(田村茂撮影)
1967年の東京都知事選挙。社会党・共産党推薦の美濃部亮吉の応援演説をする野坂。

野坂は第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)1月12日に、中華民国から(直行で帰った事になっていたが、ソ連経由であった事が後に判明)日本に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会の荒畑寒村のほか、日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。また薄田研二は「同志、野坂帰る」ではじまる歓迎詩を朗読した[4]

先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した、中央委員会との共同声明を発表した。また在満邦人の困窮を無視した講演での発言が発端になって、のちに葫芦島在留日本人大送還が開始された。

府中刑務所から解放されていた徳田球一らと、日本共産党の再建を果たす。4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙東京都第1区(大選挙区)から当選した。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対し、憲法前文に「主権が国民に存する」との文言を追加するよう主張した。

ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。1950年(昭和25年)に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。GHQチャールズ・L・ケーディスと親しくしていたが[5]レッドパージ及び団体等規正令の出頭命令を拒否したことによる団規令事件で逮捕状が出されて地下に潜行、中華人民共和国亡命北京機関)して武装闘争路線を採った。

1955年(昭和30年)に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任する。8月11日には団体等規正令違反で逮捕された。同月16日に釈放されるも9月7日に在宅起訴された。1956年(昭和31年)に東京都選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって参議院議員を務めた。1958年(昭和33年)に共産党議長となり、宮本が書記長となった。団規令事件に関連して松本三益が1961年12月に最高裁で免訴判決が確定したことにより、1962年3月に野坂は公訴棄却となった。1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長となった。

最晩年の除名[編集]

議員引退後には、1970年代から書きついで来た自叙伝『風雪のあゆみ』(1989年、コミンテルン第7回大会のころまでのことを書いている)を完成させ、1992年には生誕100年ということで、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたこともあった。

しかし、その直後の『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連のスパイだったとして、1992年9月20日に日本共産党名誉議長を解任された[6]。さらに同年12月27日の党中央委員会総会において、日本共産党からの除名処分が決定された[2][7]。これはソビエト連邦の崩壊後、公文書が情報公開され、野坂が1939年にアメリカ合衆国からコミンテルンディミトロフへ送った手紙が明らかになったことによる[6][2]。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、この結果山本はスターリンによる大粛清の犠牲となったのである[6][2]。名誉議長解任時点では日本共産党は、高齢の野坂に対して「党としてひきつづき必要な配慮をはらう」[8][9]としていたが、その後の除名処分により「配慮」も打ち切りとなった[9]

野坂は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」[2]と述べた以外はこの件について語らず、1993年11月14日に死去した[10][11]参議院では慣例に従い、永年在職議員表彰者であった野坂に弔詞を贈呈したが[12]、日本共産党はこれに反発し、弔詞の議決とその朗読の間は参議院本会議を欠席した[10][11]

墓所は山口県萩市泉福寺にある[13]

多重スパイ疑惑[編集]

上述のようにNKVDの情報提供者であったことは本人も認めたが、実際にはNKVDだけでなく日本の特別高等警察やアメリカ・中国などにも情報提供を行う多重スパイだったのではないかとの指摘が複数存在する[14][15][16][17]

その他[編集]

  • 「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。ただし、のちに養女・米子をとっている。
  • 野坂の妻の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。
  • 新憲法の9条一項には賛成したが、自衛のための武力は保持するべきだと主張した。
  • 占領時代、アメリカの使節団が各政党の政策を諮問した際、野坂も日本共産党を代表して発言した。使節団は野坂の意見を評価し、「彼は非常に頭がいい。彼を首相にしてはどうですか?」と言った。驚いたGHQのメンバーは、「彼(野坂)は共産主義者ですよ。共産主義者を首相にするんですか」と言った。
  • 養女の雎鳩(みさご)は、岩田義道の娘である。

自伝[編集]

関連文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 野坂参三名誉議長略歴”. rnavi.ndl.go.jp. 2019年1月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e “野坂参三氏除名を発表 戦前の同志告発など理由 日本共産党”. 朝日新聞東京夕刊: p. 1. (1992年12月28日) 
  3. ^ シネマの天使編(33)”. 産経新聞 (2011年3月25日). 2011年4月17日閲覧。
  4. ^ 日本ニュース戦後編第4号|NHK戦争証言アーカイブス
  5. ^ 竹前栄治『日本占領―GHQ高官の証言』中央公論社、1988年
  6. ^ a b c “共産党、野坂名誉議長を解任 「戦前、同志をスパイ告発」”. 朝日新聞東京朝刊: p. 1. (1992年9月21日) 
  7. ^ 木俣正剛 (2021年1月6日). “共産党の伝説・野坂参三を倒した、お金に全く興味がない2人の記者”. ダイヤモンド・オンライン. 2022年2月2日閲覧。
  8. ^ “野坂参三共産党名誉議長の解任に関する文書<要旨>”. 朝日新聞東京朝刊: p. 2. (1992年9月21日) 
  9. ^ a b “野坂氏旧ソ連に政治情報提供十分あり得ること-外交評論家、沢英武さん”. 産経新聞東京朝刊: p. 2. (1992年12月29日) 
  10. ^ a b “野坂氏への弔詞、共産党は欠席 参院本会議”. 毎日新聞東京夕刊: p. 1. (1993年11月26日) 
  11. ^ a b “参院が故野坂氏に弔辞 共産は反対、本会議欠席”. 産経新聞東京夕刊: p. 2. (1993年11月26日) 
  12. ^ 第128回国会参議院会議録第7号” (PDF) (平成5年11月26日). 2020年3月21日閲覧。
  13. ^ 高井誠「人物ファイル 野坂参三」『萩ネットワーク 78号』、萩市役所広報課内 萩ネットワーク協会、2007年11月、11頁、2024年3月9日閲覧 
  14. ^ 「解説座談会 野坂参三は何重スパイだったのか 立花隆/小林峻一/加藤昭」、小林峻一、加藤昭 『闇の男 野坂参三の百年』文藝春秋社、1993年、ISBN 4163479805、189-210ページ。
  15. ^ 伊藤律「三重スパイ 野坂参三」『文藝春秋』72巻1号、1994年1月、文藝春秋社、310-329ページ。 ※伊藤律による1981年10月25日付の手記を公開したもの。
  16. ^ 「野坂参三、三重スパイ説をめぐって」、ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡』彩流社、1995年、ISBN 4882023555、9-68ページ。
  17. ^ 「8. 四重スパイ・野坂参三」「9. 愛される共産党」西鋭夫、岡崎匡史『占領神話の崩壊』中央公論新社、2021年、ISBN 978-4-12-005453-2、566-574ページ。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]